「惜しまれる神」6/23 隅野徹牧師


  6月23日 聖霊降臨節第6主日礼拝
「惜しまれる神」隅野徹牧師
聖書:ヨナ書 3:1~4:11

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 今朝は与えられた聖書日課の中からヨナ書の後半である、3章4章からメッセージを語ることにいたします。ヨナ書は、よく子どものメッセージで語ることがあり、「魚がヨナを吐き出すシーン」はこどもたちもよく笑いながら「紙芝居を通してのメッセージを聞いてくれた印象があります。

しかし、この箇所はよくよく読んでみると「ユーモアのある面白い話」ではありますが「悪を放置されない、神が裁きをなさるのだ」ということが語られる緊迫感のある話なのです。ヨナ書は、神の「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」という言葉が預言者ヨナに臨んだところから始まっています。

預言者ヨナは「イスラエル人」そして、ニネベは「イスラエルが政治的、軍事的にも対立していた異邦の国の都」です。

神の契約の民である「イスラエル人の悪が神の前に届いた。だから同胞の預言者である、ヨナが、このままで神の怒りが下るぞ!」といって警告した…のではありません。

神が律法を与えたのではない、当時契約の外側にいた「ニネベの民たちの悪」を神はしっかりと見ておられるのです。国籍や福音に触れたことがあるかどうかに関係なく「すべての民の、すべての悪」は神の前に明らかにされるということもヨナ書が教える大切なポイントです。

現在の日本では「多様な生き方」が奨励されるようになっています。もちろんこれは良いことですが、しかし「自由の意味をはき違えている人が、行き過ぎた行動をとっている」ところはないでしょうか?

信仰なんて持つ必要がないし、どう生きようと自分の命をどう使おうと、それは自分の勝手だ… そのような風潮が蔓延している今の日本です。 しかし、すべての造り主である全知全能の神は「すべての人間の悪をご覧になっており、決して放置なさらないのだ」ということをまず心に留めましょう

そして、これが今日の大きなポイントなのですが、「そのニネベの罪を指摘し、悔い改めるように遣わされた」のが、「全く違う価値観に生きていたイスラエル人の預言者ヨナだった」ことが大切なことだと私には示されました。つまり「違う価値観に生きる者に対し、愛をもって接することができない。悪から滅びから救われてほしい…と本気で思うことができない人間の弱さ」が今日の箇所で示されているのではないかということです。

私たちは「教会の中にいて、同じ信仰をもち、同じ価値観に生きる者同士」なら、間違いを指摘したり、より神の御心に生きるために必要なアドバイスをすることは、比較的し易いように思えるのに対し「全く、信仰心がない、神に対しての畏れがない…」そういう人に対して、あなたたちの罪を天地の造り主である唯一の神は、大変怒っておられる。だから身を低くして悔い改めましょう」ということを愛をもって伝えるのは、どんなに大変なことか、ということを思います。

私は正直、「世の中の、神を畏れずに好き放題に生きている人々に対して、愛を持って悔い改めに招くようなことができているか…?」と考えた時、全くできていないことを認めざるを得ませんが、皆様はいかがでしょうか?

「皆さんご自身を、ヨナ」と重ね合わせて、御言葉を味わっていただいたなら幸いです。読み進めましょう。

まず、今朝に箇所の前の1章2章の話を簡単にいたします。

1章では、ヨナが神から「東のアッシリア帝国の都ニネベに行けと言われたのにもかかわらず、反対方向のタルシシュに向かって船に乗り込んで、逃げようとした」ことが描かれます。 皆さんの中には、「職務放棄をするなんて、ヨナは怠け者だなあ」と感じた方もあるかもしれません。私も最初にこの箇所を読んだときは、そのように感じました。 

しかし!今回、ここを深く読んでいるとき、「イスラエルの預言者が、神を畏れない、凶暴な国だったアッシリアにいって、悔い改めの言葉を語れ」というヨナに与えられたミッションがいかに「過酷か」ということが強く心に迫ってきました。ただ凶暴というだけでなく、当時のイスラエルは「アッシリア」の攻撃に苦しめられていました。イスラエルの人々の間には「憎きアッシリア!」そのような思いが蔓延していたと言われています。しかし神は「アッシリアを悔い改めさせるため」に敢えて!ヨナを遣わされるのです。

 私がヨナの立場だったら逃げたかもしれない。いや…逃げるにちがいない…そのようなことを思わされたのです。

さてその後、ヨナの乗った船は、大嵐に遭います。ヨナは「自分を海の中にほうり込めば海は穏やかになる」と船の中にいた人たちに伝え、ヨナは海に投げ込まれます。

しかし、2章には、神が巨大な魚を用意され「ヨナを呑み込ませる」ことでヨナを滅びの中から救い出されたことが書かれているのです。

2章の最後の部分では、ヨナの祈りの言葉が記されています。それは「神に背き、逃れようとした自分を死から救ってくださった神に対しての感謝と、今度こそ神の務めを果たします」という祈りでした。その後、魚から出たヨナに対して、「再び神の言葉が臨んだ」という言葉で今回の箇所3章1節からが始まるのです。

一度は逃げたヨナでしたが、今回は「直ちに神の命令どおりに、ニネベに行った」のです。

3節に「ニネベは一回りするのに三日かかった」とも記されていますが、この大きな都の中でヨナは一日分の距離を歩きながら「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」と叫びました。

ある説教者は「ヨナの短い言葉からは、ニネベの人たちが悔い改めて立ち返り、滅びを免れるように、という気持ちがあったと読み取れない」と言っていますが、私もそのように感じます。「嫌だけれども、自分に与えられた神の務めを果たさねばならない!」その一心ではなかったかと思います。きっとヨナは「ニネベの人々が、自分の語った言葉を気にもとめないだろう」と思っていたのではないでしょうか。

しかし!5 節に記されているように、ニネベの人々はヨナの言葉によって「本当の神を畏れ、悔い改めをした」というのです。とくに「ニネベの王」が、ヨナの言葉を真剣に受け止めて、「王と大臣たちの名によって布告を出して悔い改めのしるしとして断食をするように命じた」ということが7~9 節に記されています。

断食は「ひたすら神に祈ること」の一つの方法です。断食をすれば「神の怒りを免れる」というわけではありません。しかし「少しでも悪の道から離れれば、もしかしたら、神が怒りを静めてくださり、滅びを免れることができるかもしれない…」そんな風に切迫した思いと緊張感をもって、ニネベの王をはじめ、ニネベの町のすべての人は悔い改めたのだと、聖書は教えます。

この「緊張感をもって自分が神の前に裁かれるべき罪人である」ということを認めつつ、悔い改めの姿勢を何かの形で表すことの大切さ」は時代を超えて、すべての人間に教えられていると私は受け取ります。

 そして10 節、神はニネベに対して、「彼らの業、彼らが悪 の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」と記されています。神はヨナを通してかたられた「警告、悔い改めの促し」を通してニネベが、「悪の道を離れ、悔い改めた」のをみて思い直されたのでした。

よく言われるのが「ここで終われば、ハッピーエンド」なのです。しかし!ヨナ書にはもう1章続きがあります。実はこの4章こそ「ヨナ書の本当の主題が表されている重要な箇所」なのです。4章を深めてまいりましょう。

1節2節をご覧ください。ニネベに対して下されるはずであった災いを神が思い直されたことは、ヨナにとって不満であって、ヨナは怒りを露わにしたと書かれています。

ヨナは「わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐強く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」と言います。この言葉の背後には「なぜあなたは、アッシリアを滅ぼしてくれなかったのだ!」という思いがあります。イスラエルの預言者であるヨナは、アッシリアの「あの憎むべき都ニネベが滅びを免れることが許せない」と思ったのでした。

その「許せない思い」というのは、「もしもこんなことがまかり通るなら、生きているよりも死んだ方がましだ」と思うほどに激しかったのです。

ヨナはこれだけの怒りの思いを神にストレートにぶつけましたが、これでは気が収まらなかったのです。4節で神から「あなたの怒る思いは、果たして正しいと思うのか?」という語りかけがあったにも関わらず、ヨナはそれを振り払うようにして「ある行動」に出ます。それが「都がどうなるのかを見届けようとする」ことでした。これは「ニネベが滅ぼされるのを目撃したい」というヨナの自分勝手な思いからでした。

そんな「身勝手なヨナ」に対し、神は「あることを通して学ばせよう」とされます。それが「唐ゴマの木を生えさせ、そして枯らされる」ということでした。

6節をご覧ください。ヨナは唐ゴマの木を非常に喜んだ、とあります。

私は「怒りや復讐心にもえていたヨナが、こんなことで喜ぶのだろうか?」と以前から疑問をもっていましたが、今回ある注解書に書いてあった次のことで合点がいきました。

「ヨナが喜んだのは、神が自分に対し特別な配慮をして下さったことに対する自己満足のためでしかなかった。神が唐ゴマを枯らしてしまわれたのは、自己満足に陥っていたヨナを諭すためである」                 

こうしてみて来ると、聖書が伝えようとしている「ヨナの心の内」が少し分かるのではないでしょうか?

自分や自分の同胞であるイスラエルだけを「神が大切にしてくれる」と思った時は喜ぶ。しかし「そうでない」と感じた時は「不機嫌になる、怒る」それがヨナの本性として聖書が描こうとしていることだと私は思うのです。身勝手で、「自分の思いが叶えられない、自分が正しいとおもっていることが、妨げられる」とすぐに「生きているより、死んだ方がましだ」と暴言を吐くのです。 ヨナ書は、悔い改めを待たれ、「滅びではなく、正しく生きることを選び取ってほしい」とすべての人間を待っていて下さる神と、それに対し、「弱く、心の狭い人間」としてヨナが対照的に描かれているのです。

私は自分がヨナと似ていると改めて感じますが、皆様はいかがでしょうか?

今日の説教題に「惜しむ神」と付けました。これは11節の言葉からとったものですが、神が惜しまれた命は「ニネベの12万の人間や、数多くの家畜」とともに、なにより「ヨナの命だ」ということが今回私には迫ってきました。

神がニネベにいって語れたといわれたことに背き、いったんは生かされていることに感謝し、任務を遂行するも「神のみ旨をさとり語るのではなく、どこか義務的にかたり、相手を思う愛が欠けている」そんなヨナ。 神が裁きを止められたことに一方的に腹を立て、そして「唐ゴマ」が生えたこと、また枯れたことも「自分の都合で、自己中心的に捉えた」そんなヨナこそ、「神の怒りが下っても仕方がない」そんな命であることを聖書は教えます。

ヨナ本人は「自分は、神に特別に選ばれたイスラエルの預言者だ」という自己満足な思いがあったかもしれませんが、神の前には「ニネベの人々と同じ、罪人」であるのです。

しかしそんなヨナを神は愛されます。ヨナ書は4章の11節の言葉で唐突に終わっている感じがしますが、ヨナもまたニネベの人たちと同じように「悔い改めに導かれた」のではないかと思います。そして今度は「狭い心だったことを悔い改めて、新しく御言葉を語る者」に変えられたのではないか、そのよう考えます。

何度逃げ出しても、どんなに自分勝手な考え方が強くても、それでも神は見捨られず「ときには、大きな魚や唐ゴマのようなものも特別に用いて」再生させてくださるお方です。それは私たちがただ漠然と生き続けるためではありません。「神の御心を成し」そして自分が愛することのできない相手にも「神の御心を語る」者となるようになるためです。神の愛の導きによって、罪深い私たちを変えていただきましょう。 (祈り・沈黙)