2月16日 降誕節第8主日礼拝
「あなたの内にある恵みの賜物」 隅野瞳牧師
聖書:テモテへの手紙 一 4:4~16
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本日は教会に仕える者のあり方について、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。
1.御言葉を教えるなら、自分の養いや救いとなる。(6、16節)
2.信じる人々の模範となる。(12節)
3.与えられた賜物に信頼する。(14節)
この手紙はパウロが信仰によるまことの子として愛する、テモテに宛てて送ったものです。パウロは宣教旅行でテモテに出会い、ともに御言葉を伝えてきました。テモテはパウロに代わってエフェソの教会を牧するように任命されましたが、困難に直面していました。テモテを励まし、具体的な導きを与えるために、パウロはこの手紙を書いたのです。
1.御言葉を教えるなら、自分の養いや救いとなる。(6、16節)
「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。」(4節)
テモテが悩んでいたのは、偽教師、偽りの教えが教会に入り込み、信徒たちが信仰から引き離されていたからです。当時は、見えないものは善であるが、肉体や物質的なものは悪と考える異端が力を持っていました。また、クリスチャンになっても旧約聖書の律法を守らなければ救われない、と教えるユダヤ主義者たちが、特定の食物を断つよう命じていたのです。
しかし私たちはよい行いや、何かを禁じることによって罪から救われるのではありません。ただ主イエスを信じる信仰によってです。何を食べるか食べないかなどは、主の栄光のためにそれぞれが、確信に基づいて判断することです(ローマ14章)。神が世界をお造りになった時、すべてのものを「良し」とされました。この神の御言葉を信じ、私たちが感謝の祈りをもって受け用いるならば、それは聖なるものとされます。救いの恵みに入れられた者は自由を与えられ、すべてを感謝し、喜び歩むのです。
「これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。」「自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。」(6,16節)
「これらのこと」とは、間違った教えを判別して真の福音を教えることです。そのように教えるなら、自分自身もキリストに仕える者として成長することができるというのです。「奉仕者」は牧師などの聖職者を指すだけでなく、もともと「仕える者」という言葉ですから、主の働きに召されているすべての人を指します。そういう意味では、すべてのクリスチャンに対して語られていると言うことができます。
御言葉を伝える時には、まず自分自身がその御言葉の前に出ざるをえません。しかしそこにこそ一番の恵みがあります。私たちは命の御言葉をいただいて養われますが、自分だけで留めているならば濁った水、食べられないパンになるでしょう。恵みをいただいたのは周りを潤し、分かち合うためです。御言葉は与えるほどに自分を喜びで満たします。御言葉を語る時、最も恵みを受けるのは自分なのです。
テモテが伝える言葉は信仰の言葉と、彼が守ってきた善い教えの言葉です。イエスは主であり、復活し今も生きておられると信じ、告白することによって私たちは救われます。それはテモテが母と祖母によって教えられ、守ってきた良い知らせです。
16節の「救い」とは、惑わす教えから守られることです。○○詐欺といわれるものが横行し、次々と新しい手口で私たちを狙っています。この世の詐欺でさえそうならば、悪魔はどれほど私たちに巧みに攻撃をしかけていることでしょうか。テモテのように特に牧者として立てられた者、悪の働きを感じ取ることができる者は、主の群れを守る責任があります。しかし恐れることはありません。大牧者なる主が共にいてくださいます。自分もいつ足をすくわれるかわからない危うさを持っていることを覚えつつも、主の守りに信頼し、離れずに歩んでまいりたいと思います。
「信心のために自分を鍛えなさい。」(7節)
信心は敬虔と訳されることもあります。神に対して人間が本来取るべき姿勢、神への畏敬の表れです。聖なる神の御前にあるという意識、悔い改めと憐みを求める心が伴うものです。御子はその生き方をもって、父なる神に対する信頼と献身をお示しになりました。神が私たちにお与えくださった救いは罪のゆるしだけで終わるのではありません。聖霊が私たちをきよめ、実際に御旨にかなった生活ができるようになるのです。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3:16~17)
信心深いというと、俗世間に関わらない清い生活を送るように思われますが、信心の模範である主イエスはどうであったでしょうか。主は居場所のない小さき者といつも共におられ、一緒に食事をして喜び合いました。自分の「信心深さ」を保とうとした宗教指導者たちは、主イエスを見下し怒りを覚えたのです。しかし信心は、世の中と離れなければ保てないものではないのです。御子は罪の世に、私たちのところに人となって来てくださいました。主は御自身に従う者もまた、世にお遣わしになります(ヨハネ17:15~)。
ただ心に留めたいのは、御子は多忙な中にあっても、いや多忙だからこそ一人祈り、御父と語り合う時をもっておられました。ですから最後まで十字架の道を従いぬくことができたのです。祈り聖書を読む中で、私たちも力をいただき赦しの恵みを受けて、遣わされることができます。特別なことをするのではなく、祈りと御言葉です。祈りと御言葉が私たちを変え、主がこの時に力強く働いてくださいます。
神を畏れ感謝をもって生きる信仰には、今、罪ゆるされた喜びがあるだけでなく、来るべき世での命も約束されています。体のために食生活に気をつけたり運動をすることは大事ですが、来るべき世のことも考えるようパウロは勧めます。生きている時に私たちが見ているものは一部分で、天での命、見えないものは私たちの想像を超えた永遠の世界です。神が永遠の住みか、復活の体を与えてくださる信仰に立つ時、私たちはパウロとともに言うのです。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(Ⅱコリ5:9)来るべき世での命を心に留める時に、今の命を本当に大切にできます。主が支えていてくださるから、弱くてもゆるがぬ歩みができます。周りにいる方々をさらに愛するようになるのです。
「わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。」(10節)
信仰のゆえに苦しみ、不利益をこうむることもあります。それでもなお信仰に留まることができるのは、すべて信じる者を救ってくださる方、復活し今も生きておられるキリストに希望があるからです。
2.信じる人々の模範となる。(12節)
「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。」(12節)
テモテは35歳くらいで、教会の指導者としてはまだ若かったといえます。エフェソ教会の人たちは信仰が育っていなかったようで、若いテモテの言葉に耳を傾ける謙遜さが欠けていました。またテモテは忠実でありましたが臆病な面があり、胃を痛めて病気になったりしました(Ⅱテモ1:7,Ⅰテモ5:23)。自分の意見を押し通したりしない穏やかな人だったのではないでしょうか。開拓者としてパウロは特別な力強い賜物を受けていた人ですから、それを継ぐテモテは比較されたり、プレッシャーがあって大変だったと思います。しかし私たちはテモテを通して主の励ましを受ける思いがいたします。
自分を軽んじてくる相手を変えることはできませんが、パウロはテモテ自身が変わり、信じる者の模範となるように勧めます。完璧であれというのではなく、自分という人間を通して、神の愛が見えるように生きなさいということです。御言葉は語られ、実践されて力あるものです。
主イエスは弟子たちの足を、僕となって洗ってくださいました(ヨハネ福音書13章)。互いに仕え、愛し、赦し合う。主はご自分がしたように彼らもするようにと、模範を示されました。「洗礼を受けたものの生活も前と変わっていないし、変えたくないから、クリスチャンだということは黙っておこう。」と思ってしまいがちですが、それはまだ主に造り変えられる恵みを味わっていないのです。外に表れる言葉や行動、内面にある愛や信仰、純潔を、主に喜ばれるものに変えてくださるのは主御自身です。謙虚に主に求め、お従いして踏み出す積み重ねの中で、私たちは教会の内外問わず、証となっていくことができるのです。
エフェソ教会には、一見信心深そうな間違った教えが流れていましたが、パウロがいう模範とはそのような禁止や苦行を伴うものではありません。「クリスチャンらしくなれるようがんばらなければ」と、信仰生活が苦しくなっているならば、もう一度恵みによって救われたことを思い出しましょう。模範は「コピー」ではありません。皆同じ思想で同じ行動の人を作るならカルトです。それぞれが自分らしくキリストにならうことを主は望んでおられるのです。
皆さんお一人おひとりに、キリストを表し模範となってくださった方がおられると思います。勇気が出なくても、弱さや傷を抱えていても、そのままの自分を差し出して、主を指し示す者としてくださるよう祈りましょう。私も主に従いえない、愛することに踏み込めない弱さにもがき続けています。けれども主は求めるものに必ず応えてくださると信じます。言葉や行いがつたなくとも、主に委ねられた務めを誠実に果たし続けることを通して、キリストが私の破れから輝き出でて下さるように。そのことを切に求めます(Ⅱコリ4:7)。
パウロは、聖書の朗読と勧めと教えに専念するようテモテに勧めます。初代教会が礼拝で大切にしていたことです。聖書はまず声に出して読まれ、聴かれるべきものです(申命記6:4)。聖書を朗読することは神のことばを宣言し告げることですから、重要な務めです。旧約聖書の朗読とともに、主イエスの言行録、使徒たちの手紙なども朗読されていたことでしょう。勧めとは朗読された聖書から、自分たちの生活にあてはめてどのようなメッセージが語られているのかを、説き明かすことです。また教えは聖書全体から正しい教理を教え、教会生活を指導することです。聖書の一部分を強調したり曲解することなく、教会が福音によって建て上げられていくためです。
牧師は信徒を訪問したり、事務作業や業者とのやりとり、町の人との関わり、多くの大切な務めがあります。けれども牧者はまず神の御前に出て聖書に聴き、祈り、御言葉を語って信徒を整えることに心を注ぐ必要があります。この務めのために、牧師には一人静まるまとまった時間が必要です。どうぞお祈りください。
3.与えられた賜物に信頼する。(14節)
「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです。」(14節)
自分には、聖書を教えることなどできないと恐れていたであろうテモテに、パウロはこのように語ります。神はあなたに、牧者として必要な恵みの賜物をお与えになった。それを思い起こし、この賜物をしっかり用いるようにと。テモテは賜物を積極的に用いていなかったようですが、それはお与えくださっている神を軽んじていることでありました。私たちにもまたそれぞれ主に与えられた務めがあり、それを行う力は主より与えられます(ローマ12:6~8)。得意なこと、好きなことだけが賜物とは限りません。自分が思ってもみない形で、主のご栄光を表すこともあるのです。賜物はしまっておくのではなく、どんどん活用することによってさらに磨かれます。パウロはテモテに、自信を持ちなさいとは言いませんでした。信頼すべきは、内にある恵みの賜物なのです。
牧師や役員を任職する時、式の中で御言葉が読まれ勧めがなされます。御言葉によって私たちは、自分の働きが神の力ある言葉によって立つことを知ります。テモテもまたそうでした。初代教会で執事を任職する時、パウロとバルナバを宣教に遣わす時にも、手を置いて祈ること(按手)によって送り出されています。私も牧師として按手を受けました。どれほど自分の弱さ、至らなさ、罪に打ちひしがれようとも、主の召しとお与えくださった恵みの賜物の力を信じて、務めをなすのです。手を置いて祈ることは主の御手が置かれていることを示し、その人に祝福と派遣の力を満たすものです。
任職ではありませんが洗礼式には、三位一体の主の御名によって牧師の手が置かれ、洗礼が授けられます。それは聖霊によって罪が清められ新しく生まれたしるしです。聖霊なる神がわたしの内に住んでくださっていることは、この上ない恵みの賜物です。自らの信仰に自信が持てないときにこそ、神が与えてくださった恵みの賜物に目を向けましょう。それぞれに与えられた賜物を用いて主の務めに誠実に仕え続けるなら、生きた教会が建て上げられ、成長していきます(エフェソ4:16)。
私には賜物などないと思っておられる方がいるならば、あなたの存在そのものが、主のすばらしいプレゼントであることを覚えてください。あなたがいてくれるだけでほっとする。明日も生きようと思える、という人がきっといるはずです。「御手の中で」という私の好きな賛美があるのですが、このような歌詞があります。「御手の中で、すべては変わる感謝に。わが行く道にあらわしたまえ、あなたの御手のわざを。」主は御手をわたしの上に置き(詩編139:5)、私が通って来たすべての道もこれからの道も御手に包み込み、用いてくださいます。
私たちが主のご用に立てられた時、先に同じように神によって立てられ、支えられてきた方の手が、私たちを送り出してくれました。その祈りの手によって、私たちは主が共におられる信仰に立ち、勇気を与えられてここまで来たのです。この手に支えられて、私たちはこれからも主と隣人に仕えます。そしてパウロがテモテを、テモテがエフェソの信徒たちを励ましたように、次の方に御言葉を伝え、祈りの手をもって支え送り出す者となりましょう。