「この人もアブラハムの子」9/6 隅野徹牧師

  9月6日説教 ・聖霊降臨節第15主日礼拝・聖餐式
「この人もアブラハムの子」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書19:1~10

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 今週の聖書箇所は「ザアカイが救われる物語」です。この箇所はとても有名ですので、ご存知の方も多いでしょう。話の展開も分かりやすいですし、紙芝居や寸劇でも描きやすい話です。子どもがよく聞いてくれる聖書の話の一つと言えるでしょう。

 「背の低い、嫌われ者の金持ちが木によじ登る…」子どもが面白がる要素がたくさんあります。この嫌われ者に、神の子イエス・キリストは自ら近づかれて「友となられる」、そしてザアカイは自分の罪を心から悔い改めて救われた… 本当に短いけれども感動的で、分かりやすい話です。

 しかし、ただ単純な話ではなく、大切な教えがたくさん詰まった箇所でもあるのです。私たちがここから受け取るべきメッセージのポイントがいくつもありますので、今週と来週の2週に分けてじっくりと読むことにいたしましょう。

 今日は1節~5節と、9節、10節を掘り下げます。その上でとくに心に刻みたいことは「失われたものを捜される神の子」と、「神との回復を望む失われた者」の出会いです。つまりどういうことかというと「愛の主、イエス・キリストの救いの業」と「ザアカイの求め」の両方が大切だ!ということです。

 1節2節を読みます。

 ここから分かる「ザアカイという人」についてお話しします。ザアカイはユダヤ人でした。この後詳しく触れますがザアカイも「イスラエル民族の父であり、信仰の父であるアブラハムの子孫」なのでした。神はアブラハムに「あなたの子孫を大いなる国民にし、祝福の基とする」と約束されました。イスラエル民族は「自分たちは神に約束された大いなる国民、神の民なのだ」という誇りを胸に生きていました。

 ザアカイもそのような「イスラエル人の一人」「アブラハムの子の一人」として生まれたのであります。

 しかし、ザアカイは「アブラハムの子」として生きることを捨てていたのです。アブラハムのように「神の約束を信じぬき、神に全てを委ねて歩む」ことの素晴らしさが、イスラエル人の彼には小さな頃から伝えられたはずです。しかし、ザアカイは「神の約束を信じ、神と共にあゆむ」ことをしてこなかったことが明らかです。それは2節の「徴税人の頭で金持ちだった」という記述から分かります。

 徴税人とは、文字通り人々から税金を取り立てる人のことです。この当時イスラエルは「ローマ帝国の属国」として人々からの取り立てた税金はローマ帝国にいっていたのです。ローマ帝国はイスラエルの徴税人に対して、次のような通達を出していたと言われます。

 「規定の額以上を取り立てた場合、その多く取り立てた分は取税人の取り分としてよい」

 洗礼者ヨハネは、取税人が悔い改めて神とともに歩むための教えとして「規定以上のものは取り立てるな」と教えています。それはイスラエルの民たちの生活が困窮しないためです。

 しかし、ほとんどの徴税人は「神の民であるイスラエル人の同胞を愛すること」よりも、「ローマ帝国」を盾にして、私腹を肥やしたのです。ザアカイもそうであったのです。アブラハム以降大切に教えられた「隣人愛」を彼は全く無視していたのです。その姿は10節でイエスが言われるように「失われた者」そのものだったのです。

 ザアカイが「失われた者だ」という意味は、もう一つあります。それは「神との関係が崩れていた」ということです。ザアカイは金もちになり、徴税人でも「トップになり」権力も得たのでしたが、心の中は平安ではありませんでした。だからこそ、イエスがどんな方なのか興味を持ったのです。

 3節のもとの言葉を直訳すると「ザアカイはイエスを見ようと努めた」となるそうです。つまりザアカイは「何とかしてイエスに会おうとした」ことが分かるのです。その心にあったのは「大金を手にしても、地位を得ても、それだけで本当の幸せは得られない」という空しい思いであったに違いありません。

 つづいて4節、5節を掘り下げます。(※読んでみます)

 いい大人が木に登る…それは笑いものになることが多いです。しかし、この時ザアカイは「恥をかなぐり棄てて!」木によじ登り、イエスに会おうとしたのです。「ちょっと見てやろう!」という冷やかしの気持ちではここまでのことはできません。それまで「お金第一」で生きてきたザアカイ。その彼が今必死に求めているのは「会ったとして一円の特にもならない、イエスとの出会い」だったのです。

 みなさんは「キリスト教はご利益宗教ではない」ということをよく聞かれるでしょうが、それをよく表しているのが、今回のこの「ザアカイの物語」だということを覚えておいていただければ幸いです。

 このように「ザアカイの熱心な求め」によって、お金第一だった、失われたような状態だったザアカイはイエスによって救われるのです。求める心が大切である、その一方で「神の子キリストもまた、ザアカイとの出会いを求めておられた」だから彼は救われたのです。

 6節以下には、ザアカイがイエスの愛にふれてどのように変わったのかが記されています。ここは来週深く掘り下ることにします。   残りの時間、10節の御言葉にあるとおり「失われたものを捜して救う、イエス・キリスト」に注目して御言葉を味わいましょう。

 5節の場面でザアカイとイエス・キリストは出会います。イエスは「木に登っている、目立っているから」ザアカイに気づかれたのかというと、そうではありません。聖書に出てくる「イエスに出会って人生を変えられた他の登場人物」と全く同じように、イエスは「ザアカイに出会うため、そして救うために」わざわざ会いに来られたのです。

 ザアカイが人生に虚しさを感じている「ちょうどその時に」エリコの町に入られたのも、そして背の低いザアカイでもよじ登れる「いちじく桑が植わっている通り」をちょうど通られたのも、すべては神の、そして神の御子イエス・キリストのご計画の中にあったからです。

 ザアカイとイエスの出会いは「偶然ではなく、神のご計画である」ということは5節の後半からも明らかになります。

「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日はぜひ、あなたの家に泊まりたい。」

 初対面のはずのザアカイの名前をイエスがご存知だということは、「前々からザアカイを必死に探されていたイエスの愛」が読み取れます。そして「ぜひ、あなたの家にとまりたい」という元の言葉は直訳すると「泊まらねばならない」となるそうです。(強)今日あなたの家に私が泊まることは神のみ旨なのだ!ということをザアカイにはっきりと伝えておられるのです。

 皆様想像してみてください。これを受けてザアカイがどんな気持ちになったかを…

 アブラハムの子として互いに愛し合わねばならないイスラエルの民たちから「規定以上の税金をむしり取ってきた」ザアカイ。きっと人から嫌われ、憎まれていたことでしょう。そんな罪深く、人からも嫌われていた彼の名を呼んでくださる方があったのです。その方は「ずっと出会おうとして捜してくださっていた」、そして「あなたの家に泊まらねばならない」とまで言ってくださったのです。 

 その愛がどれだけザアカイの心に染みたか…みなさんもお分かりになるでしょう。

 アブラハムの子でありながら、迷える子羊のように「本来いるべき場所から、さ迷い出ていた」まさに失われた者であったザアカイは、こうして神の御子の深い愛によって救われたのです。

 このように、救いはただ「キリストの愛」によってなされるのです。

 もちろんザアカイがイエスを必死に求めたことは大切です。イエスの救いの手を振り払ったり、無視することもできたでしょうが、そうはせず、素直に「イエスを求めた」そして「罪を認めて、生まれ変わろうと決心した!」だから救いを逃さずに、得ることができたことは確かです。

 しかし、ザアカイの側に何か優れたことがあったから救われたのではない!ということをしっかりと心に留めましょう。

 「ザアカイはお金を持っているぞ。だから彼を回心させたら、貧しい人にお金が回って助かるぞ…」そんな風にイエスが考えられたのでは決してありません。来週詳しく見ますが、ザアカイが貧しい人に施しをしたのは、あくまで自由意志です。イエスの愛が先にあって、その愛に応答しただけなのです。

 9節をご覧ください。私は長らくこの言葉を勘違いして読んでいましたが、そのことをお話ししてメッセージを閉じます。

 「今日、救いがこの家を訪れた」とイエスが仰った訳は、ザアカイが「全く生まれ変わって、罪を悔い改めたからだ」と思っていました。でも1節から5節、そして10節と繋げて深く読むなら「救いが訪れたのは、神の子イエスが、愛の故にザアカイを捜されたからだ!それが何より一番だ」と私は後になって気づいたのです。

 9節後半の「この人もアブラハムの子なのだから」というイエスの言葉も、注意深く見るなら「この人は正真正銘、アブラハムの子になったからだ」とは語られていないことに気づきます。つまり、どういうことかというと…善い行いを積んで「アブラハムの子になったから、救いが訪れた」とは仰っていないのです。

そうではなく、ザアカイが「もともとアブラハムの子だったから」救いが訪れたと仰っているのです。もともと神に祝福された命であった、神からみて無条件に愛すべき命であった、だから!神の子イエスがさがし出され、救われたのです。

 この場面の少し後、イエス・キリストは十字架に架かって死んでくださいました。そして死に打ち勝って復活して下さって救いの業を完成させてくださいました。そのことによって、救いは「イスラエル民族だけでなく、すべての人間」に及ぶこととなったのです。

 ガラテヤ書3章28節、29節にある次の言葉が示す通りです。

 「もはや、ユダヤ人も、ギリシャ人もなく、奴隷も、自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」

 ここにいる私たちもみな「神が祝福されようとしているアブラハムの子」なのです!だからザアカイと同じように「神が罪から救って、祝福しようとしてくださろうとする、大切な命」なのです。

 ザアカイがそうであったように、「金や権力を第一とする生き方をしていて、そこからなかなか抜け出せなくても」それでも!愛の救い主イエス・キリストは私たちを捜し続けてくださっている!このことを深く心に刻みましょう。そのキリストの熱い愛を、まずしっかりと受け止めましょう。

 「こんな私をも愛してくださるお方がある」そのことを真剣に受け止めたなら、ザアカイのように人生が大きく変わることを信じています。 (祈り・沈黙)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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