7月11日説教 ・聖霊降臨節第8主日礼拝
「あなたは偉大なことを見る」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書1:43~51
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只今山口信愛教会の主日礼拝では、ヨハネによる福音書を主日礼拝で続けて読んでいます。先週は、「最初にイエスの弟子になった、ヨハネとアンデレ」がどのようにしてイエス・キリストを受け入れたか、について教えられた箇所を見ました。
もともと洗礼者ヨハネの弟子だった二人が、イエスについて行き、一緒に泊まって「深く交わったこと」によって人生が変えられたという事を見ました。とくにアンデレは、「人生を変えられた喜び」を自分だけで止めず、自分の兄弟シモン・ペトロにイエス・キリストのことを告げ、実際にイエスのもとへお連れするということを成したのです。
今日はその続きの箇所を深く掘り下げます。先週の箇所では「家族を主のもとにお連れする」ことの大切さが教えられましたが、今回はそこから一歩進んだ教えがなされています。
また先週私は、「救いの原点にある喜びに立ち返ることの大切さ」を話をしましたが、今回の箇所は「原点にある喜び」を超える「大きな喜び」について教えています。深く味わってまいりましょう。
まず43節と44節です。ご覧ください
イエスはまず「ガリラヤ地方」で、伝道をなさったのですが、それに先立って「フィリポ」を召し出されました。フィリポは、アンデレやペトロと同じ町の出身で、いわゆる「地縁」があったことが教えられているのです。
そのフィリポにイエスは出会われるのですが、ただ出会うというよりも「見つけ出され、探し出された」のです。そして「わたしに従いなさい」、別の訳し方で「ついて来なさい」と声をかけられたのです。
フィリポは無理やりに「従った」のではありません。前回の箇所の「アンデレとヨハネが主のもとに泊まり、深く交わった」というような出来事は記されていません。それでもフィリポが、何も考えずまるで「洗脳されるようにして従った」のではないことが続く45節からわかります。
この45節は大切なので読んでみます。
親友であり、学友だったナタナエルに「私たちが旧約聖書を学ぶ中で、ずっと待っていた救い主が、ついに!目の前に現れたのだ」とフィリポは言うのです。
何も知らない中でいきなり「イエスに勧誘されてついて行った」のではありません。日ごろから聖書を学び求める心があったフィリポに、神の子ご自身が近づき、招いて下さったのです。それに対し、フィリポも、自分の意思をもって「ついて行く決心をした」のです。
これは私たちとイエスの関係にも同じことが言えます。
イエスは私達を一生懸命に「探し出し」「招いてくださる」のですが、無理やりに従うことを望んではおられません。聖書を深く読んだり、深く祈ったりして「自分で気づき、自分で決断してから」ついて来てほしいと願っておられるのではないでしょうか。
もちろん聖書の教えがすべて分かるわけではありません。それでも理解できる出来ないを超えて「神を求めようとする心を持つ」ならそれを主は知ってくださり、そして最善の導きを下さるのです。私達も求めつつ歩んでまいりましょう。
続いて45節と46節です。ご覧ください。
イエスに探し出され、そして自ら決断して「イエスについて行くことを決心したフィリポ」は、聖書を学ぶ仲間であった「バルトロマイ」をやはり探し出して言います。「私は聖書が預言し、約束してきた神の子救い主に出会ったのだ。それはナザレの大工ヨセフの子のイエスだ」と。
先週の箇所のアンデレのように、イエスと出会い、人生を変えられた喜びは自分だけに留まらないのです。新共同訳聖書では45節の最初の言葉は「フィリポはナタナエルに出会って」となっていますが、「探し出した」が原語に近い訳のようです。
なんとか探し出して伝えたい!一緒に学んだ友だからこそ、「この喜ばしい知らせを分かち合いたいのだ」という興奮具合が伝わってきます。
ナタナエルは、他の福音書で「バルトロマイ」と言われている、12弟子の一人だと考えられています。そのナタナエルですが、最初はフィリポの言葉に対して冷たい反応でした。「今まで私は学んできたが、ナザレから、しかも大工の家から救い主が出るなんて信じ難い」というものでした。
それでもフィリポは論戦をしかけるのではなくて、ただシンプルに「実際にイエスのもとにナタナエルを連れて行く」ことをしたのです。それでナタナエルは神の子イエス・キリストと出会うことができたのです。
続いて47節から49節、ナタナエルがイエスに出会う場面です。ここは大切なのでお読みします。
この部分からはナタナエルについていくつかのことが分かりますが、実は一番注目すべき言葉は48節の最後の「いちじくの木の下にいた」という何気ない言葉なのです。
これは「木の下で昼寝をするようにして休んでいた」というのではないそうです。当時信仰深い人々は、大きな葉っぱのあるいちじくの木の下で「一人になって祈ったり、瞑想したり」していたそうです。ナタナエルもそうした「熱心な信仰を持つまことのイスラエル人」でした。そのことを初対面のイエスが47節で告げておられるのです。
きっと、いちじくの木の下でナタナエルはきっと「旧約聖書に約束された救い主の到来について」真剣に祈り、黙想していたのでしょう。そこにちょうど自分のことを、心の中のこともすべてご存知の方が現れたのです。だから49節で「あなたは神の子、イスラエルの王です」と答えたのです。
「ナザレから、しかも大工の家から救い主が出るなんて信じ難い」と考えていたナタナエルが、自分の持っている知識や、世の中の常識、そして目に見える事象を超えて「貧しい一人間としてこの世に来てくださった、神の御子イエス・キリスト」を救い主として受け入れた瞬間でした。
先週は、この「信仰の原点に立ち返る大切さ」をお話ししましたが、今週の箇所では、「救い主に出会った、信じ受け入れた」ことの先にある素晴らしさが教えられます。それが50節、51節です。ここも大切ですので読んでみます。
50節で、イエスはナタナエルに「私について来ることで、あなたはこの先もっと偉大ことを目撃することになる」と伝えます。その具体的な内容が51節です。
まず「天が開ける」とイエスは仰います。人間が犯す罪のために「閉ざされた状態となっていた天」が「開かれたままの状態になる」ことを目撃するのだと仰るのです。それは即ち、隔てのあった「天と地が結ばれるようになる」ということです。
更にイエスは、それを別の表現で伝えられます。それが続く言葉「神の天使たちが、人の子の上に昇り降りするのをあなたがたは見るようになる」です。
これは創世記28章の「ヤコブが夢で見た、天からの梯子」の物語で出る表現が使われているのです。御使いが梯子を昇り降りする様子を神はヤコブにお見せになり、神の祝福の約束を伝えました。
この旧約聖書の話を当然知っていたであろうナタナエルに対しイエスは言われるのです。「ヤコブに神は『あなたによって地上のすべての者は神の祝福に入る』と約束されたが、私もあなたに告げる。あなたは『神の子によって地上のすべての者が祝福に入る』その業の証人となるのだ!」
これを聞いたナタナエルはがどんな気持ちになったか想像してみてください。
きっと、救い主に出会った感動に浸り続けることはせず、「この後主が見せて下さる救いの業を楽しみにしながら、主についていこう」と思ったのではないでしょうか? 私たちも、この先主が見せて下さる数々の業の証人とさせていただけることを楽しみにして歩んでまいりましょう。
今日のメッセージの締めくくりとして、私が皆様に伝えたいのが「主の業を共に待ち望むことができる友の存在の大きさ」です。
フィリポとナタナエルに血縁はありませんでしたが、聖書を学び合い、神の救いの業について語り合う友でした。そんな二人を神のイエスは愛の故に見つけ出し、召して下さったのです。
12弟子としての歩みは本当に苦しいことの連続だったと思います。それでも、旧約聖書から約束された神の救いの業を目撃することを希望にして、高め合ったのです。
皆さんには、フィリポとナタナエルのような「互いに聖書を読み合い、そして神の業を共に待ち望み、共に喜べる」そんな友はいるでしょうか?ぜひこの教会の中でそんな友を見つけて下さい。
ここにおられる方同士、年齢などは違っても、「聖書について、救いについて語り合える友になれる」と信じています。小難しい話をする必要はありません。
フィリポがナタナエルに「来て、みなさい」とシンプルに誘ったように、私達同士で声を掛け合いましょう。「一緒に主のもとに行こう!そして一緒に主の業を見よう!一緒に喜ぼう!」
私も主にあって一人でも多くの方々と友になり「主の業を目撃し」共に喜んでまいりたいと願います。 (祈り・沈黙)
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