「神に従う人は信仰によって生きる」6/16 隅野瞳牧師

  6月16日 聖霊降臨節第5主日礼拝
「神に従う人は信仰によって生きる」 隅野瞳牧師
聖書:ハバクク書 2:1~4

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 本日は主の約束の実現を待ち望む人について、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。

1. わかりやすくはっきりと御言葉を伝える。(2節)

2. 神は救いのご計画を、神の時に必ず実現される。(3節)

3. 神の真実によって生きる者は、喜びに満たされる。(4節)

 

本日は十二小預言書の一つ、ハバクク書から主の御言葉に聴きます。ハバククは紀元前七世紀、バビロン捕囚の少し前の預言者と考えられています。南ユダ王国にはヨシヤ王が立てられていました。ヨシヤは主に心を向ける王で、律法によって悔い改めに導かれ、民が偶像礼拝からまことの神に立ち返るように改革をしました。しかし彼は戦死してしまいます。南ユダの脅威となっていたアッシリアは滅びましたが、今度はバビロン帝国が興り、エジプトの脅威もある中で、南ユダ王国は衰退していきました。

「わたしは歩哨の部署につき 砦の上に立って見張り 神がわたしに何を語り わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。」(1節)

ヨシヤ王の後に即位した王たちは神に従わず国の政治は混乱し、内部には不正と暴力があふれていました。 そんな中でハバククは、「いつまで、どうして主は聞いてくださらないのか。神の民が不法や争いに満ち、律法は無力となっています」と主に訴えます(1:1~4)。祈っても祈っても神が沈黙し、何もしてくださらないように思えたからです。これは不信仰ではなく、神との信頼関係ができているからこその祈りです。さて、ハバククに主は答えてくださいましたが、それは他国を占領する冷酷なカルデア人(バビロン帝国)を起こすということだったのです(1:5~11)。

 ユダの暴虐を裁く器はカルデア人だとの神の答えを聞いて、ハバククには新たな疑問がわきました。確かにユダは主に罪を犯したけれども、容赦なく諸国民を殺し略奪するバビロンがユダを罰することは、正しいことなのか?ということです。自分の力を神とするバビロンを、主は放っておかれるのですかとハバククは再び訴えました(1:12~17)。

 

1. わかりやすくはっきりと御言葉を伝える。(2節)

ハバククは真剣に神からの答えを待ちました。わたしたちもまた、神に向かって粘り強く祈り、御言葉を待たなければなりません。神はハバククに、バビロンは神の定めた時に必ず滅ぼされるとの幻を与え(2:5〜20)、その内容を板の上に書くように命じられました。自分の力を神としたバビロンも、やがては主によって裁かれることになるのです。

「主はわたしに答えて、言われた。『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように 板の上にはっきりと記せ。』」(2節)

幻というのは、神の意志を視覚的に預言者に知らせるものです。主はハバククに与えられた幻を、走りながらでも読めるように書き記しなさいと言われます。「走りながらでも読める」とは、誰が読んでもはっきりと分かるという意味です。私たちにあてはめるなら、神がお与えくださった救いや日々気づかされた恵みを自分だけで留めない、そして他の人がわかるように表すことでしょう。

「走りながら読む」という言葉から、私は道路の案内標識が思い浮かびました。それを見れば自分がいる場所や、左に行けば○○方面に行ける等が一目でわかります。小さい道でしたら、私はお店の看板も頼りにして目的地に行きます。それが外されてしまったりすると、途端に迷子になってしまいます。新幹線の線路沿いの看板もありますね。新幹線は車より速いので、読み取れるために大きい看板は5×10mもあるのだとか。 

看板は小さい字であれこれ説明せず、最小限のことだけが書かれます。看板は「ここに○○がある」と存在を知らせ、あるいはそこに導く働きをします。パウロはこのように記しています。「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。」(Ⅱコリント3:3)私たちのまわりにいる人は、教会につどうクリスチャンを「読んで」聖書のいう救いとは何か、キリストとはどのようなお方かを知るのです。

クリスチャンの詩人、八木重吉の詩を紹介します。

愛のことばを言おう ふかくしてみにくきは あさくしてうつくしきにおよばない 

しだいに深くみちびいていただこう まずひとつの愛のことばを言いきってみよう

私は人とお話しするのが苦手です。でも一言ならできます。聖書の言葉そのものでなくても、「ありがとう」「一緒にやりましょう」「神様がきっと、何とかしてくださるからね」…内に住んでくださる聖霊が語らせてくださる言葉を自分らしく伝えていきたいです。神の愛の看板になりましょう。つたない私たちの一言でも、そこに主の愛があるならば、主が相手の方を御言葉の深いところへと導いてくださるはずです。

 

2. 神は救いのご計画を、神の時に必ず実現される。(3節)

「定められた時のために もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。」(3節)

書き記すように命じられた幻の一つ目は「主がバビロン帝国を滅ぼす」というもの、そして3節にある「もうひとつの幻」は、終わりの時に神の救いが完成するということです。ハバククは、神がなぜカルデア人を用いるのか理解できませんでした。しかし神は御自身の救いの時が定められており、それは計画どおりに進んでいること。最終的にすべてのことが最善に成ることを信じて待つように、ハバククに語られました。神を信じる私たちもまた、「今の自分には理解できないことがありますが、それでも私は神の約束を信じます」との告白に導かれるなら幸いです。

待つことは、相手を信頼し任せることですね。私たちは自分が思った通りすぐに相手や物事が動かないと、聞いていないのではないかとイライラし、無駄だったと結論を出してしまいますが、もしかすると相手は一生懸命考えたり、試行錯誤しているかもしれません。私たちの知らないところで何かが動き始めているけれども、まだ表に出すことはできないのかもしれません。神はなおさら私たちの思いを超えておられ、造られたものすべてにとって一番よいことを成されるお方です。

神の時は、私たちの考えている時とは違います。自分の思う通りにすぐ祈りを聞いてほしい、なぜこのようなことが起こるのか教えてほしいと私たちは祈ります。しかし私たちには思い通りにならない動かない時、わからないことがあります。そのとき私たちは主に出会い、へりくだりに導かれます。

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」(コヘレト3:11)。

神の時は、人の目には遅く感じられます。しかし終わりの時に向かって確実に、主の中で急ぎ準備され、実現しつつあることです。ですから忍耐深く待つことが必要です。私たちの期待する時ではなく神が定めた時こそ、私たちにとって最善の時です。

ハバククが待ち望んだ救いの約束は今やすべての人に開かれました。私たちは、神が確かに救いの約束を実現されたことを知っています。そして私たちは、主イエスが再び来られる時に完成される救いを待ち望む途上にあります。私たちの日々にどんなことが起こっても、終わりの日、救いの完成に向かって前進する力強い神の歴史の中に、私たちは生かされています。主イエスが再び来られ、新しい天と新しい地が来る時、そこにはもはや死も嘆きも、労苦も病もありません。死と悪が滅ぼされ、神が私たちの涙をぬぐい取ってくださいます。罪深く弱い私たちもキリストのごとく朽ちない体に復活し、神の国を受け継ぎ、聖徒たちとともに顔と顔とを合わせて主を礼拝するのです。なんという恵みでしょう。この日を待ち望む時に、私たちに今日を生きる力が与えられます。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ8:32)イエス・キリストの十字架と復活の出来事を通して、神の勝利と、神のわたしたちへの愛がはっきりと示されています。私たちにキリストを遣わし信仰に導き入れてくださった神は、最後まで私たちを導き、完成へと至らせてくださいます。

 

3. 神の真実によって生きる者は、喜びに満たされる。(4節)

「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(4節)

この4節は教会の信仰の最も大切な真理として、新約聖書に 3 度引用されています(ローマ1:17、ガラテヤ3:11、ヘブライ10:37~38)。神は御自分の民がどのように生きるべきかをハバククに示されます。神の言葉を信じないでおごり高ぶる者、自分を神とするカルデア人のような者の心は当然、神の目から見て正しくありません。では神の御前に正しい者とされるのはどのような人か。それは信仰によって生きる人です。

この「信仰」はエムナー、「真実」と訳される言葉です。祈りの最後の「アーメン」(真実です、同意します)と同じ語源です。この祈りは救いの約束をことごとく成し遂げられた、主イエスの真実によって確かなものとされています、という意味です。「信仰によって生きる」とは、私たちが神に対して誠実に信頼して生きることでもありますが、神の真実が根本にあります。私たちが神を信じて生きることができるのは、神が常に真実な方だからです。神の圧倒的な愛と真実が変わらずに私たちに注がれているから、希望に生きることができるのです。

信仰とは、神の真実によって生かされることです。わたしたちは信仰を、神を信じる思いの強さだとか、どれだけ熱心によい行いをしているかだと考えることがあります。しかし信仰は自分の力で手に入れたり手放したり、強くなったり弱くなったりするものではなく、神によります。神の御子が人となり、私たちに代わって十字架に死に、三日目に復活されました。この方を私の救い主と信じる者は罪赦され、神の子とされて、永遠の命に生きる者となります。これを信じ受け入れるならば、誰であろうと救われます。

「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。」(Ⅱテモテ2:13)主はご自分のもとに来てその救いを受け取った者を決して見捨てられません。たとえ私たちが主を忘れ、離れたとしても、主は変わらず「あなたはわたしの愛する子、私はあなたの救いである」と宣言して下さいます。神が私たちを愛し、永遠の命に生きる者としてくださいました。ただ感謝をもってその恵みに生き切る、それがクリスチャンの歩みです。

ハバクク書がどう締めくくられているかを見ていきましょう。神の救いの実現を、この世でハバククが見ることはできませんでした。それどころか3:17~ではバビロン帝国によってユダが攻められ、飢餓が襲い家畜も失われていく様子が記されているのです。けれどもハバククの信仰は変えられています。

「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。」(3:18)

彼は信仰によって救いの実現、イエス・キリストの到来と、終わりに救いを完成させてくださることを仰ぎ見たのです。それはアブラハムに与えられた信仰でもあります。

「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。」(ローマ4:17口語訳)

自分にはまったく可能性がない、道が閉ざされていくとしか思えないアブラハムに、神は彼の子孫を天の星のように増やし、そこから全世界の祝福が始まると約束されました。神はその約束を決して忘れず、主イエス・キリストを通してすべての人に救いを実現して下さいました。神がお与えになる命は、私たちが持っているものや努力を重ねたところからは、出てきません。無から有を創造したもう神のみが、私たちに永遠の命をお与えになることができるのです。

そうか、そうですよね。神はそういうお方だったのですよね…。すべてはわからなくてもハバククの心に、このことがストンと落ちました。旧約の信仰者たちは信仰の目でやがて来られる救い主、天の故郷を熱望し、喜んで地上の旅路を歩みました(ヘブライ11:13~16)。それは全てが閉ざされ苦しみの極みにあっても、なお神に訴え、どんな時にも共にいて最善となしてくださる神を信じる喜びです。神が真実な方であるから、私たちは決して変わることのない希望を持ち、忍耐し、神の約束を待ち望むことができるのです。

私たちには自分の救いの完成がいつどんなふうになるかは分かりませんが、主を信じた時から、私たちには命の光が差し込んでいます。そして、いつか私もまったくあの光の中に入れていただくのだという希望を与えられます。私たちのまわりには信じられないことばかりで、自分もすぐに揺らいでしまうものです。けれども御子は主の約束の通りに私たちのもとに来られて、十字架と復活の御業を成し遂げ、本当に神は私たちを愛してくださっているのだとはっきり表してくださいました。「私のもとに来なさい」と招いてくださる主の光のほうへ私たちは歩き出し、救いを受け取ります。その歩みを続けるほどに、私たちは主が真実であられることを知るでしょう。そして「今は苦しいけれども、それはいつまでも続くものではない、神の世界に向かう途中なのだ」と、心から証できる者にされるのです。

「坂本さんの笑顔は、たくさんの苦しみを通って出てきたものなんですね。」とある方がおっしゃっていました。立ち上がれないような日々にも、主が彼女を背負っていてくださいました。御言葉が彼女を癒し、苦しい生活の中でも主を第一としていった時に仕事が与えられ、いつしか彼女の家には多くの方が訪れてお料理やお茶をするようになりました。彼女の喜びは主から来るものでしたから、私も含めて多くの方が彼女の存在によって慰められ、力づけられ、信仰に導かれていったのです。

教会にはこの世の輝かしいものはありません。けれども私たちのうちに主が共におられる時、試練の中にありながらも信じ、喜び、何も持っていないようで満たされており、その希望は失われることがありません。苦しみの中にある方が、私たちの内にこの世にはない希望の光を見、安心し、神に出会うことができるなら幸いです。建物ではなく信じ集められた私たち皆が「教会」です。その私たちの心の扉を開いていきましょう。「それは必ず来る、遅れることはない。」主の再び来られる時を待ち望みます。主の真実に支えられて、ここから遣わされてまいりましょう。