6月29日 聖霊降臨節第4主日礼拝
「すべての民が神に感謝をささげるように」隅野徹牧師
聖書:詩編 67:1~8
(画像が開くのが遅い時は「Reload Document」または「Open in new tab」を押してみて下さい。)
Loading...
今日は、礼拝後に「柳井トメ代さんのお父様であり、昨年召された柳井キミ子さんのパートナーであった柳井一熊さん」の納骨式を執り行います。
先日、萩市田万川町にあったお墓を墓じまいされたのですが、その中から一熊さんのご遺骨だけは、キミ子さんが埋葬されているこちらの教会墓地へとの希望がなされ、役員会で了承し、今日の納骨に至りました。
一熊さんは1933年に生まれ、1991年に天に召されました。私はこの地上でお会いすることは叶わなかったのですが、いまから4年前の2021年夏、柳井家のお家の解体のお祈りに行かせていただいたとき、一熊さんの生前のご様子に触れたような思いがしていました。
田万川町の中心江崎から川を上がっていった、自然豊かな田園地帯に柳井家はありました。お仕事で忙しくされる一方で、一熊さんやキミ子さんは稲作に励んでいらっしゃったと聞いています。
「ここで作られたお米はさぞかし美味しいことだろうな…」と、お祈りの式にうかがったときに真っ先に思ったものです。 現在のような「コメ不足が顕在化するまえ」ではありましたが、その場所を最初に開拓された柳井家の先祖の方々のご努力、そして近いところで一熊さんやキミ子さんのご苦労や、コメ作りによって多くの人の食べ物を提供されてきた、そのお働きの尊さに思いをはせたのであります。
そして一熊さんの命を神が与え、育んでくださったからこそ、山口信愛教会の私たちは柳井家の皆様との出会い、そして神にあってのお交わりで出来ていることを思います。
このように地上では一緒に過ごしていなくても、「天地の造り主であり、すべての導き主である、天の父なる神」の視点でみるなら、一熊さんと私たちの間にはいろいろな繋がりがあり、また私たちは一熊さんを通して「神に感謝をささげる」ことができます。 本当に素晴らしいことだと思います。
今日は、日本基督教団の聖書日課で選ばれている箇所のなかから詩編67編を選び、このところからみ言葉に聞きます。 この箇所は「7節」の「大地は作物を実らせました」という言葉がでることから、収穫感謝礼拝のときに開かれることが多い印象です。 柳井家の納骨式を行う日に、この「大地の収穫への感謝が語られる」箇所が与えられたところに神の導きを感じます。詩編67編をじっくりと味わってまいりたいと願います。
この詩編は、もともと「収穫感謝のまつりごと」のときに歌われた歌なのだと理解されています。しかし、世界に数多(あまた)ある「収穫感謝のうた」と違うところがあります。それは、全世界の救いを願うなどスケールの大きな「祈りが詩となっているところ」です。
つまり!詩編67編は「感謝の言葉がならんだ歌」ですが、これは「祈りの言葉」が記されたうただと理解できるのです。「感謝の祈り」がうたわれているのです。
世間一般では、祈りと「願い事をすること」がごちゃ混ぜになって理解されていますが、聖書の教える祈りは「自分の思いを訴えることよりも」まず!「生ける神に向かって、畏れと確信をもって」近づくことから始められることを教えられます。
イエスが、弟子たちに、祈りの基本を教えられたのが、さきほど子どもたちとともに祈った「主の祈り」ですが、最初の祈りが「御名があがめられますように。」つまり「神であるあなたを褒めたたえさせてください」という祈りなのです。
神の前にへりくだっているかどうかをしっかり吟味した上で、その後の祈りの言葉を発する…それが大切なのだと教えられます。
もしも自分自身が神の上に立って「あれこれ要求するような言葉を並べても」それは祈りになっていませんし、感謝をするにしても「感謝の気持ちを表す相手がどなたであるのか、その心を整えることがなければ」感謝の祈りにはならないのです。
これから「この詩のクライマックスである、収穫の感謝をあらわした7節」に至る前の2~6節を読みます。祈る自分自身のことを、しっかり見つめつつ、神をあがめ、ほめたたえるのですが、同じ思いを持つ人々が「世界中に増す」ことを願っているのです。【※それでは2~6節を読んでみます】
ここでは「世界中の国々の人が救い主である神を知ることができるように…」そのことが願われています。 どんな救い主なのかについては5節で表されています。
ここには「全ての民を公平に裁き、この地において諸国の民を導かれることを」と詠われています。
キリスト教会は、これらの言葉が「人の姿をとって、この世に来てくださった神の独り子イエス・キリストによって成就した」と理解します。
それまで「ユダヤ人に限定的だった救いの約束」を、世界の民へと開いてくださったのがイエス・キリストです。神の子でありながら低いものとなられ、私たち人間とともに生きて下さった後、すべての民たちの犯した罪の身代わりとして十字架にかかったのがキリストです。67編5節の「すべての公平に裁く」ということがこの十字架に表れています。
それまで「約束の民であり、祝福の源の民である」とされたユダヤ民族のためだけでなく、すべての民たちの罪が「公平に裁かれた」のです。
しかし、裁かれただけで終わりません。死に打ち勝って復活してくださったことにより、5節の後半にあるように「この地において諸国の民を導かれる」ということが実現したのです。
この地は罪に満ちています。そして現在も全く変わらないのですが「民族間、国家間で憎しみ争い」を起こしています。それでも、この地の「暗闇、絶望」だけで終わらないのです。
この地にあって「天への道」へと導いてくださる方が、「天地創造された唯一の神」であり「その独り子であるイエス・キリスト」なのです。
この詩編67編をうたった詩人が「世界のすべての民たちが、罪を公平に裁く唯一の神を知り、感謝をささげますように」と祈ったように、私たちもぜひ祈りましょう。
多様性の時代であると言われます。どんな信教、信条をも持つ自由があります。でも世界を作られたのは「たった一人の唯一のお方だ」ということを聖書は教えます。しかし、その唯一のお方は「排他的な方ではなく愛のお方」です。だからこそ、世界の民たちを公平に裁き救うために「独り子であるイエス・キリスト」をこの世にお遣わしくださったのです。
発言の自由などもあり、バラバラになりかけているいまの世界を「再び一つにする鍵」は、私は世界のすべての民が「キリストを知ること」にあると信じています。
祈りに心を合わせて下さると幸いです。
最後に「収穫感謝」の言葉が祈られ、この詩のクライマックスといえる7節、8節を味わって、メッセージを閉じたいと願います。
7節の、「大地は作物を実らせました」という言葉の背景にあるのは、ユダヤの人々が大変な思いをした「捕囚から解放」があると言われています。やっとの思いでパレスチナ地方へ戻り、やっと落ち着き「作物が実った」その感謝を宣べるとともに、8節では「再び戦乱状態になって、大地が荒され、収穫が出来なくなるということが起こりませんように!」という願いも込められているのではないか、ということを今回私には示されました。
先程から再三触れているように、今日はとくに柳井一熊さんの生涯の歩みを心に留めてメッセージを語らせていただいているのですが、田万川の豊かな自然の中でいきてこられた一熊さんは、人間の力を超えた、自然の力を感じておられたのではないかと私は想像しています。
大自然の中で、農業を行う…それは時には日照りがあったり、大雨や台風があったりします。だからこそ、謙って、自分をこえた大いなる力に助けを求めて祈った、というご経験がきっとあったのではないか…そう思っています。そういう、人間の有限性の悟りが、お子様たちの「神を求める思いにつながったのではないか」そのような妄想が浮かんできました。
本当にそうなのかどうかは神のみぞ知ることですが、しかし、神・キリストの導きがあって、今日の礼拝、この後の納骨式を持つことが出来ることは間違いのないことだと思っています。
大地と向き合う中で、何か大切なことを感じ、そして人生を導かれた柳井一熊さんを覚え、私たちも詩編67編7節8節の祈りを「自分の祈りとして」ささげてまいりたいと願います。
環境破壊によって、また人間の強欲によって「神が授けて下さった、大地の作物の実り」が脅かされている今の世の中です。そして「世界の対立、戦乱」もまた、食糧の確保に大きな影を落としています。
だからこそ、世界の人々が創造主、救い主を知って遜ることによって「平和が保たれ」そして「豊かな自然のもとで、神からの食べ物の恵みを得ることができるように」どうぞ共に祈って参りましょう。(祈り・沈黙)