「皆、一つの体となるために」5/11 隅野徹牧師


  5月11日 復活節第4主日礼拝・母の日
「皆、一つの体となるために」隅野徹牧師
聖書:コリントの信徒への手紙 一 12:3~13

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 今朝は…最初に私や瞳牧師が学んだ「東京聖書学校」の話をさせてください。

東京聖書学校は、神学や聖書学、説教学などの学び以外に「ピアノ演奏」や「習字」そして、寮生活では「食事作りの実践」などがありました。これは将来現場にでたとき「独りだけでも伝道していくために、必要なスキルを身に着けるためだ」と聞いていました。

しかし、実際には「身に着けた」とはとても思えません。逆に「自分の苦手なこと」「がんばってやろうとしても、どうしてもできるようにならないこと」を身に染みて学ぶための「実践だった」と今になっては思います。

当時いた神学生はみな「違う賜物」が与えられていて、それぞれに「得意な分野、苦手な分野」があり、だれも「独りだけでも伝道していくために、必要なスキルを身に着けられた人」はいないように見えました。しかし、金子みすゞさんの詩のように「みんなちがってみんないい」ということを「心から、そうだ」と思えるようになったのはこの頃でした。

自分にない賜物をもった人の力を借りる、あるいは「協力をもとめる」ことで、教会は立て上げられていくのであって、「なんでもかんでも一人できてしまうスーパーな人」だけで教会は立てられるのではないことを学びました。

みなさんお気づきの方も多いと思いますが、私と瞳牧師は得意なこと、不得意なことが「真逆である」ものが本当に多いです。だからこそ、協力するようにと神さまが導かれているのかな、と捉えています。

そして私と瞳牧師の足りない所、苦手なところを教会の皆様が「与えられた賜物」でカバーしてくださっていることにも、本当に感謝しています。

もちろん苦手なことも「克服できるように、逃げずにチャレンジ」していくことを志しますが、でも…この先も、皆様の与えられた賜物を豊かに用いつつ「皆で支え合いながら、教会を立て上げ、キリストの福音を宣べ伝える」ことを目指していきたいです。

さて今朝は聖書日課で選定されている箇所のうちコリントの信徒への手紙Ⅰ123節以下を選ばせていただきました。

選ばれた箇所の最初の節の3節にこうあります。「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」

教会で洗礼を受ける人は皆「イエス・キリストは私の救い主である」と告白して洗礼を受けます。聖霊が注がれることによって、信仰が与えられるのです。だから洗礼を受ける者は皆、本人に自覚があるかを超えて「聖霊を受けた!」ということができるのです。

しかし、神の霊である「聖霊の働き」というのは、「イエス・キリストを自分の救い主だ、と信じるように働く」だけではありません。もっと広く、日常的なことの中に「聖霊の働き」は溢れています。

お祈りするのも、讃美歌を歌うのも、感謝することも、みんな聖霊の働きの中で起こっています。このように聖霊は「意識しないような、何気ない日々の歩みの中で」、いつでも働いています。

今日の説教はこの3節に続く箇所を中心にして語らせていただきます。

たった今「聖霊は私達の気づかない所で、広く日常的に、様々な働き方をする」ことをお伝えしましたが、「一つの大切な働き方」として「違いをもった一人ひとりを一つにする」ということが挙げられます。

説教題につけたように「皆が、一つの体となるために、働いている聖霊」について御言葉を味わいたいと願います。

まず46節をご覧ください。こういう言葉がでます。

「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。」

ここで、同じような言い方が三回繰り返されています。「賜物」「務め」「働き」と、与えられるものが言い換えられています。

一つ目にでてくる「賜物」ですが、私たちに与えられている能力のようなものをイメージしていただいて良いと思います。

でも、心に留めるべきことがあります。それは「賜物」は、神が聖霊によって与えられたものなのですから、比較したり、自慢するものではない!ということです。これはとても大切な点です。どんなに素敵な賜物を与えられていても、それを誇り始めますと、決して神様の栄光を現すことは出来ません。自分の栄光を求めるという間違いを犯してしまいます。

そのことは、次に出る「務め」「働き」という言葉が出ることによって明らかになります。

この「務め」と訳されている言葉は直訳すれば「仕えること」という言葉になるのだそうです。誰に仕えるかといえば…もちろん「神に対して」です。「働く」ももちろん同じ意味に捕らえられます。神が愛しておられる隣人に仕える、世の中、社会に仕えるということになります。

このように賜物は、×「自己満足のために与えられているのではなくて」、◎神に仕え、神の御業のために「働く」ために与えられている、ということを聖書は教えます。

次に7節に注目しましょう。

「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」と語られます。

ひとりひとりに違う「聖霊の賜物」が与えられて、「神のみ旨による務め、働き」がなされるのは、「全体の益となるためなのだ」と教えられているのです。

×自分がどう思われるのか、評価されるのか、賞賛を受けるのかが大切なのではありません。◎聖霊の賜物は、それぞれの家庭や教会、そして社会や世界全体の益となるために与えられており、用いられていくのです。

8節以下にはパウロが「コリント教会全体」を具体例として、具体的な「聖霊の賜物」を記しています。「知恵の言葉」、「知識の言葉」、そして「信仰」がでます。

これは「強い信仰」ともいえる言葉です。つまりは「普通の人であれば、信じることが困難になるような状況に陥っても「揺らぐことなく、信じ続けられる、そんな信仰をもった人」のことです。

続いて、「病気をいやす力」「奇跡を行う力」「預言する力」「霊を見分ける力」「異言を語る力」「異言を解釈する力」が列挙されています。

実際に当時、コリントの教会においてそのような賜物を持った人たちがいたのであろうと理解されています。しかし!コリントの教会においてはその賜物を持った人たちが、賜物を比較し、優劣を語り、教会が混乱するという状況があった…だからパウロはこの手紙を書いたのだと言われています。

 聖霊によって賜物、恵みとして様々な力が与えられる。それは素敵なことです。しかし、先ほども申しましたがそれはあくまで「神が与えてくださったもの」ですから、自ら誇るべきものではありません。

今回の箇所の最後の11節を見てみましょう。

「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」とあります。

神は聖霊によって、「一人一人に」それぞれに異なった賜物、恵みを与えてくださっている、と語られています。

今回の箇所のもう少し先の所でパウロは、教会をキリストの体にたとえて話します。「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」と言っている箇所を「知っている」という方も多くあることでしょう。

聖霊の賜物は、それぞれに違う「実に多様なあり方で与えられているもの」です。一方で、この多様な賜物はバラバラではなく統一性があるのです。

「神の聖霊によって与えられている」のですから、その賜物には「神の意図に添った」「御心に適った用いられ方」というものがあるのです。

今日のメッセージの「結論として」、その「違いはあるけれども、神にあって一つである」ことを味わっておわりたいとおもいます。

7節に「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」とあるように、まさに「全体の益となる」ために、一人ひとりに違った賜物が与えられている、ということです。

この「全体」とは、教会全体ということを指すとともに「社会全体」を指していると私は理解しています。  

教会の中に、「さまざまな違った賜物をもった人がいて、お互いを支え合い、全体が一つとなって歩むことができるように、社会の中にも「教会につながり、イエス・キリストを信じるクリスチャン」の賜物が、神によって用いられていて、それで世の中が回っているのだということを心に留めて歩んでいただきたいと願います。

どの教会も、人数が少なくなり、運営や維持が大変になっています。しかし、教会はこの社会のなかで「無くなってよい存在」ではなくて「必ず、無くてはならない存在なのだ」と思います。

今日の箇所から「神が世の中全体のために、聖霊の賜物として教会を与えてくださっている」ことを読み取ることができ、そのことから慰めを与えられる思いがします。

「キリスト教会が、この世で無くてはならない理由」はたくさんのことから語ることが出来ますが、私がおもう「教会がこの世に存在する最も大切な理由」とは…「この世の中で祈りの場所であり続けること」そして「教会に集う人が、祈り支え合う共同体としてこの世で証しをたてる」ということだと思います。

独り子をこの世に送りたもうほどに私達を愛する「神の愛」に基づいて、社会の中の様々なことを祈る場所として、存在する教会。目にみえる現実は厳しくても「神の愛が、世界を包むように、まわりにいる人々を包むように」祈るために、神は聖霊を与え、「教会を教会として歩ませてくださる」のだと信じています。

将来の教会運営・維持には決して安泰な状況ではありません。しかしそんな中でも「神が世界全体のことを覚えて、聖霊の賜物を教会に与え続けて下さるのだ」ということを心に留めて歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)