「お返しができない」9/3 隅野徹牧師

  9月3日 聖霊降臨節第15主日礼拝・聖餐式
「お返しができない」隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書 14:7~14

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 今日は、示された「聖書日課」のうちルカ14章7節からの部分、新共同訳の小見出しで「客と招待する者への教訓」の箇所を選びメッセージを語ることにしました。

この箇所の話は、14章1節、3節から分かるように「ファリサイ派の議員の家で食事に招かれたの席に招かれていた、律法の専門家たちやファリサイ派の人々」が、できるだけ上席(じょうせき)に着こうとしている様子をイエスが見られたことがきっかけとなっています。

食事に招待されたこの人たちは、いつも人々から「先生」と呼ばれて尊敬を受けていた。だから自分は上席に着くものだという感覚が身についていたのではないでしょうか。イエスはそういう彼らの姿を見て、婚宴に招待されたら、というたとえを語られました。

このことによってイエスが語ろうとしておられるのは、「上席よりも末席に着く方がよい」ということではありません。今回の箇所の中心の教えは、世渡りが上手くいくためのいわゆるの「処世術」ではなく、「深い、信仰の教え」なのです。

このことを教えられるために「2つの違う譬え話」がなされています。深く読んでまいりましょう。

 一つ目の譬えが記されているのが8節から11節です。 (ここを読んでみます)

ここでの中心は11節です。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということです。

 ここでイエスが言葉をかけておられる「律法の専門家たちやファリサイ派の人々」はこの世で「自分が一番偉い」かのような錯覚に陥っていました。それで「自分の地位の高さがしっかりと誇示できる」席を選んでいたのです。

 しかしイエスは、彼らに対し「あなたが最も偉く、力を持ったものではないのだ。あなたに対し、この席を譲るように命じることのできるお方があることを忘れてはならない」ということを教えておられるのです。

 つづいて後半部分を見てまいりましょう。 12節から14節を読みます。

ここでは「食事に招いた側の人」へのイエスの教えが記されています。

招かれた人がどの席に着くか、というこれまでの話とは別のことのようにも思われます。しかし、今回の箇所を貫いている大切な教えは「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということです。

後半部分である12節から14節には、「友人、兄弟、親類、近所の金持ち」に対して、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」がでてきます。

この両者の違いは何かというと、「お返し」ができるかできないかです。

つまり「会食に招かれた場合、自分も会食の宴を催して相手を招待する」、そのようにお返しをすることができる人と、「自分が会食に招かれても、貧しくて宴を催すことなどとてもできず、お返しをすることができない人」という対比が語られているのです。

その対比をされた上でイエスは「貧しくてお返しのできない人をこそ招きなさい」と教えられているのです。そうすることによって14節、「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」終わり時、神が報いてくださるのだと教えられているのです。

以上が今日の箇所の流れでしたが、しかしながら、私たちには疑問が出るのではないでしょうか?

前半部分もそうですが、イエスは「高ぶったもの、経済力のあるものを見捨てられるのか」というと、そうではありません。

この箇所を深く味わうために前提となる大切なこと、それは「このたとえが処世術を私たちに教えるためになされたのではない」ということです。つまり「宴席では下座に座りなさい」とか「食事に招待するなら、次に奢り返してもらえるような人を呼ぶのではなくて、お返しができない人を呼びなさい」ということを「この箇所をよむ私たちに伝える」ためにこの箇所があるのではない、ということです。

では、何のために、そしてだれのために教えられたのでしょうか?そのことを深く考えてまいりましょう。

このときイエスが譬え話を通して教えられた直接の相手は「ファリサイ派の議員や律法学者たち」などの人たちです。

この人たちはお互いに「持ちつもたれつ」で、「この前は、だれだれさんに会食に招いてもらったから、今度は自分が招こう」など、宴三昧ができた人たちです。

 仲がよいのはよいことです。招待し合い「交流を深めること」も悪いことではありません。しかし、彼らには抜けていることがありました。

 それが①弱く、貧しいものたちへの配慮、そして②神への本当の意味での遜りです。

今日の箇所の中での「イエスが彼らに教えられた内容からも」この2つが欠けていたことは明らかです。

 この世で力をもっている自分たち同士で、持ちつ持たれつしておけば…当分安泰だ。自分たちの今の立場を脅かすような存在など、とくにはない…そんな感じでしょう。

このときのイスラエルの宗教指導者たちだけでなく、今の世にも「本当に困っている人を助けることをせず、「自分が恐れる世の権力者を接待し合う」ことに精力を注ぐ人は残念ながらたくさんいます。

私も、そういう人たちに出会ってきましたが、非常に冷ややかな態度しか取れません。「そんな生き方しかできなくて、可哀そうに…。いずれ苦しむときが来るのだろうけど…放っておこう」そういう冷たい人間が私です。

 しかし!イエス・キリストはすべての人間の救い主です。こんなわがままな「勘違いした人たち」をも、正しい道に立ち帰らせようと、必死に招かれているのです。だからこそ、今回の箇所で、彼らに対して「その勘違いから抜けさせ、本当の意味で幸いな生き方に導くために」教えをなさっているのです。

 最後の14節には「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しいものたちが復活するとき、あなたは報われる。」とイエスは言われています。

これはこんな意味だと私は理解しています。

「あなたたちは、自分の地位や名誉を守るために躍起になっている。自分の地位を脅かすかもしれないと思っている人から何かを受けたら、お返しをすることばかりを考えているのではないですか? それは本当のいみで隣人を愛することにはなっていないです。」

そして…「あなたたちが本当に恐れなければならないお方は、あなたに命を与え、そしてあなたの罪を特別に赦すことのできる、私の父お一人であるのだ。」

「そのお方に対してあなたはお返しができないことを忘れてはならない。 ただいただいた恵みを感謝して受ける、そんな遜った生き方をすること、それが幸いな生き方だ」

 そのように、「神の前に遜り、隣人を本当の意味で愛する幸いな生き方」に立ち帰らせようとして、イエスは愛をもって「自分が恐れる世の権力者を接待し合う人たち」に悔い改めを促しておられるのです。

  そして、この「悔い改めへの招き」は「私たち一人ひとりへの神からの警鐘」だと受け取るべきだと思います。私たちは、このときの宗教指導者たちのように「宴三昧」はしていないと思います。 しかしながら、「うちわだけで固まり、外に出て行って神の愛の招きをつたえようとしていない」そして「神の前に犯した罪を、きよめることを志さず、なれ合いになって日々過ごしている」面はあるのではないでしょうか。

 私自身も、今回のルカ14章のイエスご自身の「教え、悔い改めの招き」を、自らを省みる教えとして、強く胸に刻みました。説教題につけたように「自分の立場を守ってくれる人にお返しをすることを過剰に考えてはいないか?」ということが強烈に迫ってきました。

 「嫌われたくない。だから相手が喜ぶ、優しい言葉かけをお返しにしよう…」そんな風に守りに入り、大切なことを伝えずにいる自分はいないか…そのことを考えさせられました。

 どこかで「自分はお返しができる」そんな存在だ、と思い込んで「守りに入っている…」そんな私ですが、本当は「すべては神からいただいた恵みで生きている」こと「神のお助けなしに、お返しなどできる者ではない」ことを心に刻み、神の前で遜りをもって生きていきたいと願います。

 最後に、今日の箇所の教えと重なる「他の聖書箇所」が私には示されましたので、ご一緒にそこを読んでメッセージを閉じます。

 新約聖書のP444をお開けください。ヨハネの手紙Ⅰの3章16節から18節です。

 私たちが隣人と接するとき、まず第一には「自分がイエス・キリストの救いの恵みを知ったものである」ということを思い出すことが大事であることをこの箇所は教えます。

ルカ14章で教えられた「席を譲って下さい、と声掛けされる大いなる存在」をいつでも覚えて、人に接したいものです。

 そして「周りの人が必要なものに事欠くとき、同情しない者には、神の愛は留まっていない」という厳しい教えも心に留めましょう。

 自分に利害関係のある人に親切にしても、「お返しがとても期待できない、そういう存在を軽んじる」なら、それは「隣人愛ではない」のです。

 うちわだけで固まって「もちつもたれつ」する生き方から、一歩出て行って「お返しができない」相手を、神の助けによって愛していく…その生き方が「本当の意味で幸い」で、「神の御前で報いられる生き方」であることを、私たちは心に留め、新たな一歩を踏み出してまいりましょう。 (祈り・沈黙)