10月12日 聖霊降臨節第19主日礼拝・神学校日礼拝
「さあ、見に来てください」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書 4:25~42
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日本基督教団では10月第二主日を「神学校日」と定め、神学校の働きと、そこで学ぶ神学生の祝福を覚える礼拝をもっています。それと同時に「神の働きのために自分をささげたい」と願う「献身者」が多く起こされることを祈る礼拝です。ここ数年同じようなことを言っているように思いますが、献身者、つまり神学校入学者が激減しています。
献身者が生まれる、また受洗者が生まれるときは、キリスト教界全体の空気が「活気に満ち、収穫を皆で喜んで行う」ような空気があるときだと感じます。今日の箇所は、良く知られた「イエスとサマリア女の物語」の後ろの部分の話ですが、その中の「イエスの与える食べ物の刈り入れ・収穫」について教えられる31節から38節が「神学校の働きについて、そして伝道者献身者について」の教えを与えられる箇所だと感じました。一回読んだだけでは意味が通じにくい言葉が並んでいますが、私は「今年の神学校日礼拝である今日」皆様と共に読みたいと示されました。流れをおいながら御言葉を味わいましょう。
ご存じの方も多いと思いますが、今回の箇所にいたるまでの「聖書のあらすじ」を簡単に話ます。実はこのサマリアの女の物語は、私が「キリストのことを自分だけで留めていないで、周りの人に証していこう」と考える原点となった箇所なのです。
4章の1節、ある暑い日に「神の御子イエス・キリスト」は民族的対立を超えて「敢えて、サマリアに行かれた」ところからこの物語は始ります。
ヤコブの井戸と呼ばれる場所に腰を下ろされ、「低くて弱い、求める者」となられ「相手を上に置いて」水を飲ませて下さい、とお願いをされたのです。その相手が「人目を避けて井戸に水を汲みに来た、ある女」でした。彼女は当時の結婚制度のもとで苦しみ「人間不信に陥っていた」と考えられますが、イエスは、まず「この女」に近づかれて、対話を始められたのです。
大学1年生当時の私は「自分の気持ちなんて誰も分かってくれやしない。そして神様は私のことを本当に大切に思っておられるのかどうか分からない」なんて思っていました。まさに「サマリアの女」と自分が重なったのです。そして失っていた「神を畏れ敬う気持ち」が回復していく「サマリアの女」とイエスの対話に「引き込まれていった」のを懐かしく思い出します。
物語の中盤で女は「神に礼拝をささげるにはどうしたらよいか」と尋ねるのですが それに対してイエスは「婦人よ、私を信じなさい」と言われます。「あなたは傷ついてきた。生きる意欲を無くしてきた。でも今神のみ前に出ようとしている。これから新しい命が始まるのだ。神の御子であり、永遠の命を与えることができるこの私を通して、誠心誠意、天の父の前に礼拝をささげよう。そのことを天の父なる神は心から待っておられるのだ」このような愛の招きがなされたのですが、この招きは「自分にも同じようになされているのだ」ということに気づかされ、私もキリストと共に歩みたい、という思いが与えられたのです。
今回の箇所25節以下は「サマリアの女がどう変わったか」が描かれています。
25節の「サマリアの女がいった言葉」にご注目下さい。イエスの「わたしを信じなさい」という愛の招きにより、「霊と真理の礼拝」に導かれます。
そのことで、「あなたこそが救い主ではないですか」という思いが湧き、イエスに伝えた…すると「私がそうである」とイエスが答えられたのです。
この信仰の告白とイエスからの応答があって残りの感動的な話は進んでいきます。27節から30節サマリアの女は水がめを置いて町に向かいます。それまで自分が「接触を避けてきた人々」のもとにいって、救い主のことを知らせに行ったというのです。
それまでサマリアの女は人に会うのが嫌だったけれども、生きていくために仕方なく、必要に迫られた外出だったのですが、それをある意味で象徴している「水がめ」を置いて!彼女は、人々のところに向かうのです。
キリストに出会って罪から救われた喜びは、人間同士が作っている壁をも超えるものなのです。「この人に伝えたくてたまらない…」そのような思いを湧きあがらせるものだということを教えられます。
今日私が中心的に語りたい「32節から37節」は最後に回します。
先に39節から42節をご覧ください。
まずサマリアの女によって、多くの人が「イエスが救い主である」ことを信じてイエスのもとに来ます。そしてイエスに「もう少しここに留まってほしい!」と頼んだのです。2日間そこに留まられたイエスは「神について、救いについて」熱心に語られたのでしょう。その言葉を聞いて、更に多くの人々が「この方が、本当の世の救い主である」ということを信じたのです。
サマリアの女が「すべて言い当てたから信じた」のではなくて、イエスにしっかりと会いにきて、またその言葉をしっかりと聞き、自分で決めて「信じたのだ」ということが最後の42節に語られています。一人の苦しんでいた女性が「救い主によって救われ、変えられた」証しをしたところから、キリストの救いという喜ばしい業は町中に広まったことを聖書は語り、一連の物語は閉じられます。
さて今日の中心の31節~38節を読むことにします。(※まず31節から33節をご覧ください)イエスが「サマリアの女」と対話されていた時、弟子たちは食べ物を買いに町へ行っていました。その弟子たちが帰って来て、「先生、食事をどうぞ」と言いました。するとイエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」とおっしゃいました。弟子たちはこのお言葉にとまどい、「別のだれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言ったのです。
言葉の意味がわからない弟子たちにイエスがその本当の意味を示されたのが34節です。
分かりにくいですが、ここでイエスがおっしゃっていることそれは、「ご自分与えるの食べ物とは、父なる神の御心を行い、父が自分に与えて遣わして下さった使命を果たすことだ」ということなのです。この言葉にある「神の御心を行い、神の業を成し遂げる者」としてこの世に送られたのがまさに「神の御子イエス・キリスト」です。うに「神にならって、神の業を成す」ことが「実りのある人生」ということができるのですが、イエスはその生き方・人生のことを「本当の食べ物」として表しておられるのです。
この「本当の食べ物、実り」ですが、キリストを信じ受け入れ、新しく生まれる命のことを指していることは間違いありません。
そして35節、イエスが弟子たちに話された「刈り入れまで、まだ4か月ある」という言葉。これは、当時のイスラエルの実際的な格言なのだそうです。どういうことかというと「種まきをしてから、刈り入れまでは4か月かかる。その間はのんびりしていよう。真面目に働いても意味がない」というような意味だそうです。
しかし、イエスは言われます。「目を上げて畑を見上げるなら、刈り入れる実りがたくさんあることに気づくのではないか」と!
これは「39節以下の出来事」をあらかじめ預言されたものです。つまりサマリアの多くの人々が、女の証言を聞き、「ここに救い主がおられるかもしれない」という求めをもって、イエスのもとを訪ねてきた。そしてイエスの話を聞いて、多くの人が心から救い主として受け入れたという、感動的な出来事です。
弟子たちは思っていたことでしょう「土着宗教が強く、民族的対立のあるサマリアで福音の種を蒔いても、その苦労は報われない」その心を見透かして、イエスは「あなたがたは、刈り入れまでまだ4か月もあると言っているではないか」と言われたのですが、この言葉は「私にも語られているのではないか!」と今回痛烈に感じさせれたのです。
最低限の礼拝や祈祷会を守る…それを種まきだとするなら、その収穫をどこか蔑ろにしている自分に気づかされたのです。牧師の数が減り、複数の教会を牧会したり、牧師同士の中で負う役割も以前より重くなっている…そんな言い訳をどこかでしている自分がいるように思いました。
しかし神はこの伝道が進まないように見える現状の中でも「刈り入れを待っている実りは沢山あるのだ」ということを、サマリアの女との対話を通して、また彼女に端を発して沢山の人が「キリストを信じた」出来事を通して示して下さっていると感じました。36節にあるように「刈り入れこそが永遠の命に至る実りの収穫であり、神からの霊的な報酬や喜びの与えられることなのだ」と示されます。種を蒔いただけで、その後を放置してしまったら得ることのできない「報酬、喜び」が刈り入れにあるのです。
そしてメッセージの締めくくりに36節から38節を味わいたいと願います。
ここでは「神の実りであり食べ物につながる種蒔き」と「それを刈り入れること」はチームですることなのだ、ということが教えられるのです。
今日は神学校日ですから、ここを一番強調してお話ししたいですが、現在牧師として召されている者も、信仰歴の長い信徒さんも、いま神学校で学んでいる神学生も、そしてこの先に洗礼を受ける人も「時間を超えて、皆一つのチームとなって、刈入れにつながる労苦を共に負うことの大切さ」を皆様に分かち合いたいです。
収穫など一体どこにあるのか?…と感じてしまうキリスト教界の現状でも、わたしたちなりに「永遠の命の実りの刈り入れ」につながることをしていこうではありませんか。毎週の礼拝を守るだけで精一杯と私たちが感じていても「まわりには刈り入れる実りがあるよ」とイエス・キリストは示して下さいます。ぜひ励んでまいりましょう。(祈り・沈黙)