1月26日 降誕節第5主日礼拝
「ぜひ知ってもらいたい」隅野徹牧師
聖書:ローマの信徒への手紙 1:8~15
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昨年の今頃、ニューヨークタイムズが「今世界で訪ねるべき場所の3番目の場所」として山口市を選んだ、というニュースが流れたとき、驚きをもって受け止めたという方は多くあるのではないでしょうか? しかし…実際、皆さんの日常生活の中で「人が増えたなあ…」と感じることは特になかったのではないかと思います。
山口信愛教会も、また私が町内会長を務めていますこの「下後河原」もとくに大きな変化はなかったように思います。会堂を見学させてください…といって入って来られた方の数は、そんなに増えてはいません。しかし、一つ大きな変化と言えば「外国の方が、会堂を見せてほしい」と来られる機会が増えたことです。
アメリカや、韓国といった国から来られた方々が、スマートフォンの「翻訳アプリ」を使って会話をしていかれましたが、皆さん「わたしもクリスチャンですが、こんな日本の伝統的な街並みの中に、キリスト教会があることをみて励まされました」と仰ってくださいました。
何か特別「目立ったことをしている」というよりは、シンプルに「礼拝と祈りを大切にする場として、この場に立ち続けている」山口信愛教会ですが、この教会の存在が、「キリスト教国」とよばれる国々の旅行者たちの心を励ましたのだとしたら感謝です。
さて今朝の「礼拝メッセージ」は、4つある聖書日課の箇所から「ローマの信徒への手紙1章8節からの部分を選びメッセージを語ることにしました。今日の箇所の最初の8節の後半に「あなたがたの信仰が、全世界に言い伝えられている」という言葉がでますが、これから、「山口信愛教会を訪れてくれた、外国のクリスチャンたちが、帰国後私たちの教会のことを何気なく証ししてくれているのではないか」ということが連想されました。
ローマの教会は、できたばかりで「信仰的にも課題があっただろう」と予想されています。それでも、「あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられている」と言われているのは、「皇帝のおひざ元であり、皇帝礼拝なども周囲でなされている、あのローマで、教会が建っていることがすごい」ということが、広まり、そのことをパウロは喜んでいるのです。
私たちも、桜が咲き、ホタルがとぶ「旧市街地」で、立つことを許された「山口信愛教会」につながる一人ひとりです。特別なことはできなくても、私たちらしく「ここに教会あり」「ここにキリストの福音に立つ群れあり」ということを証ししていきたいと願います。
今日の箇所は、これにつづいて、「ローマの教会の信徒たち」にパウロが何を思っているのかが教えられる箇所です。13節には「何度もローマに行こうとしたが、それが妨げられている」ことが書かれていますが、それだけ熱い思いをもって「手紙を書いている」のです。 パウロを通して「キリストにある交わり」が教えられる9節から15節を共に味わってまいりましょう。
この部分はローマ書の「冒頭の挨拶の言葉が語られている部分、いわば「本論に入るまえの部分の後ろ側の箇所」です。 私は今回の箇所を深く味わうためにキーになるのは14節、15節だと捉えています。 (まずこの2節をよんでみます)
15節の最後に「あなたがたにもぜひ福音を告げ知らせたい」とありますが、ローマの教会の信徒たちはすでに「福音をしっているどころか。受け入れている」人達なのです。それなのになぜ「あなたたちに福音を告げ知らせたい」パウロは言っているのでしょうか
この理由について、よく言われるのは「ローマの信徒たちは、使徒によって建てられた教会ではないので、「キリストの福音を正しくしらなかった」だから、パウロは自分が行くことによって「一から福音を教えたいと願っている」というものです。
確かにそういう側面もあったでしょう。しかし、私は「ここでパウロが告げ知らせたい」といっている「福音」とは…「教理的な教え」だけではないと思っています。いわゆる「神学とか教理とか」そういう「固い学問」を教えるのではなく、心と心の通い合いを含む「福音」を伝えようと願っている…そのように私には示されました。
なぜそのように示されたかというと、その前の14節の言葉が響いてきたからです。
ここに記されている「ギリシャ人と未開の人」そして「知恵あるひととない人」これは当時あった「差別や偏見」を表す典型的表現だったそうです。
つまり、ここから何が分かるかというと、「パウロは、世の中に差別や偏見があるが、自分はすべての人に対してイエス・キリストの福音を伝える責任を感じているのだ」という思いだと理解します。
神は、その独り子イエス・キリストをこの世に送り、すべての人を「民族の違いや、行動の良しあしに関係なく、罪から救い、復活の命を与える」という道を開いてくださいました。その「福音」には、世の中で蔓延る「差別や偏見を超える力がある」、だから伝えたいのだ、というのがパウロの姿勢です。そこには「上から目線」は全くない、と考えるのが自然ではないでしょうか。
「ローマ教会のあなたたちは、キリストのことや、旧約聖書のことが分かっていないからわたしが教えてあげよう」という高慢な思いはそこにない、と今回黙想の内に私には迫ってきたのですが、皆さんはどのようにお感じでしょうか。
当時、学があり、豊かさもある人の代表と目されていた「ギリシャ人」と、その反対の立場にいた人と同じように、あなたたち「ローマの人たちと交わりたい。その中心に「キリストの福音」を据えて交わりたいのだ!そのような、パウロの「キリストにあっての生きた愛の交わりの願いがこの箇所に語られている、そう私は思います。
これは今ここにいる私たちも、志すべきことではないでしょうか。
新興宗教がノルマとしてやっているように、「一週間の間何人の人に、イエスの十字架と復活の話を聞いてもらった」ということをしても、それが「上から目線であったり」「相手を愛する思いを失った思いからやることならば」全く意味をなさないと感じます。
かつて、私は「義務感や、上から目線、自己満足」から、イエス・キリストの十字架と復活を人に語っていたな…ということに気づかされ、悔い改めの気持ちをもちました。
イエス・キリストによる福音は「すべての人を無償で愛する、神の愛の表れ」です。頭だけで理解するものでもなければ、「学問や知識」として伝えるものでもないのです。
イエスご自身が、ルカ17章21節で「神の国は、あなたがたの間にあるのだ」とおっしゃっているように、「神の国の福音、希望」は、「文字として机の上であるもの」ではなく、「人と人との生きた交わりの中で、働くものだ」とわたしも信じています。
このように「人と人との生きた交わりの中で、働く福音」をパウロは、どのように「ローマの信徒たちと分かち合おうとしていたのか、それが後回しにした「9節から12節」に表れています。ここからは「独りで生きていくのではなく、周囲と祈りつつ支え合いながら生きていくことが必要な私たちの現状」そして「一教会にとどまらず、周囲の教会との助け合いが必要な山口信愛教会の現状に対して、大切な教え」が読み取れます。
残りの時間、この部分から大切なことを読み取って、メッセージを閉じたいと願います。
それでは9節から12節を読んでみます。(よんでみます)
9節後半から10節にかけてパウロは「いつもローマの信徒たちを覚えて祈っていること」、「何とかしてローマに行けるように祈っていること」を伝えます。
いつも祈っているというのは「社交辞令」ではなく、真実だということを、神は証ししてくださると9節で言っています。
パウロが、まだ会ったことのないローマの教会の人々のことを思い起こしてとりなし祈ったように、私たちも、会ったことのない、顔も名前も知らない、全世界の教会と、そこに集う人々のためにとりなし祈ることができる、その祈りによって「つながりを持つことができる」ということが教えられるのです。
そして…祈りは、その人々と実際に会いたい、その人々の所に行って顔を合わせたいという願いを生むものだということも教えられます。
相手のための祈りが真剣になされる時には、祈っているだけでなく、その相手のところへ行って顔を合わせ言葉を交わすなどの「心と心の交わりをする実際の行動」へと導かれることがあるのです。
まず相手のために祈り、その祈りの中で「自分のなすべき行動も与えられていく」ということではないでしょうか。つづく11節と12節はそれが表れていると理解します。
パウロはローマの信徒たちに会って「霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたい」ということと、「ローマの信徒たちと、パウロ自身の互いの持っている信仰によって、励まし合いたい」ということをいっています。
繰り返しになりますが「あなたたちに正しい福音を教えてあげよう」とか、そういう心は全く見て取れません。「上から目線」ではなく「少しでもローマの信徒たちの力になるならば自分に与えられているものは何でも差し出したい」そういう思いを伝えているのです。
そして「受ける一方」ではなく、ローマの信徒たちがもっているものによって自分も力づけられたいともいっています。そうして共に励まし合いたいと言っているのです。
私たちもこのパウロの心を持って!「自分以外のクリスチャン、違う教会、違う場所や国にいるクリスチャンたち」のために祈りを積みましょう。
その中で「霊の賜物の分かち合い、励まし合い」に導かれると信じています。それが頭の理解を超えた「心に響く福音の広がり」に繋がることを希望として、今回の箇所から受け取りました。
今朝も瞳牧師が安岡教会で説教奉仕をしていますが、一教会だけで完結するのではなく、様々な教会の連携、支え合いが必要な時代となっています。また教会も「少子高齢化」が進み、つながる者同士が支え合うことが不可欠となっています。
どうか「おなじキリストの愛を知った者たち」が、心と心を通わせ、励まし合うことの中に「キリストの福音にいきること」が証しされますように。そのことを信じ祈ります。(祈り)