「隠されていた神秘としての神の知恵」8/11 隅野徹牧師


  8月11日 聖霊降臨節第13主日礼拝
「隠されていた神秘としての神の知恵」隅野徹牧師
聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 2:1~10

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 今朝は、与えられた聖書日課の中から、コリントの信徒への手紙一の第2章1節以下からみ言葉に聞きたいと思います。

聖書からのメッセージを語る前に、「ここ最近の教会のトピックから私が思い出したこと」をお話しさせてください。

7月28日に古賀博牧師、悦子夫人をお迎えしお話ししたことで、「信徒時代のこと、神学生の時代」そしてその後「牧会や説教のことで、随分と相談に乗っていただいて、今の自分があるのだ」ということを改めて思いました。

信徒奨励ということで、私がこの講壇に立ってはなさせていただいたのは、神学校に入る直前の2003年2月だったと思います。奨励をするに当たり、どういう風に語るのか…ということが不安になった私は、古賀先生に対し「牧師は普通どのようにして説教を組み立てて作るのですか?」とアドバイスを求めたと記憶しています。

その時、古賀先生は当時の牧師室に並んでいた注解書をいろいろと見せて下さり「こういう本をたくさん読んで、そこから自分がこれだ!と思うものを引用してメッセージを組み立てるとよい」と教えてくださったのを思い出します。

結局2003年春の信徒奨励は、なにか「聖書の解説書」のようなものは用いずに語りました。まだ神学生になったわけでないので、「聖書の言葉の細かい解説を私が語るのは違うだろう」とおもって、「献身に導かれた自分の証しと、その時の思い」をストレートに語ることにしたからです。

その後、神学生になり山口信愛に「長期休み」などで戻るたびに、「神学生の奨励」としてメッセージを語ったのですが、「さすがに神学生なのだから、自分の証しだけではまずいだろう。聖書の詳しい解説なども織り交ぜてかたって、母教会の人たちに成長した姿をみせなきゃ…」そんな思いに変わっていきました。

古賀牧師から、おすすめの注解書を聞き、信愛教会をはじめ、様々な教会の信徒さんたちからのカンパで「注解書を少しずつ買い揃え」ました。いまでは瞳牧師がもっていたものと合わせて相当数の注解著が「牧師室」と「牧師館」にあります。

でも最近、注解書頼みになりすぎている自分に気づかされるのです。

今日の聖書箇所のⅠコリント2章では、「ギリシャ人である程度の学問をもつ、コリントの人たちの間で語ることが、恐れで不安だった」ということが書かれています。とくに3節からそれが分かります。

わたしも信徒から献身者となり、変に御言葉をかたることが恐れで不安になり、「知恵を語ろうと力が入っていた」ことに気づかされます。

 さて、古賀先生にご用いただいたわずか3日後、私と瞳牧師の学校の後輩で萩市出身の来島絵美子神学生に、山口信愛教会の祈祷会で話していただきましたが、それは「本当にストレートなキリストの働き」を証しするものでした。

私が神学生のときに陥ったような「知恵に溢れた言葉にしなければ…」という気負いはなく、Ⅰコリント2章4節の言葉のとおり「聖霊と力の証明」そのものでした。

先ほど申しましたように、私の説教は、変に「神学や、聖書学、説教学」といった人間の知恵に頼るものになりすぎていたと思います。もう一度原点に返って、2節のことばのように「十字架のキリスト以外何も知るまい、語るまい」という気持ちをもって、キリストの十字架と復活の恵みをシンプルに語ろう…そのように示されたのであります。

今日は、聖書日課に示されたⅠコリント2章から語りますが、とくに中心に語るのは6節から10節です。 主にお語りする内容として「キリストの十字架に秘められた神の知恵」を挙げさせてください。ともに御言葉を味わいましょう。

今回の箇所で「知恵」ということばをパウロは繰り返し語っています。

 さきほどご紹介した4、5節以外に、1節にも「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」とあります。自分は、主イエス・キリストのことを宣べ伝えるのに、知恵を、知恵にあふれた言葉を用いないのだ、ということをパウロは強調しているからなのです。

 しかし、6節に入ると今度は、「わたしたちは知恵を語るのだ」といっていて、逆のことが語られるのです。

これから何がわかるかというと、パウロは「語るのに知恵を絶対に用いない」といっているのではなく、信仰に即した知恵というものがあり、それを用いて語るのだ!といっていることです。 

パウロは6節で「信仰に成熟した人たちの間では知恵を語る」と言っています。この場合の「信仰に成熟した人々」とは、文脈から考えるならば「知恵を語り合うことができる」ということになるのではないか…と私は考えます。さらに分かること、それは「この知恵は6節後半にあるように「人間の知恵、この世の知恵ではない」のです。

そして「パウロが語る知恵」とは何なのかの結論は7節前半に出ます。「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり」とある、まさにそれを語ろうとしているパウロなのです。

人間の知恵と神の知恵の違いとは…、人間の知恵が「人に対して、発表する、表に出そうとする」性質であるのに対して、神の知恵は「隠されていた、神秘としての知恵」なのだと言われています。このように神の知恵は、隠されている!神秘なのだ!ということです。

「隠されていた」とか「秘められた」とあるように、これは私たちが自分の力で知ることができない、理解し、分かってしまうことのできないものです。そこに、人間の知恵と神の知恵の根本的な違いがあります

人間の知恵は「自分のものにしてしまうことができるもの」です。所有することができるのですから、「自分の知恵と人の知恵とを比べて、誇ったり、劣等感を抱いたり…」そういう優越感や劣等感を生むものは全て人間の知恵です。

パウロがこの手紙を書いた信徒たちのいる「コリントの町」は、神殿や娼婦ど異教的な文化がある一方で、ギリシャ哲学の影響もあって「人間的な知恵・知能」が幅を利かせる町でした。「もともと異教文化が強く」「学問や知識・知恵優先」の町コリントで、パウロが人々に宣べ伝えようとしたこと…それは「神が人となって、この世に来て、罪深い人間と友に生きられた。その後ユダヤ人たちの陰謀で十字架にかけられ、処刑されたが、神の力によって復活された。」という福音でした。

これは「もともと異教文化が強く」「学問や知識・知恵優先」の人たちにすぐに理解してもらえる内容ではなかったのでしょう。馬鹿にされたり、罵倒されたりということも多かったのではないかと私は考えています。だから3節にあるように「衰弱し、恐れに取りつかれ、不安だった」のではないでしょうか。

しかもそんな町「コリント」で、苦労しながらパウロが礎を築いたコリントの教会ではすぐに「党派、分派問題」というのが起こりました。党派のそれぞれが「自分たちの持っている人間的な知恵を誇り、互いの優劣を主張して対立していた」と言われています。

だからパウロは「教会を立て上げていく、そして人々に宣べ伝えていく、神の知恵は、ある人が独り占めできるものではないのだ」だから「本当の神の知恵とは、比較したり優劣を競うことはできないもののはずだ」ということを伝えたくて、この手紙を書き、コリント教会に悔い改めを促そうとしているのです。

さらに…神の知恵とは、「人間には隠されている、神秘なものである」ということをパウロは語ります。別の聖書の訳では「神の秘められた計画」というふうな言葉になっていますが「人間が理解し、自分のものにしてしまうことはできない」のが神の救いの業です。

イエス・キリストの十字架の死と復活による「人間を罪から救い出す恵みの業」は、人間の誰もが予想することを大きく上回るものです。そのことを聖書自身が証ししています。9節の「しかし、このことは、『目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された』と書いてあるとおりです」というイザヤ書64章3節であろう、言葉の引用もはっきり表しています。

今日のメッセージのまとめに入ります。

神は、私たちを愛して下さり「これまで誰も聞いたことも考えたこともないような驚くべきことを、私たちの救いのために備えて下さった」それが、イエス・キリストの十字架の死と復活による救いの業であり、これこそが7節で言われているところの「隠されていた、神秘としての神の知恵」なのです。パウロはこの神の知恵を「人間の知恵をひけらかすようにしてではなくて」語るのだ!と言っているのです。

この「隠された神の知恵の語り方」が大切なことだと私は今回強く感じました。

どんな罪人でも、分け隔てなく愛されているという「キリストの十字架に示された神の愛」を語るのに「人間的な知恵」はときに邪魔をするときがあるのだと。どんな神学校で、どんな神学論文を書いたとか…そういうことにこだわると、純粋な神の救いの業を証しに、余計なものが混ざってしまっていることになり、十字架の恵みによって新しく生きる恵みは生き生きと伝わることがなくなってしまう…自戒を込めて、この箇所を私は受け止めました。

 大切なことのポイントは6節の言葉に隠れていると考えます。

パウロは「信仰に成熟した人たちの間では、知恵を語ります」といっていますが、この「信仰に成熟した人たちの間」という言葉がものすごく重要なことばであると考えます。

 どういうことかというと「信仰者たちの間で、十字架の恵みによって新しく生かされた証しを生き生きと語り合うこと!」それが大事だということです。

 十字架の恵みをそれぞれが生き生きと語り合う教会…そこには、コリントの教会が陥ったような「誰々は知恵があって、誰々はない」などと人を見下したり、分派ができたりということはないと私は信じています。

 多様性の世の中だと言われ、極端な考え、たとえば一部の人を悪くいうような考え方だったとして「それも一つの意見だ」として尊重されるような世の中になっています。そんな時代にあって、私たち山口信愛教会は「隠された神の知恵による恵みをどう受けたか」を生き生きと語り合う教会として歩んでまいりましょう。

 今日はお盆前ということで久しぶりの方々もご出席してくださっています。ありがとうございます。今週末には、津和野への教会遠足に初めての方を含む多くの方々が参加を希望して下さっています。 本当に感謝です。

 キリストは、山口信愛教会の会員だけに「神の知恵としての救いの業」をなしてくださるのではなく、もちろん久しぶりの方、初めての方にも「溢れるほどの愛で、導いていて下さるのです。 もし、神さまイエスさまについて、また教会について「こんなところに惹かれるな、嬉しく感じるな」ということがあったら、ぜひお聞かせください。 一人の人が独占することが出来ず、みなで「感謝して分かち合い、語りあうことができる」ところにこそ、世の知恵とは違う「神の知恵」があることを、ぜひ心に留めていただくと幸いです。(祈り・沈黙)