11月12日 聖霊降臨節第25主日礼拝
「あなたによって祝福される人」隅野徹牧師
聖書:創世記 12:1~9
今朝は、「聖書日課」のうち、旧約聖書の創世記12章1~9節を選びメッセージを語ることにしました。
創世記は、聖書の一番初めの文書です。この書が教えるのは、「神の祝福を受けて創造された人間が、罪を犯して神に背き、神から離れていった」歴史です。聖書は人間が生きていくための格言だけが並べられている書ではありません。「人間が神のよって創造されたにもかかわらず、神に背を向けて、罪にまみれていく様子」を赤裸々に記しています。
しかし!神は背を向けた人間を見捨てられない」ということも聖書ははっきり示します。神は人間を罪から救う「業」を行われるのです。今日読んだ箇所も、その一つです。一人の人を選び、彼に一つの民族を形成させ、その民族を通して人を救うことを計画されました。それが
「アブラム」後の「アブラハム」です。アブラハムが神に呼ばれ、その声に聞き従って旅立ったことが「すべての人間にとって、かけがえのない出来事なのだ!」 そのように教えられています。ぜひ皆様も、アブラハムの旅立ちと、ご自身を重ね合わせて御言葉を味わっていただいたなら感謝です。 ともに御言葉を味わいましょう。
1節をご覧ください。「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」
この言葉が語られる前段階の話をさせて下さい。
直前の創世記11:31に出るのですが、アブラハムは父テラの時代に、カルデアの「ウル」からハランまで移住しています。ウルはユーフラテス川とチグリス川が交差する河口の町、メソポタミヤ文明発祥の地です。そこでは月神が礼拝されていました。太陽や月は被造物に過ぎないのに、それを拝む文明が生まれました。聖書が示す「神の創造の業」が全く忘れ去られた世界がそこにあったのです。
そこで、神はアブラハムの父テラに「ウルの町」を離れ、新たな信仰の場を求めるように命じられたのでしょう。テラはカナン地方に向かって旅立ちましたが、途中のハランというところで止まってしまいました。「居心地がよかったのではないか」と解釈されますが、ここで定住したのです。そしてテラはこの「ハラン」で生涯を閉じるのです。
さて…テラが亡くなった後、神はその息子アブラムに、「ハランを離れて、私の示す地に行け」と言われたのです。
ウルからハランまでは1000kmの距離がありますが、ユーフラテス川に沿う地域ですので、水と草はあります。水と草があり限り、羊や山羊を養って生きようとするなら、ある程度「安泰」なのが分かっていたことでしょう。
しかし、12章1節にある「アブラムへの神の示し」は全く違ったのです。
神はアブラハムに「私を信じ、見たことのない地に行け」 と言われました。
なぜ神は、安泰の場所に留まるのではなく「未知の地へ行け」と言われたのか…その理由は次の2節、3節に記されています。2~3節を読んでみます。
神が告げられた「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める・・・地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」とは、「私があなたを養ってその子孫を増やす。その子孫を通して、地上のすべての人が、祝福されるのだ。そのために約束を信じて、一歩を踏み出せ」という意味です。
実際にアブラハムから生まれた子孫が「ユダヤ民族」となり、その中からイエス・キリストが人となってお生まれ下さったことにより、この言葉は「その通り、成就した」のです。 ただ、これは「アブラハムの血筋の人間の祝福」ということだけでない、もっと大きな意味を持つ言葉なのです。
後程このことは深く掘り下げます(別の側面)
続いて4節から6節です。(※よんでみます)
アブラハムはその時75歳、人生の盛りは過ぎていました。妻サラもかなりの高齢で子供もありませんでした。 でも、そんなアブラムは神に召し出されたのです。しかも神に一言も問い返すことなく、約束の地を目指して歩き始めます。
その約束の地が「カナン地方」なのですが、原住民が住んでいるなど「安泰の場所ではなかった」ことが見て取れます。
皆さんがアブラハムの立場だったら、どうされるでしょうか? 神が示されたからといって、年齢を重ねてから、「安泰ではない、新たな場所」に旅立つのがどれだけ大変か、想像がつくと思います。
つづいて7節から9節をお読みします。
7節では「あなたの子孫に、この土地を与える」と神は言われていますが、この時点では、子孫も与えられていませんし、「アブラハムが所有する土地」もまだ与えられてはいませんでした。
しかし!アブラハムは「神に感謝をささげるため」に、祭壇をきづき、神を礼拝したのです。その後も天幕を張っての旅を続けたのですが、そこでも「祭壇をきづき」神を礼拝することを欠かしていない様子が見て取れるのです。
以上が今回の箇所の流れでした。
創世記の12章は、ただ単に「歳をとったアブラハムが、リスクを冒して新たな旅立ちをした」ということが語られているのではなくて、「アブラハムを通して、世界の人が神の祝福を受けられるようになるために、そのための基になるようにと、神がアブラハムを招いていらっしゃり、それにアブラハムが応答したのだ」ということが教えられていることに気づかれたと思います。
この「アブラハムを通して、世界の人が神の祝福を受けられるようになるために、そのための基になるように」という教えをさらに深く理解するために、新約聖書の別の箇所を読んでみましょう。
皆様、新約聖書のP278をお開けください。使徒パウロが書いた「ローマの信徒への手紙4章の13節から17節までをお読みいたします。
ローマの信徒への手紙4章は「人間が神の前に義とされる」つまり「ただしいものと認められる」ことについて、ユダヤ人の父祖アブラハムを実例にして「どのように義とされたか」丁寧に教えられています。
とくに大切なこと、それは「アブラハムと血縁のあるユダヤ人だけでなく、人種・国籍の違うすべての人間も、アブラハムによって神からの祝福を受け取ることができ、神の前に特別にただしい者とされる」ということが教えられていることです。
パウロは「ユダヤ人に与えられた律法、これを守るものがただしい者とされる」のではなくて「ただ神を信じ、苦しいことがあってもその約束を待ち望むものが、世界を受け継ぐ者となる」という事を教えます。
そして、「その信仰は、アブラハムが基となっているのだ。だからアブラハムは、民族の違いを超えて、神を信じる者の父なのだ」と教えています。
ここにいる私たちにとっても「信仰の父はアブラハムなのだ!」ということが教えられているのです。
17節をご覧ください。
ここでは、今朝の聖書箇所である創世記のことばが引用されますが、それにつづいて「死者に命を与え、存在していない者を呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」という言葉が出てきます。
アブラハムの信じた神は、死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方だ!と記されているのですが、それはまさに今朝の箇所創世記12章の7節以下でのアブラハムの行いから見て取れます。
先ほどの話を思い出していただければと思います。
7節では「あなたの子孫に、この土地を与える」と神は言われていますが、この時点では、子孫も与えられていませんし、「アブラハムが所有する土地」もまだ与えられてはいなかった…それでもアブラハムは「神に感謝をささげるため」に、祭壇をきづき、神を礼拝したのでしたね。
つまり!アブラハムが信じたのは「神が無から有を作り出すお方であること」そして「罪人をも特別に祝福して赦し、命を与えて生かすことのできる方であること」だったのです。
時代を超え、民族を超えて、同じ信仰を持つ者が皆「私達も同様に神の前に義とされ、復活の命、永遠の命をいただくことができる」その基となるために、神はアブラハムを招かれ、そしてアブラハムも応えたのです。 そのことによってここにいる一人ひとりも神から祝福を受けることができるようになっているのです。
アブラハムの旅立ち、その後の「先が見えない中でも、神と共に歩んだ」その歩みは「後代を生きる、全人類にとって」大きい意味を持つものとなりましたが…ここにおられるお一人お一人の「神と共に歩む人生の旅路」が「将来の山口信愛教会に集う人々にとって、またご自分の直接的な子孫にとっても、非常に大きな意味を持つ者になること」をぜひとも心に刻んでください。
アブラハムが祝福の基となったように、私たちも「先が見えない中でも、神を信じて信仰生活を送る時」その歩みが祝福の基として用いられることを信じます。
統一協会のことで「信仰2世」の問題が騒がれましたが、今日の箇所で教えられている「自分の後の世代にとっての祝福の基となる」ということは、無理に信仰を強要するということとは全く違っています。
疑いながら、迷いながら…それでも神を信じ、神に感謝や礼拝をささげながら人生の旅路を歩んでいきましょう。その姿が証しとなり、ご自分の後の世代のご家族や、将来の山口信愛教会が祝福されることを信じ、祈ります。(祈り・沈黙)