
10月26日 聖霊降臨節21主日礼拝
「ひとりのみどりごが生まれた」 隅野瞳牧師
聖書:イザヤ書 8:23b~9:6
(画像が開くのが遅い時は「Reload Document」または「Open in new tab」を押してみて下さい。)
Loading...
本日は、神の御子がお生まれになった意味、そこに与えられる喜びについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。
1.闇の中を歩む者に、光が輝いた。(1節)
2.神の御子が私たちのためにお生まれくださった。(5節)
3.主が平和を成し遂げてくださる。(3,6節)
1.闇の中を歩む者に、光が輝いた。(1節)
アドベントを迎えました。アドベントは「到来」という意味で、救い主としてお生まれになった主イエスの恵みを覚え祝うとともに、主が再び来られる約束を心に刻み、備え待ち望む時です。本日はイザヤ書を通して、救い主の到来を待ち望む預言がどのような状況の中で告げられたか、ご一緒に御言葉に聴きましょう。
紀元前7世紀頃、南北に分かれたイスラエルの北の地域が、大国アッシリアに占領支配されました。8:23にある「海沿いの道、ヨルダン川のかなた異邦人のガリラヤ」は、その地域をさしています。そこに主の御言葉が告げられました。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(1節)
時代はいまだ闇の中にあり、国土も人々の心も、死の陰の地の状態でした。「死の陰の地に住む者」とは、文字通り死に瀕している人たちだけでなく、深い絶望にとらわれている人たちもそうでしょう。そのようになってしまったのはイスラエルが神に背いて異教の神々を礼拝し、主を信頼せず人間的な手段で、強国と戦おうとしたからです。北イスラエルは前722年にアッシリアに敗北して捕囚となり、逆にアッシリア帝国の各地から連れてこられた人たちがイスラエルに移住させられました。その子孫がサマリア人と呼ばれ、ここでは「異邦人のガリラヤ」とありますが、これは民族的、信仰的に純粋ではないという、蔑みの言葉です。
しかしイザヤは彼らに、希望の御言葉を語ります。それは天地創造を思い起こさせるものでした。混沌と闇の中に「光あれ」と神の言葉が発せられると、光があったのです。神は無から有を、闇から光を創造することのできる、命の光なるお方です。この主の光が輝く時、アッシリアの支配は終わり平和が訪れます。
「地を踏み鳴らした兵士の靴 血にまみれた軍服はことごとく 火に投げ込まれ、焼き尽くされた。」(4節)戦争は家畜を労働に使うための軛(くびき)のように、人々から自由を奪いました。彼らは重い税金や労働を課せられ、うめきました。しかしその軛が折られ、自由を取り戻す時が来ます。そして主の前に、ともに喜び祝うようになるのです。
この預言は近い将来とともに、数百年後にお生まれになるイエス・キリストについても告げています。闇に覆われ、希望が見えない現実の中に生きる者たちのために、主イエスはお生まれになりました。主イエスは私たちを罪から救うために、十字架の死にまで降られました。ですから死の陰の地まで照らせるのです(ヘブライ2:18)。神から離れている時、私たちは罪と死に支配された自己中心な歩みしかできません。善を行うどころか人を傷つけ、恐れの中にあります。しかしそのような者が主イエスを救い主として受け入れる時に、罪と死から解放され、永遠の命の喜びに生きる者となります。この喜びは隣人に分かち合わずにはいられないもので、伝えるたびに喜びが増していくものです。
この箇所はルカ2:8~20の、羊飼いたちに知らされた御子の誕生ともつながっています。ルカによる福音書は異邦人や罪人と言われて、神の救いからもれているとされた人たちを心にとめて記されたものです。羊飼いたちは移動しての生活であり、人の数にも入れられませんでした。しかし彼らが夜羊の番をしていると、真昼のような主の栄光が照らし、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と天使が告げました。そして飼い葉桶の乳飲み子としてお生まれになった救い主に、羊飼いたちはお会いしました。天使が去った後あたりはもとに戻りましたが、彼らの心には光が満ちていました。
光の届かない死の陰の地に住まざるを得ない。私たちもまた、暗闇の中でもがいています。愛する人の苦しみも、つらい環境も、そして自分の罪も、自分では変えられません。しかしそこにこそ、すべてを照らし救い出す主の光が降り注ぎます。主よ、なぜですかと祈らずにはいられない現実があります。主の御言葉が私たちの心を平安で満たし、望みを抱いて喜び、現実のただ中に光を見出すことができますように、なお祈りましょう。
2.神の御子が私たちのためにお生まれくださった。(5節)
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。」(5節)
赤ちゃんが生まれる時、生命の神秘、人の力を超えた大いなる存在を感じます。生み出された命は、生きようという思いのかたまりです。その存在は小さいのに、周りにいる人々に力を与えることができるのです。
私たちの救いを実現するのは、王として生まれるひとりの「みどりご」です。その方は驚くべき指導者です。人の考えの及ばないご計画をもって、救いを成し遂げられます。天地万物を造られた全能の主が無力な赤ん坊としてお生まれになりました。聖霊のお働きによって、私たちはこの「みどりご」に救い主を見るのです。人の知恵によっては決して知ることのできない救いが、主イエスの十字架によって成し遂げられます(Ⅰコリ1:23~24)。そのような方が私たちを導き、助言してくださいます。英語では「ワンダフル・カウンセラー」となっています。王の顧問、相談役のことです。多くの人は、命に導いてくださる主の御言葉に耳を傾けません。しかし助言は、自分に同意してくれるから聞くというものではありません。本当に相手のことを考えてくれるカウンセラーは、時に「それは違うと思う」と厳しく言ってくれるのです。この方は私たちの声に耳を傾け、ともに喜びともに泣いてくださる方です。
この方は力ある神です。人として、無力な赤ん坊としてお生まれになるのに、この方は神なのです。「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。」(イザヤ53:1)とあるように、神が人となられたこと、十字架にかかりよみがえられたことにおいて、御力は表されました。復活の主の力はどんな罪の中にある者をも救い、新しく生まれさせます。またこの方は永遠の父です。主イエスはご自身と父なる神が一つであると言われました。「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)永遠に私たちとともにいて守り、神に似た者となるよう私たちを鍛え導かれる方です。
そしてこの方は平和の君です。国の内外において争いや恐れのない、幸いな生活をもたらします。聖書において平和とは平安とも訳されますが、何物にも妨げられることのない精神的・肉体的な自由、完全に満たされている状態を表します。そこには人と人との間の調和があります。すべての平和の源は神であり、神との正しい関係にある者に、神からの平和が与えられます。
キリストは、自分を誇り、人を裁くものとなっていた律法の呪いを取り除き、神と人、イスラエル人と異邦人との隔ての壁を取り壊されました。罪の自分が砕かれることを求めるならば、主は私たちの間に一致を造ってくださいます(エフェソ2:14~19)。主イエスによって罪赦され新しく造られた者は、神と和解したのです。主を信じる者は新しい人とされて一つのキリストの体、神の家族となり、平和の福音を運ぶ務めを担います(Ⅱコリ5:18)。赤子の主イエスに目を留める時、私たちは静かな悔い改めに導かれ、自分が実は平和を妨げるものだったと気づきます。平和は、主なる神のみを私たちの王とあがめ、賛美し、仕えるところから始まります。
これらの預言はこの後立てられる、信仰に歩んだヒゼキヤ王によって、部分的に実現したということができます。神はヒゼキヤの祈りを聞いてくださり、アッシリア軍が引き返したり、不思議なように撃たれて九死に一生を得るようにされました。上に立つ者が代わると政策が大きく変わりますが、アハズからヒゼキヤの治世となって、人々は主とともに歩む喜びを取り戻し、御心が行われる社会に生きることができるようになったのです。しかし実在した王で誰も、これらをすべて現実にした王は出現しませんでした。どんなにすばらしい人物であっても、聖書は人を神や永遠の存在と呼ぶことはしません。これは究極的には救い主イエス・キリストが、ご自身の十字架の死と復活によって成し遂げられるのです。このようなお方が、わたしたちのためにお生まれになりました。聖霊が心を開いてくださる時、私たちは自分のこととしてこの恵みをアーメンと受け取ることができるのです。
3.主が平和を成し遂げてくださる。(3,6節)
「彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を あなたはミディアンの日のように折ってくださった。」(3節)
やがて戦争と支配の苦しみから解放する方が来られ、皆で喜び合う時が来る、それはミディアンの日のようであると告げられます。ミディアンの日とは、ギデオンと勇士たち300人が、主の力によってミディアンの大軍に勝利したことです(士師記7章)。ギデオンは主にリーダーとして召された時も、自分は弱い者だと戸惑い、この時もミディアン軍に滅ぼされてしまうのではないかという恐れの中にありました。けれども主は兵を300人まで減らし、真剣にご自身に従う者を用いて勝利をお与えになったのです。それは夜のことでありました。私たちが暗闇の中にあることは実は、主の光をはっきり見る、恵みの時なのです。
そのことが6節にも約束されています。「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」(6節)主はダビデに連なる王をお立てになり、民には平和が与えられます。それは主の熱意が成し遂げるのです。熱意とは燃えるほどに私たちを愛する愛のことです。主は私たちが罪に滅ぶことを耐えがたく思われ、ご自身の御子をさえ送り、十字架と復活によって救いを成し遂げてくださいました。
お一人おひとりが求めをもって教会に来られ、主イエスを救い主と信じました。それはとても尊い、私たちの側の主体的な信仰の一歩です。しかし私たちが自分で決めてやったと思うことも、神がその思いを与えて導いてくださったことなのです。神の愛と恵みは永遠の昔からすべてのものに、注がれていました。私たちが神を無視し背いていた時から、どんな私であったとしても、変わらずに主の愛は注がれていたのです。もし善いことを行えるから、能力や持ち物が優れているから救われるのであれば、私たちは傲慢になってできない人を裁いたり、自分なんて救われるはずがないと落ち込んでしまいます。しかし何の功績もない私たちなのに、神は熱き愛によって罪を赦し、義と認めてくださいます。私たちができるのは、プレゼントされた救いに手を広げて、受け取ることです。
そして主が恵みによって私を救ってくださったならば、他の人の救いについてもそれを期待してよいのです。信仰に心が閉ざされている人であっても、主はその人を救うためにも十字架にかかり、救いへと招いておられます。あの人もきっと救われると信じて祈り、御言葉を伝えましょう。
「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。」(6節)
救い主がダビデの子孫から生まれることは、イスラエルの民にたびたび告げられてきました(Ⅱサム7:12~13,エゼ34:23など)。しかしそれは栄光の血筋ではなく、神に背いてきた者たちの歴史であります(マタイ1章)。ダビデは大変な罪を犯し、主の御前に深い悔い改めをもって出ました(詩編51編)。主はダビデを憐れみ、失われた子に代わってソロモンを生まれさせてくださいました。ダビデは、主の憐れみによって救いのご計画に入れられた者たちの恵みの歴史を代表しています。その子孫として聖霊により、罪なき方としてイエス・キリストがお生まれになりました。それはすべての人の罪の裁きを担って十字架に死に、よみがえって永遠の命をお与えになるためです。
王は正義と恵みの業によって、王国に平和をもたらします。神と人、人と人との関係が正しい状態となり、弱さを抱えている者の権利が守られ不正がただされます。この王は、「剣を打ち直して鋤(すき)」とし(イザヤ2:4)、人々が安らかに住み命を得るために力を注ぎます。その平和は「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す」(イザヤ11:6)、一緒に生きることがありえなかった者たちが共に生きるようになるという形で実現していきます。神はこのような救いの完成の時を備えておられるのです。
キリストはイザヤの預言のとおり、ガリラヤのカファルナウムを拠点として、福音を宣べ伝えられました。都エルサレムではなくガリラヤの漁師たちが御言葉に触れ、主というお方と出会って弟子とされていきました。主は貧しく病に苦しむ者たちを愛されました。異邦人の光として来てくださった主イエスを通して、私たちはチャレンジを受けます。それは自分で囲いを作ることなく、自分と違う人、避けてきた人、今まで無関心だった人のところに行き、お迎えしようということです。主が変わらぬ土台でいてくださるのですから安心して、今までの「こうあるべき」を手放すのです。自分が変えられなければ、どうして家族や友が主を見ることができるでしょうか。神は私たちを愛されます。その愛は共に生きるという主のご決断です。だれかと向き合って一緒に生きていくのは、勇気と忍耐のいることです。けれども一緒に生きるからこその恵みと喜びがあります。むしろその人によって、私たちは生かされているのではないでしょうか。
教会が、そこに馴染める人たちだけの場所となっているならば、初めての方や生きづらさを抱えている方にとっては、緊張を強いられます。そして「この輪の中には入れない」と感じて教会を去っていくことになります。しかし教会には、そのような方こそ招かれているはずです。教会の伝統や、長く奉仕してこられた兄姉に敬意をはらいつつも、新しく来られた方の思いを大切に受け止めて、共に育つ。その方々を通して初心に立ち返り、ああ、福音ってこういうことなんだ、と目が開かれる教会でありたいと思います。
生きた教会、生きた信仰者であるならば、救われて御言葉を聞いただけで留まることはできません。自分の隣人を限定し、それ以外は関係のない異邦人と考えていたかもしれません。しかしそこから主は、愛する自由へと私たちを招かれます。赤子としてこられた主イエスのように、弱さも欠けもある生身の私たちですが、だからこそ見える形で主の愛を表すことができます。誰かのもとに行き、話を聞き、同じ時間をすごすことが、暗闇の中にある方にキリストの光を灯します。独り子をお与えになるほどに、私を愛してくださった。それがどんなに大きな恵みであるかをしっかりと受け止めましょう。闇に光を創造される主を信じます。祈りましょう。
