「わたしたちの心を燃やすもの」4/18隅野徹牧師

  4月18日説教 ・復活節第3主日礼拝
「わたしたちの心を燃やすもの」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書24:25~35

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

今日は復活節の「第3の」礼拝です。皆様とともにこの礼拝を守れることを感謝します。

今回の聖書箇所は先週に引き続き「エマオ途上の物語」として有名な箇所です。その後半部分です。先週語りきれなかった大切なことをお分かちできればと願っています。

まずは先週のメッセージのおさらいをします。13節から24節を簡単に振り返ります。

 婦人たちが「復活の主」にお会いしたその日曜日の夕べ、二人の弟子がエルサレムから故郷であったであろう「エマオ」に向かって失意のどん底で歩いていたときの出来事が「エマオ途上の物語」なのです。二人のもとに、復活の主がそっと近づき、一緒に歩いて下さる、「私達と共にいて下さる主イエス」がここでも表れています。

 「目が遮られていて、イエスだとは分からなかった」二人が、あえて何も知らないかのごとく近づいてこられた復活の主によって「彼らの心にあるものを吐き出させてられた」のです。

復活の主イエスは最高の「心の医者だ」ということが、先週私が最も強調したことでした。

二人の弟子たちが「どんなに悩みの中にあったか」そして「主によって心の中を癒していただかねばならない状態だったか」が18節から24節に表れています。

18節の言葉は、「この数日に起こったあの大事件を、あなただけは何も知らないのでいたのですか!」という批難の言葉です。こんな「怒りの言葉」をぶつけている弟子。本当に心の中に「溜まりに溜まった不満、解決できていない思い」があったのですが、愛の癒し主である「復活の主イエス」は19節で「どんなことですか」と重ねて問い、彼らの心に触れて下さるのです。

19節から24節で二人の弟子が「心から吐き出した思い」が記されています。

先週、彼らの言葉から読み取れることが大きく3つあるとお話ししました。

①つ目は、イエスに対して「間違った期待をしていた」ということです。

イエス・キリストを「一人間の預言者」だと誤解し、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくれるリーダーだと期待していたことが分かります。

つまり「自分に好都合なリーダー」としてイエスに期待していたという「自己中心の罪」を持っていることが分かるのです。

②つ目は、イエスを十字架にかけた人々を恨んでいたということです。それは20節で表されています。

二人は「祭司長や議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです」と言っていますが、本当は彼らを含めすべての人間に「神の子イエスを殺してしまった原因はあるのです。このように、自分の罪を棚に上げて「あいつさえいなければ…!」と怒っている状態は、神に癒されなければなりません。   

③つ目は「復活の約束が信じられず、目の前の事柄にばかり目がいっている様子」です。23節後半にある「イエスは生きておられる」というみ使いの言葉・約束を「あるはずのない、うわ言」のように受け取り、「婦人たちが遺体を見つけずに戻ってきた」とか「仲間の何人かが墓に行ったが、あの方は見当たらなかった」という物の見方。「キリストが死の力を打ち破り、生きて働いて下さることを信じられていない」彼らの状態は、いくら「イエスの弟子」という自負があって行動しても、空しいのです。

しかし、そんな弱く、心が鈍く、物分かりの悪い彼らに対し、死や罪の力を打ち破って復活された主は、すべてをご存知の上で愛をもってそっと近づいてくださり、そしてまず!「心の中にある汚いもの」を出させられたことを見てきました。

今週は復活の主は「心にあるものを吐き出させた後」どのようにして癒されるのかを学べる箇所です。そして!ただ癒されただけでなく、説教題につけたように「心燃やされる」状態へと引き上げて下さるのが復活の主なのです。

共に味わってまいりましょう。

まず25節から27節です。ここは大切ですので私が読んでみます。

ここで復活のイエスは「聖書全体のご自分について書かれていることを説明された」と記されています。皆様考えてみてください。主イエスはどんなことを説明されたと思いますか?

 正しくは分かりませんが、話の内容が垣間見えるのは26節です。

「メシア、つまり神が送ってくださる救い主は、人々から迫害され苦しんだ後、復活して神としての栄光を受けるという約束が聖書全体で教えられているのではないのか」そんな風にイエスは語られるのです。

お家に帰ってからぜひ深く読んでいただきたいですが、イザヤ書53章は「救い主が人々から迫害され苦しんだ後、復活して神としての栄光を受けるという約束」がそのまま語られている箇所です。   2

 このイザヤ53章を始め、旧約聖書の様々な箇所から「予め預言者を通して語られた約束」についてイエスはお話しになったと考えます。ぜひ帰られてから、イザヤ書53章と、エレミヤ書31章、そして詩編22編をお読みいただき、イエス・キリストの誕生のはるか前に、すでに約束されていた「救い主の苦しみ、とそれを通しての民の救い」をじっくり味わっていただきたいと願います。二人の弟子が受けた恵みの一端を味わうことができると信じます。

聖書全体に書かれている神による救いの約束。それは「神による罪の赦し」と「神が罪の力、死の力に勝利される」ことの両方があるのです。私たちも、イエス・キリストの復活が何のためであったか、自分とどうつながるのかを味わいましょう。

このように25節から27節を通して、「癒されなければいけない心の状態だった二人の弟子を」イエスは「聖書の言葉を通して」段々と癒されたのです。

失望に満ちていた二人の弟子が、すこし希望を持てる状態になったことは28節、29節から見て取れます。この2つの節をご覧ください。

エマオに着くまで、二人はずっとイエスによる「聖書のお話し」に聞き入っていたことが分かります。だから、「もっと聞いていたい」という求めが生まれたのです。

無理に引き留めた二人に対し、イエスはどうなさったでしょうか?29節の最後には「共に泊まるために家に入られた」とあります。取税人ザアカイにされたのと同じように、「共に泊まってくださる」ことを通し、愛を表されたのです。

そして30節から32節の場面を迎えるのです。ここも大切なので私が読んでみます。

「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とあります。これは先週も私達の教会で持ちました「聖餐式」を想起させるものです。

そして31節、二人の弟子の目が開け、目の前におられる方がイエスだと分かった、とあります。目の前の人が誰か分かった…というよりも、「イエス・キリストが死の力を打ち破って復活なさった」ことが理解できた、ということが表されています。

「イエス・キリストの十字架の死は、この私の罪のためだったのだ。」と心から受け止められたとき、「神の御子の死はただの死で終わらない。罪の力、死の力を打ち破って復活なさったのだ」ということを心から理解できる、そのことを復活のことを記した聖書箇所はどれも教えていますが、この箇所もそうなのです。

聖餐式は「今も生きて働いて下さる、復活の主を見失うことも多い、まさに私達へのもの」だという言い方が出来ると思います。               

「すべての人間を罪から救い出すために、死の力に勝利されて復活されたのだ」ということをパンとぶどう液をいただきながら思い起こすことによって、「復活が何のためなのか」「自分にとってどんな意味を持つのか」ということが自分自身で受け止められるようになるのです。

最後に32節から35節を読みます。

彼らは肉眼で「復活の主」のお姿を見ることができなくなります。でも、全く悲しむ様子はなく「心は燃えていたではないか」と確信をもって話しています。

 「主は確かに、死の力を打ち破って甦ってくださったのだ!」という確信をもった彼らにとって「肉眼で見えるかどうか」は小さなことになっていたのです。 そして使徒たちに「この復活の事実」を証ししたのです。

以上が今回の聖書箇所ですが、私達もエマオ途上の物語と同じことを経験するのだということに希望を抱きましょう。今私達が肉眼でイエス・キリストを見ることはできません。しかし二人の弟子と同じように「復活の主」は私達一人ひとりに寄り添って下さり、同じように愛を注いでくださるのです。

イエス・キリストを信じていても失望したり、神に疑いをもったり…いろいろな時があります。それでも、復活の主イエスは「肉眼には見えなくとも」、私達と共にいてくださるために「そっと近づいてくださる」のです。そして私達の思いを受け止めてくださいます。そのことで私達は癒されるのです。

 また「聖書」を通して、教会という共同体での「聖餐」を中心とした礼拝を通して真理を示して下さるのです。「イエス・キリストの十字架の死は、この私の罪のためだったのだ。」と素直になった心に、「神の御子の死はただの死で終わらない。罪の力、死の力を打ち破って復活なさったのだ」という思いを与えて下さり、「心を燃やしてくださる」のです。

私達も復活の主に希望を置き、「心燃やされて」日々を歩んでまいりましょう。(祈り・黙想)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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