「わたしたちの日々はすべて記されている」9/22 隅野徹牧師


  9月22日 聖霊降臨節第19主日礼拝
「わたしたちの日々はすべて記されている」隅野徹牧師
聖書:詩編 139:13~24

 

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 今日は、礼拝後に2022年の2月に天へと凱旋された池田千恵子さんの納骨式を執り行います。それに先立ってもたれる「朝の礼拝」は池田さんのご家族も共にご出席いただいて、共に守れることを本当に感謝しています。

お語りする説教箇所は、本日4か所示されている「聖書日課」の中から、「池田さんの旅立たれた天国」という所、また「人間の命」について考えることのできる「詩編139編」を選ばせていただきました。

今からのひととき、池田千恵子さんのこの地上での歩みを思い返しながら、ご出席の皆さまと、聖書が教える「神から与えられる命と与えられる日々について」考えられることを願います。

本日の聖書箇所は「イエス・キリスト誕生前に書かれた旧約聖書」の中の詩編の139編13~16節です。 

詩編は「祈りの書である」といわれ、「実に多様な祈りが集められている書」です。神をたたえる歌があれば、神への嘆きがあり、感謝があるかと思えば、神に「自分の窮状を訴えるような祈り」もあります。中には「敵をたおしてください」というような祈りもあるのです。いま旧約聖書のP980をお開きでしょうか?ここの19節以下では実際にそういう祈りが出てきます。 詩編139編は、イスラエルの王であった「ダビデ」に由来すると言われますが、ダビデは「なんども命を狙われる」など、苦しい経験をしましたが、その苦境の中で「素直な思い」を祈りとして神にぶつけたのでしょう。

キリスト教には「こういう祈りはしてはいけない」というものは特になのいのです。

ただ逆に「人間の祈りで、これが完璧だ」というものも特にないのです。

祈りは「神との対話」です。人間の側が神に思いをぶつけて、それを神が受け止めて下さることを「祈りを重ねることで実感し」そして、自分が変えられていくのが「聖書の教える祈り」です。

今日選んだ詩編139編は、一見「ただ神への感謝だけがならんでいる」ように読み取れますが、実はこの「祈りの言葉を歌として詠みあげるまで」には、多くの嘆きと葛藤があったことを私は読み取っています。

そしてこの詩は「池田千恵子さん」が最後入院されていた中で「神に祈っておられたであろう祈り」と重なるのではないかと感じています。このことは後程触れさせていただきます。

まずは、今日の箇所である13節から18節で、「どんな祈りが詩の言葉になっているか」それをみてまいりましょう。

最初に13節と14節にご注目ください。ここで詠まれていることとは「私達の人間の命が、神によって造られたということです。

聖書は、人間をふくむ、世界のすべてのものが神に由来してできていて「神の創造の作品である」ということを教えます。それは聖書の最初の書である「創世記」の、これまた最初の場面である「天地創造の箇所」で語られます。でも今回の箇所は「創世記」と比べて、もっと詳しい表現で「神による人の創造」を描いています。「私達の体の各器官、各部位」も全部の不思議な業によって組み立てられているのだ、ということです。

ここ数年の医学の進歩により、胎児が母親のおなかの中でどのように大きくなるのか、エコーなどで見えるようになってきました。しかし、ほんのひと昔まで、胎児の成長は「神秘」でした。

母親の胎内で、新しい命はどう形作られるのか、「人間的、論理的な説明だけで納得できる」という人はほとんどいないと思います。自分には「どうすることもできない」、人間の力が遠く及ばないところで「いのちは形作られる」ということを多くの人は感じるのではないでしょうか。

「私達一人ひとりの命は、神の大いなる力によって驚くべきものに造り上げられているのだ!」その気づきが、次の感謝へ私たちを導くのです。

その「次の感謝」が15節から16節です。

ここでは、私たちの命をつくられた神が「ただ造りっぱなし」で終わるのではなく「ずっと見守ってくださっている、愛のお方だ」ということが分かります。 

特に注目すべきは16節の二つ目の文です。(強)「私達人間の1日1日を、造り主であるはすべて記録してくださっている」ということです。今日の説教題につけさせていただきました。

今日は特別に2年前、天へ凱旋された「池田千恵子さん」を覚えて礼拝をもっていますが、長門の青海島で生まれ、長門市で長く生活された池田さん。他の時代ではなく、他の場所やご家庭ではなくて、神の御心の時、そして場所で命を授けて下さり、その後も一日一日導いてくださったのです。

今日ご出席の素敵なご家族が与えられ、長門教会の素晴らしい仲間が与えられ、そして晩年山口に引っ越され、山口信愛教会で共にお交わり出来た、それも「神の記録・書」に記されている…そのことを改めて思います。決して偶然存在した命なのではありません。神がご計画のうちに与えられた命です。

そして、「神の命の書・記録」では池田千恵子さんの命は「2022年2月19日で終わった」のではなく、それはずっと続いているのです。

今日の聖書箇所と違う箇所ではっきりと記されていますが、神の御子であり、救い主である「イエス・キリスト」を救い主として告白された方は、この地上で死んでも、イエス・キリストによって復活の命・永遠の命を得ることができるのです。

池田千恵子さんはまさにそうでした。

 キリストにある希望をもって、この世を生きられた、その日々、1日1日のこともまた「命の書・記録」に「はっきりと記されている」ことは間違いないでしょう。しかし、聖書は「キリストと出会うはるか前」「母親の胎にやどったときから」の日々の命の導きが記録されてると教えるのです。

であるならば…「天に旅立たれてからの1日1日も神が記録されている、すなわち「天での1日1日も、神が最善に千恵子さんの命を導いてくださっていることは間違いない!」そんな確信を、詩編139編16節は与えてくれると私は感じます。

地上の歩みを終えられた今、池田千恵子さんの命は「天の神の御許にある。そこで共にいて最善に導いてくださる神がおられる」と覚えることができたなら幸いです。                         

最後に、17節、18節を読みますが、ここが「私が最も池田千恵子さんを思い浮かべる箇所」です。(※ここは読んでみます)

ここでは、「私たちに対する神のお計らい、つまり恵みは、数えきれないほど砂粒の数ほどに多い」ということ、そして「果てを極めた」分かりやすく言えば「もうこれ以上、神からの恵みはないだろう」と思っても、なお神からの恵みの中にいることに気づくのだ、ということが詠われています。

これは、順調なときに「喜びにみちてでたことば」というより、苦しみの中で「もう恵みは尽き果てたのではないか」というような状況を経験してはじめて「告白できる」そんな深い言葉なのではないでしょうか。

私にとっての「苦しみの体験」それは沢山ありますが…最近では、2020年のコロナ流行によって、礼拝を閉じなければならなくなったこと、そして多くの愛する方々とお会いすることができなくなったが、大きな苦しみの体験でした。

「コロナによって会えなくなったお一人」が池田千恵子さんでした。

施設に入居されていた池田さんは、他の施設の入居者がそうであったように、外出はもちろん、外から会いにいくことができなくなりました。

会えなくなってから「池田さんは元気だろうか…」とずっと気にしていたのですが、2020年秋、感染状況が落ち着いたことに伴い、かなり久しぶりに山口信愛教会の礼拝に池田千恵子さんが出席してくださったときのことを私は今もはっきりと覚えています。

山口弁で「わたしのことおぼえちょってですか?」と、半分ふざけて尋ねたのですが、池田さんは「わすれちょるわけがないわーね」と、あの懐かしい山口弁で、そして弾ける笑顔で答えて下さいました。

そして「まいにち、教会のことやら、牧師のことやらおいのりしちょるけえね。忘れるわけがないいね」と。 本当に嬉しくて泣きそうだったのを、昨日のことのように思い出します。

結局、感染が再拡大し、池田さんが再び教会の礼拝に出席できたのは2~3か月だったと記憶しています。 その後は、入院もなされたのでまたお会いすることができなくなりました。

会えないことを私は悔しいと思っていましたが、一方でそのまえに「教会のことや牧師のことを毎日いのっちょるけーわすれりゃーせんわーね」という言葉を折に触れて思い出し、池田さんはこんな苦しい時でも「日々祈ってくださっているのだ」という確信がありました。

もちろん、教会の文集には「家族の救いが祈りであります」ということばを記して下さっているように、ご家族への祈りは日々欠かされることはなかったはずです。

入院中も体調的には苦しいことも多かったと思いますが、召されたときのお顔を見て、最後まで「神の恵みの中におられたのだな」ということを私は確信しました。

今回の箇所の詩編139にあるように、池田千恵子さんの体と命をつくって下さった神が、「独り子イエス・キリストとの出会い」を与えられ、そしてかけがえのない一日一日を神ご自身が導き、そして天へと導かれたのだなということを改めて思います。

今日は、この後持たれる、納骨式のまえに「詩編139編の言葉」と「池田千恵子さん」の生涯を照らし合わせながら、私たちが神から与えられる命とその日々について皆様と味わうことが出来て感謝でした。

池田千恵子さんの魂は、今天にあり、神が最善に導かれていることをお感じ頂いたでしょうか? 私たちも「神の記録に記されている一日一日」を大切に生き、いつの日か、この地上での生涯を走り終えたあと、池田千恵子さんに再開できることを心に留めて歩んでまいりましょう。

 (祈り・沈黙)