4月13日 受難節第6主日礼拝・棕櫚の主日礼拝
「この人は神の子」隅野徹牧師
聖書:マタイによる福音書 27:45~56
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今朝は、イエス・キリストの受難を一年の中で「最も覚える」棕櫚の主日礼拝です。 ぜひ、いつも以上に「キリストが受けて下さった苦しみによって、自分が救いの恵みを得ているのだ」ということをお感じ頂いたら幸いです。
最初に、「キリストの十字架の苦しみを、深く感じるようになって救われた人」の話をします。それは北朝鮮による拉致被害者であり、クリスチャンである「横田早紀江さん」の言葉です。
わたしが定期購読している「百万人の福音」の最新号に、早紀江さんの文が出ていましたので紹介させていただきます。次のような文章です。
「神さまは、私たちに考えられないようななされ方で、御言葉にめぐり合わせて下さいました。ショックを受けるほどのみことばに、自らのことを含め『人間とはこういう者なのだ』ということを知らされながら、泣きながら祈っていました。
そして、いつの頃からか、神さまはこのようにして一人の人間を救っていってくださるのだな…と感じるようになりました。
感謝が溢れ出てきて、それからは「こんな者を救ってくださり、ありがとうございました」と感謝して過ごせるようになりました。
いかがだったでしょうか?早紀江さんを襲った苦難は、想像を絶するものだったと感じます。
しかし!それでも「究極ともいえる、その苦しみの中で」彼女に「自分を含め、すべての人間の罪深さ」を教え、その上で「自分が神によって特別に救われている」ことを教える、そのような「くすしき聖書の御言葉の力」を思います。
この横田早紀江さんの文章には、自分の罪深さに気づかされ、そして救いの恵みを実感した箇所がどこなのかは具体的に記されていませんが、私は今日の説教箇所がそのうちの一つで間違いないと思っています。 私個人にとって、イエスの十字架の死の場面がもっとも「自分の罪と、特別な罪からの救い」を胸に刻める箇所なのです。
ということで、日本基督教団の聖書日課の中から、マタイによる福音書27章32節以下を選ばせていただきました。イエス・キリストが十字架の上で苦しまれる様子を「心に迫る描写」で描いているのがこの箇所です。早速、御言葉に聞いてまいりましょう。
今朝のメッセージはどちらかというと、後半に注目します。結論となる節を一節あげるなら、54節の言葉を選びます。今日の説教題もこの54節から取っています。
イエスが十字架ので死なれた後、目撃していたひとたちが「本当にこの人は神の子だった」と、信仰の告白をしている、その言葉です。
実は前半には、これと真逆の言葉表現がいくつもでてきます。
40節をご覧ください。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りてこい。」
さらに42節をご覧ください。「他人は救ったのに、自分は救えないイスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。」
苦しむ神の子を前にして、よくもこんなに侮辱的な言葉がいえるなあ!と怒りに満ちた気持ちになりますが、要は「お前を神の子とは認めない。信じない!」と言っているのです。
聖書記者のマタイは「この信じない人たちの態度」と「十字架の死後に、人々がイエスを神の子だと信じた」様子を対比させているのです。
それでは45節からの部分を読んでまいりましょう。
主イエスが十字架に架かられたのは朝9時ごろだったようです。午前中の3時間は特に変った様子はなかったのが、正午ごろあたりが真っ暗になったというのです。旧約聖書の時代から、神の裁きの象徴として「暗闇」が超自然的現象として現れることがありますが、イエスの十字架の死が「神の裁きである」ことを表そうとしているのです。
続く46節、ここは大切なのでよんでみます。
イエス・キリストは完全な人間の姿をとって、この世にきてくださったのです。そして人間の代表として私達が本来受けるべき苦しみを受けてくださいました。それは、「父なる神から見捨てられる」という苦しみです。
イエスは十字架の上で「どうして私がこんなに痛い思いをしなければならないのですか」とは言われていません。どうして「こんな残酷な処刑をされなきゃならないのですか」とも言われていません。
言われたのは、父なる神に対して「どうしてお見捨てになるのですか」という言葉でした。これが表すように、イエス・キリストのこのときの苦しみは「父なる神に見捨てられる!」ということだったのです。
わたしには、「このイエスの言葉が一番」胸に迫ってきます。 それは私の罪の身代わりとして死にて葬られたこと、その死によって私は救われたことが迫ってくるからです。
さてそんな状況の中、イエスが苦しむのを見ていた人たちがどういう態度であったのかが、続く47節から49節で見て取れます。(ご覧ください)
47節、49節から分かるのは、見物していた人たちが「エリヤは本当に助けに来るのか見てみたいから、十字架の上のイエスを苦しんだままにしておいてほしい!」という勝手な思いです。高みの見物をしていた人たちは、主イエスが「エリ、エリ!」と叫ばれるのを「エリヤ、エリヤ」と聞き間違えています。そして、天にいるエリヤが降りてくるのを見てみようじゃないか!そのような好奇心を持っているのです。
48節に記されているのは、見張りをしていたローマ兵の行動です。長い棒の先につけた「海綿」にぶどう酒を含ませて主イエスに飲ませようとしたことが分かります。これは苦痛を和らげるための「措置」だったといわれています。しかしそれは、「処刑される人への配慮」ということではなく「延命措置」という面が強かったようです。
十字架刑は手足を釘で打ち付けられます。出血だけでなく、不自然な状態で木に打ち付けられていることによって起こる「骨折」そして「体内組織の破壊」というものが起こったそうです。
十字架で処刑された人の多くは「自分を早く殺してくれ!」と叫んだと言われます。それだけ、苦しい、でも死にきれない、そんな苦しさの中でもだえ苦しんだのです。主イエスも苦しまれました。 しかし、そんな苦しんでいる人が「まだまだ、苦しむ姿を見ることができるようにと」延命措置がなされたのです。
人の罪の身代わりになるために十字架の上で苦しみ抜かれている神の子イエス・キリスト、それに対し「身勝手な思いから、非人道的な態度をとってしまう」人間の心の汚さ・醜さが表されているのがこの場面です。
そして、ついに50節、主イエスは息を引き取られたのです。
最後に主は大声で叫ばれたとあります。これはヨハネによる福音書19:30に記されている「成し遂げられた!」という言葉だと思われます。
何が「成し遂げられた」のかというと、イエス・キリストの父であられる、天の神様が、罪深い人間一人一人を救うためになされた御計画。それがイエス・キリストが犠牲の生贄として死んで下さったことによって、ついに「成し遂げられた」のであります。
私達一人一人も、この「成し遂げられた救い」の恵みに与っている者たちですが、それは、神の子であるキリストの「苦しみ抜かれた末の死」の上に成り立っていることを忘れてはなりません。
続いて51節から54節です。この部分が今日の箇所の中心、結論部分です。じっくりと味わいましょう。
救いの計画が成し遂げられたことによって、何が起こったのかが記されています。ここでは3つの「神による奇跡の出来事」が記されています。
①一つ目は、神殿の幕が真っ二つに裂けたということです。
この幕は、神殿の中の「至聖所」とよばれる、年に一度、大祭司だけが入ることの許された場所を「仕切っていた」幕でした。この至聖所では、大祭司が生贄をささげて、人々の罪が赦される様にと祈願していたわけです。
しかし!!神の子キリストが完全な生贄として死んで下さったために、私たち一人一人は神の前に出られるようになったのです。まさに新しい時代が来たことの象徴として、この「神殿の幕が裂ける」という事が起こったのです。
②二つ目の事、それは、地震がおこり、墓が空いて、キリストに望みをおいて死んだ者たちが生き返ったというものです。とくに主イエスが復活されたあと、多くの人がエルサレムで「生き返った姿を現した」とあります。
誰がどんな姿で生き返ったのかを詳しく知ることはできません。「これは本当のことなのか?」と疑ってしまうような内容です。しかし、墓に眠っていたラザロを生き返らせる神さまなのです。私はこれが実際に起こったと信じます。
死んだ者の体が生き返った。これよって表現されているのは「死の克服」です。死の克服と罪の赦しは切り離せないのです。本当に必要なのは、罪の赦しであり、神との交わりが回復されることなのです。
最終的にすべての人間が犯した罪を克服するのは「キリストの十字架」しかないのですが、このとき「キリストの十字架の力が」「すべての人にかかる死の力を克服したのだ、勝ったのだ」ということをこの出来事は表しているのです。
③そして三つ目は、最後の54節です。百人隊長や見張り役といったローマ兵が「この出来事を通して、十字架の上で死んだイエスはやっぱり神の子だったのだ」ということ知ったことが記されています。
彼らは十字架の上でイエスの姿をみていました。 間近でその様子を見ていた多くの人が「イエスが神の子である」ということを知った…それは自然なことと思われるかもしれません。しかし、そうではないのです。
十字架の上で処刑された人はたくさんいました。しかも最後に「神に見捨てられたことを大声で呪って」死ぬ人はたくさんいたといわれます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫び声をあげて、死んでいったひとはたくさんいたのです。
そういう意味で、主イエスは外見上、そういう処刑された人とは「なんら変わらなかった」という見方もできるのです。 しかし、ローマ兵をはじめ、十字架の下にいた人たちの多くは「処刑され、神に叫びながら死んだ主イエス」を「神の子だ」と認めたのです。これは、自然のなりゆきではなく、「神がなされた業」として十字架の死を見ることが出来たからだと、私は信じています
私たちは、今日の聖書箇所を通して、十字架の死がもたらす意味を深く心に留めましょう。世の多くの人はイエス・キリストをただ「十字架で殺された歴史上の偉人」としか捉えられないでいます。しかし、それらの人たちの中で少しでも多くの方が「十字架の苦しみが何の為であったのか」そして何がもたらされたのかを、聖霊の力によって悟ることができるように願います。
私たち一人ひとりも、十字架で死なれたイエスが「自分にとってなにをなしてくださったのか。そしてその苦しみによって自分はどうなったのか」ということを自分のことばで周りの人に証ししてまいりましょう。(祈り・沈黙)