「あの人の信仰は別の大切な方へ」11/2 隅野徹牧師


  11月2日 聖霊降臨節第22主日礼拝・召天者記念礼拝

「あの人の信仰は別の大切な方へ隅野徹牧師
聖書:マルコによる福音書 2:1~12

 

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 今日は1年に1度、イエス・キリストを信じ希望をもって天へ旅立った方々を覚える「召天者記念礼拝」です。今年は新たに「保井卓さん、角田文恵さん、伊藤恵美子さん、丸田芳子さん」の「愛する4人の兄弟姉妹」が、山口信愛教会の召天者に加わりました。大変さみしい思いを感じずにはいられません。

そのような今年の召天者記念礼拝ですが、皆さんと読む聖書箇所を「先ほどお読みいただきました、マルコによる福音書2章」から選ばせていただきました。

今回の箇所のメインテーマは「イエスのもとに、大切な人をお連れしようとする思いの尊さ」です。前にお写真が飾られている方々は、きょうご出席の皆さんを「イエス・キリストのもとにお連れしようとされた方々」だと私は思っています。

ですので、今日の箇所の登場人物と「召天者のお一人お一人を結びつけながら」聖書の言葉を味わっていただいたら幸いです。当時の宗教的指導者たちと、イエスとのやり取りを記した、途中の部分は省いて「イエス・キリストと4人の友達の信仰の物語」だけにしぼって語らせていただきます。よろしくお願いいたします。

  この場面は、30歳になられたイエスキリストが、公に福音宣教を開始された、本当に初期の出来事を記したものです。神の子であるイエス・キリストが「力強く神の国の福音を教えられ、」人々の病をいやしておられる」という噂や評判がすぐに広まり、そこには大勢の人々が集まってきました。

イエスが「シモンという人」の家におられるということが知れ渡り、そこに大勢の人が集まってきて、「戸口の辺りまですきまもないほど」でした。 そのような中で、3節、四人の男性が一人の中風の患者を運んで来ました。この四人の男たちは床に中風の人を乗せて、シモンの家に来ました。けれども、4節「群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかった」とあります。

しかし、この四人の男達は引き下がりませんでした。どうしても病に苦しむ友をイエスに会わせたかったのです。そして四人は決意し、驚くべき行動を取りました。まず屋根の上に登りました。当時のパレスチナの家にはたいてい外付けの階段がありました。それを伝って屋上へ登ることができたのです。屋根は平らで、梁と木の枝を編んだものの上に、粘土などを水で練って固めたもので造られていました。その一部に穴を開けることは、必ずしも困難ではなかったようです。

もちろん、沢山の土ぼこりが下に落ちるし、そのような行動はとても迷惑な行為です。イエスのおられる辺りを見つけて、屋根を剥がして穴をあけたとあります。非常識なことを行ないました。この穴から、病人の寝ている床をつり降ろしたのです。

そして今日の中心の5節です。4人の友は、人間的な常識からいえば「非常識極まりない行為」をしました。しかし神の子イエス・キリストは「その心の中」を確かに見ておられることが分かるのです。病気の友に対する誠実な態度、思いやりを確かにみてとったのでしょう。そして、イエスは中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。

4人の人も、病に苦しむ人々自身も「病を癒してもらいたい」という一心で、屋根をはがしてまでイエス・キリストの下に連れてきたのです。ところが、イエスの口から先ず語られたのは、「起きて床を担いで歩きなさい」という言葉ではなく、「あなたの罪は赦される」という、罪の赦しの宣言なのです。

ここで注意したいのは、病気が罪の結果だということではありません。イエスは人間の根源的な罪を問われるのです。中風の人には、病のことには触れず、「あなたの罪は赦される」と赦しの宣言を与えられたのです。   

聖書は「すべての人間が罪人である」と教えています。この根源的な罪のゆえに神との関係が損なわれ、その結果として人間は自己中心的に生き、罪を重ねるようになったと教えますが、現在の世界の情勢を見た時、そのことに嘘偽りがないことはお分かりいただけると思います。

このように「ことを無視して、ほかの人生のどんな問題だけを解決しようとしても、それは決して真の解決にはならないのです。ですからイエス・キリストは、この中風で苦しむ人にも、彼の深い悲しみと苦しみの根本的な解決のために「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言されたのです。

しかし、神はその独り子であるキリストをわたしたちと同じ人間としてこの世に遣わされ、十字架の死によってすべての人間の罪の身代わりとなって死んで下さり、その後復活して下さって「わたしたち人間の根源的な罪が赦される」道を開いてくださったのです。

聖書にしるされたイエス・キリストによる癒しの業は「身体的な病が改善する」ことより、何よりもまず「その人の存在全体が、造り主である神のもとも立ち帰り、根本的な赦し、癒しが与えられる」ことを、意味しています。この中風で苦しむ人も同じです。憐れみ深い神の子イエス・キリストによって「身体的な病が改善する」ことより、何よりもまず「その人の存在全体が、造り主である神のもとも立ち帰ったこと」を宣言しておられるのです。

さて…皆様にとくに注目していただきたい言葉があります。それが5節には「イエスはその人たちの信仰を見て」とあります。つまりは、4人の友人たちの信仰を見て、中風の人の赦しを宣言しておられます。病んでいた人自身の信仰や、彼が熱心に癒されたいと願っているかどうかについては、一切問うていないのです。しかし、確実に言えることは、彼の四人の友人たちは「神の子イエス・キリストによる癒しがなされる」ことを信じていました。彼らは他人の家の屋根を剥がすという迷惑な行為をしてまで、友人をイエスのもとに連れて行ったのです。その彼らの信仰を見て、イエスはお喜びになり「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのです。  

わたし自身ここで強く思わされるのは、「自分でイエス・キリストのもとに救いを求めて行くことができない人」に対し、その人が救われることを心から願い、そして実際に、イエスの下に連れて行く他の人がとても大切だということです。

 様々な理由で、イエス・キリストの下に来ることが出来ない人、神から離れてしまっている人のために代わりに祈ることの大切さを聖書が教えていることは間違いありません。私たちの周りには、とりなしを必要としている人が必ずいるということを忘れてはならないと思います。 そして、私たち自身も又、とりなされているということも心に留めるべき大切な点です。

「中風」というと、一般的には、腕や脚が麻痺する病気を言います。しかし、一説によればここで「中風」と訳されている言葉は「虚脱状態」を表す言葉があり、聖書は「神を求めることにおける虚脱状態」をこの箇所で伝えようとしているというものです。

つまり…この場面で出てくる「中風の人」は、ただ肉体的な病をもっていたことを現しているのではなくて、「霊的、信仰的な意味での虚脱状態を表しているのではない か、という見方ですが、私もそう思います。

しかし!そのような時、分かりやすく言えば「イエス・キリストを見失っているような時に」助ける働きをする人がいることの恵みを今日の聖書箇所は教えているのだと思います。神が出合わせて下さる「助けてくれる友」によって「本来歩むべき道に立ち帰らせてもらうことができること」を、今年の召天者記念礼拝を前に深く心に巡らせることが出来ました。

とくにわたし自身のこととして心に迫ってきました。正直にお話しさせてください。

わたしは牧師ですが、他のすべての人間と同じく「罪や弱さ」があります。神の御許から離れて行ってしまいそうなそんな時も正直ありました

4人の召天者それぞれに、わたしはどう導かれ、神の前に立ち帰れたかを短くお話しさせてください)

・角田さん

・伊藤さん

・保井さん

・丸田さん

 時間の都合で「メッセージ中」にはお話しできませんが、山口信愛教会の召天者の中で、私が出合わせて下さった多くの方々の「助け」によって、今の私があるのだということを深く感じさせられました。召天者記念のときによく歌われる讃美歌の「花彩る春を」の歌詞にも「友の存在によって、私は主の道に戻ることができた」恵みが歌われていますが、まさにわたしも同じ恵みを受けたと感じます。

「このわたしを!」「十字架と復活によって根源的な罪を赦し、永遠の命を授けて下さる救い主イエス・キリスト」のもとに連れて行ってくださった召天者の方々が与えられたことを、ご家族の皆様にも感謝としてお伝えさせてください。

そして…私だけでなく「ここにお集まりの皆様、ご家族やご友人」にとって召天者の方々が「4人の友のような存在」であると思って下さったら感謝です。天への道を開いてくださる救い主イエス・キリストの御許に「ぜひお連れてしたい」と願われた大切な存在だと信じます。今はキリストと共に天から見守っておられる「召天者の方々の思いに」心を向けて、この先も歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)