「あなたの神は私の神」7/2 隅野徹牧師

  7月2日 聖霊降臨節第6主日礼拝・聖餐式
「あなたの神は私の神」隅野徹牧師
聖書:ルツ記1:1~18


 今朝は、「聖書日課」のうち、ルツ記の冒頭、1章の18節までを選びメッセージを語ることにしました。

このルツ記の主人公は、その名の通り「ルツ」です。そのルツが「神の不思議な導きのうちに」ボアズと結婚します。そして「オベド」という男の子が生まれるのですが、そのオベドの子がエッサイ、そしてエッサイの子がダビデです。そして、ダビデの子孫から、イエス・キリストが誕生します。私たちには分からない「神の御計画があり、その大いなる御計画の中でルツは生かされ、用いられたのだ」ということがこの書の主なメッセージです。

しかし、今日の聖書箇所であるルツ記1章前半はまだ、ルツが主人公というよりは「その姑のナオミ」が主人公として描かれていると言えます。

今朝は皆さんに「ナオミの気持ちになって」、この聖書箇所を味わっていただきたく願います。ともに読み進めてまいりましょう。

まず1節から5節をみましょう。(※さっと目で追ってみてください)

ユダのベツレヘムから、飢饉のためにモアブの地に移り住んだ一家がいた、ということを語ってルツ記ははじまります。モアブというのは、死海の東側の土地です。死海を挟んでユダヤの反対側です。エリメレクとナオミの夫婦、それと二人の息子の4人が移住したのです。

この飢饉ですが、今日の箇所の直後の1章19節以下から分かるのですが、多くのユダの民は「その地に留まって、なんとか生き延びた」中、エリメレクは思い切って移住をしました。ただ移住したモアブはユダとの間に「民族的対立」がある場所でした。

男尊女卑のこの時代、飢饉の中エリメレクについていった「ナオミ」の苦労がどんなに大きかったか、想像に難くありません。

さらにナオミの苦労は続きます。夫エリメレクが亡くなってしまったのです。故郷を離れてモアブの地に来たナオミにとって、夫が亡くなるというこの出来事はさらに苦しみが増すものだったはずですが、それでも二人の息子がいたので、何とか頑張ったのでしょう。二人の息子はモアブの女性と結婚しました。

ところがです!4節5節にあるように約十年後、何と!今度は二人の息子まで死んでしまうのです。残されたのはナオミと二人の嫁、ルツとオルパだけ。二人の嫁には子どもはいなかったようです。5節の最後の言葉「一人残された…」この言葉は、大変重い響きのするものです。ナオミはこの時、もう生きる希望も気力も失ってしまったのではないでしょうか。

続いて6節から9節前半です。(※ここも目で追ってみてください)

ナオミはついに「移住した先のモアブの地」で頑張って生きていく理由も気力も失ってしまったのでしょう。そして、ユダに戻ることを決めます。

そして二人の嫁にこう言います。「あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」

ナオミは二人の嫁に、「あなたたちは息子の嫁なのだから、私の老後の面倒を見なさい。」などと言っていません。自分のことよりも「二人の嫁のこの先のこと」を大切に考えている、そんなナオミに学ばされることがたくさんあります。

続いて9節後半から13節です。

二人の嫁は、自分もナオミについてユダに行く!と言ったのです。

ナオミと二人の嫁たちの10年間の生活の中で培われた関係がここに現れています。

ナオミも二人の嫁に感謝していたし、二人の嫁も夫の母という以上に、麗しい関係が出来ていたのでしょう。しかし、ナオミは「苦労することは分かっている。そんな目に遭わせるわけにはいかない…そう思ったのでしょう。「帰りなさい」と言うのです。

 11節の2つ目の文以降を理解するためには、少し説明が必要です。

申命記25章5節以下に記されておりますが、夫が子どもを残さずに死んでしまった場合、夫の兄弟は残された妻をめとって、生まれた子に家を継がせなければならない、ということになっていました。これをレビラート婚と言います。

ナオミは、自分はもう年だし、二人の嫁のために子どもを生むことは出来ない。もし、生むことが出来たとしても、その子が結婚出来るまで待つというのか。そんなことはあり得ない。だから帰りなさいと言ったのです。

 13節後半でナオミは、「あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」と言います。

夫を亡くし、今度は二人の息子を失うという出来事。これをナオミは「主の御手」によるものだと受け止めています。

次の14節から18節が今回の中心ですので、読んでみます。

ナオミの言葉を聞いて、二人の嫁は声をあげて泣きました。しかしオルパはナオミと別れる決心をし、自分の故郷に戻っていきました。

 一方のルツは「それでもナオミについて行く」といって聞かなかったというのです。

ルツとナオミは本当の親子以上の関係になっています。ルツは姑のナオミに対して「あなたの行かれる所に行き、あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたい」とまで言っているのです。

どうして、そこまでナオミに着いていこうとするのか、その根拠としてルツが語っているのが16節後半です。「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。」

今日の説教題は、この言葉から取らせていただきました。

少し、この言葉を掘り下げてみましょう。

ルツはユダヤ人ではなくモアブ人です。モアブには「豊穣」をもたらすと信じられたモアブの神があって、人々はその豊穣の神を拝んでいました。しかし、ルツはナオミと一緒に生活していく中で「聖書が証しする神を信じた」のです。

それはルツがモアブの民ではなくイスラエルの民として生きていく、という決意を表したということでした。ルツは、17節で「主よ」と神に呼びかけています。主なる神と共に歩む者とされていたということです。

 ナオミはルツの決意が固いのを見て、それ以上説得することはせず、共にユダのベツレヘムへと戻っていきました。

 以上が今日の箇所の流れです。

さて、残りの時間は、冒頭にお伝えした通り「聖書が記すナオミの人生を通して、私たちの人生について大切なことを学ぶ」時にしたいと思います。

先にお伝えしますが、「ナオミの信仰は素晴らしい。だから私たちもナオミの信仰を見習おう」ということをお話しするつもりはありません。

ナオミは特別な信仰をもっているというよりは、信仰者のなかでも「人間臭さがあふれた、信仰者だ」ということが読み取れると感じるのです。

今回、私がこの箇所を読む中で迫ってきたのが13節の後半の言葉です。

「あなたたちよりもわたしの方がはるかに辛いのです。主の御手がわたしに下されたのですから」

この言葉には「ナオミの苦しい思い」が吐き出されている、と言われています。

夫を失った、という「辛さ」は、ナオミもルツもオルパも一緒です。それでも「私の方がはるかに辛い…」それは「加えてこども失ったから」とかそういうことではありません。

「自分の人生の中の何かに原因がある。なにか行いが悪かった。だから神は私にこの苦しみの業をくださったに違いない。そのようにして、自分の信じる神から与えられた苦しみだと思うからこそ、辛いのだ!」と吐き出すようにして言っているのです。

このときのナオミの考えはもちろん間違っています。 

聖書には「因果応報の考え」は出てきません。 

ヨブ記が、そのことを教える代表格の書ですが、周りの人々にくらべ「神の前に忠実な歩みをしていた人」が、苦しみに遭う、ということは聖書全体に書かれています。 

すべての苦難に意味はあるのですが、その意味は「神にしかわからない」というのが聖書の教えです。人間には、「善い人が苦しみに遭う」その理由は分からないのです。

人間は「分からないことを、分からないままでいい」という割り切りのできない生き物です。正しくもないのに、「自分の中の答え」を出したがるものです。

 そういう私たち人間にとって「因果応報」という考え方は、多くのことに「明解な答え」を与えることのできる「便利な考え方」なのでしょう。

ナオミもそうですが、信仰を持つ私たちも「何か苦しいことが起きた時」自分を責めがちになります。「自分が足りないから、神がこれを起こされたのだ」と。

しかし!ルツ記の続きの箇所には「ナオミの嘆きは嘆きでは終わらなかった」ということを教えています。それは私たちも同じです。私たちからみて「よいことも、苦しいと思えることも」すべてを用いて神は私たちを最善の道へと導かれるのです。

ルツ記の2章以下には「神の最善の導き」があったことが沢山読み取れますが、今日の箇所からも「神の最善の導きが読み取れる箇所」があります。最後にそこをじっくりと味わってメッセージを閉じます。

それは16節以下の箇所です。ルツという「共に歩む者」を神が与えて下さったことです。 もちろん、それまでも義理の親子として共に歩んでいたことでしょうが、本当の意味で「共に歩む者」となったのは、この時でしょう。

「あなたの神を私も信じます!」そのようにルツが信仰告白することによって、「ナオミ、ルツが共に神を見あげて、苦難の中で共に歩むことを確認し、一歩を踏み出した」このことこそ、神の最善の導きだと断言できると思います。

「あなたの神は私の神だ」という告白は素晴らしいです。しかし、これは私たちが頑張って証しすれば、見ている人が必ず信仰を告白するということではないです。むしろ信仰者が弱っているとき、そのときに「一緒に歩んでくれる友」を与えて下さる、その神の奇しき業にこそ、心を留めようではありませんか。

今この教会に関係する人で「ナオミ」のように「吐き出したい苦しみを抱えておられる方」がたくさんおられることを知っています。そんなお一人お一人にとって、「共に神を見上げ、共に歩んでくれる」ルツのような存在を神が与えて下さることを信じます。

そして、私たちが「ルツ」として用いられることもあると思うのです。

「あなたの神は、私の神」そのように互いに励まし、慰め合いながら、多くの人が歩んでいけることを切に願い、祈ります。   (祈り・沈黙)