「わたしたちは何をいただけるのか」10/5 隅野徹牧師


  10月5日 聖霊降臨節第18主日礼拝・聖餐式

「わたしたちは何をいただけるのか隅野徹牧師
聖書:マタイによる福音書 19:13~30

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 今朝は与えられた聖書日課の中からマタイによる福音書19章13節から30節を選びました。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエスの言葉がインパクトのある箇所ですが、聖書日課を選ぶ方は、今回敢えてだと思いますが、直前の「子どもを祝福する箇所」も含んで選定されています。

そして私も説教題は、「わたしたちは何をいただけるのか」という題を付けさせていただきました。これは27節の言葉から取らせていただいたもので、「金持ちが天国にはいるのが難しい」ということが言われた部分とは、別の箇所から取らせていただきました。

先にいってしまいますが、天国に入るのには「お金持ちでいたらいけない」とか「財産はみな売り払わないといけない」ということが教えられているのではありません。もしも「持っているものをすべて売り払って、施しをしなければ神の国に入れない」のであれば、牧師である私も神の国には入れません。 

しかし、この箇所からは「お金がいくらあるか…などこの世の目に見える物差し」とは違う、「神の国での永遠の命につながる物差し」が見て取れるのです。それは「自分の力に頼らず、泥臭く神とともに歩んでいこう」という思いを持ち続けることです。皆様も、この箇所から「天の国に向けて」の新たな思いをもっていただければ幸いです。

13節から15節は後程読みことにして、まず16節からを読んでみます。

16節をご覧ください。

ある男が、イエスに「永遠の命を得るためには何が必要か」と質問します。この質問をした男ですがこのあとの22節などから「金持ちの青年」であったことが記されています。同じことを描いたルカによる福音書18章ではこれに加えて「議員」だと記します。このことから、彼は「ただ財産を多く持っていた人」ではなく、周りの人々に信任されるような人だったと理解するのが良いのだと思います。

その彼がイエスに自ら近づいていったのです。

「ファリサイ派や律法学者たちがイエスを試すために近づく」場面が聖書にはたくさん出てきますが、この人はそういう思いではなく、純粋に「分からないことをイエスに質問するために近づいた」と考えられます。 

私は聖書のよみが浅かった頃、この「金持ちの青年議員」に対し「悪者のようなイメージ」を勝手に持っていましたが、そうではないことが聖書を注意深く読むことで分かりました。

ヨハネ福音書3章などで登場する、「ニコデモ」もファリサイ派の議員だと記述がありますが、金持ちの青年議員もニコデモと同じような求めをもって近づいた…そのことをまず頭に入れましょう。 

 つづいて17節から20節までを読んでみます。(※読んでみます)

ここでのイエスの答えは、神の子で「相手の心の中をすべてご存知」だからこそのものです。

神の御心であり、神の求められる「義さ」について教えている律法の掟をすべて完全に守れるのなら、それで永遠の命を得ることはできます。しかし実際には「弱く欠けを持った人間には、律法・掟を完全に守ることはできない」のです。

イエスは敢えて「もし完全になりたいのなら掟を守りなさい」という言葉を投げかけるのことで「自分が弱く不完全で、神の御心を行えない」罪を犯してしまうことに気づいてほしいと願っておられるのです。神の前で罪を告白し、特別に赦していただく以外に永遠の命を得ることはできない、そのことに気づき「謙遜にいきていくこと」こそが永遠の命につながるのです。

その反対に…「自分の力によって律法を完全に守ろう、そのことによって、神から義とされて、永遠の命を得られるのだ」と考えなら、必ず行き詰るものなのです。

20節前半で金持ちの青年議員は「そういう掟はみな守っている」といいます。この告白に嘘はないのでしょう。でも、それで「永遠の命を得られる」という平安・希望は得られなかったのです。20節最後の言葉がそれをよく表しています。「まだ何か欠けているでしょうか?」

答えが分からない…だからイエスにわざわざ質問しに来たのです。

神の掟は知っている、実際守っている…でもなにか「キリストによって救いを得ている実感がない、永遠の命の約束をいただいている、そんな実感がない」…そんなことを私たちも感じたことはないでしょうか?

私にもあります。「神と共に歩んでいるつもりだが…どこか平安がない…」そんな思いです。

しかし、そんな「心からの平安を持てない私たち一人一人への諭し」が21節以下だと受け取っていただけたらと願います。

「この金持ちの青年議員だけに語られた、特殊な教え」なのではなく、財産が多かろうが少なかろうが、私たち一人ひとりの心に平安を与えるためのメッセージとして受け取りましょう。(※21~24節を読みます)

 ここでの教えを「献金の勧めだ」とか、極端なものになると「新興宗教のように全財産をささげよ」と取る人がいますが、それは間違いです。

これは「永遠の命を得るための教え」別の言い方で「神の国に入るための教え」です。

一番大切なのは21節の最後に出てくる「天に宝を積んで、救い主イエス・キリストに従うこと」なのです。

 その上での確認ですが、聖書は「財産を持つことが罪だ」とはどこにも教えられていません。金持ちだから「神の国に入れない」のではないのです。そして「ささげつくさないと神の国に入れない」のでもありません。そうではなく、私たちの心が「本気で神・キリストに従おうとしているか」そこが肝心なのです。

 財産そのものは悪ではありません。しかし!往々にして「財産を多く持つこと」は「神・キリストを信頼して生きていくこと」の妨げになるのです。

 神に信頼しないで自分の力だけで生きているような感覚に陥りやすいと言われます。

25節の「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という言葉は、誤解もされやすいですが、イエスがお伝えになりたかったのは「お金が一番、お金こそ大事だという価値観で生きている者は、本当に意味で神に従う者になることができないのだ。それだから、神の国には入れないのだ」ということではないでしょうか?

「金持ちの青年議員」の心にどこか平安がなかった…それは「心から神に信頼しないで財産や自分の品行方正さを頼りに生きようとしていたからだ…ということをイエスはすべてご存知でした。

だから、「もし完全になりたいのなら、足りないことがある」と言い、そして「財産をすべて売って、貧しい人に施して、その上で私に従いなさい」と勧められたのです。

 この「財をすべて売り払って、私に従いなさい」というお言葉は、裁きのことばではありません。「彼を愛されているが故の勧め」なのです。

厳しいと感じてしまいがちなここでのイエスの教えは「自分の持っている物や財産に頼って生きていて、平安を無くしている金持ちの青年議員を、真の平安に導くため」のものなのです。殻を破って「神に信頼しつくして生きるため」のお勧めなのです。

いま言った「神に信頼しつくして生きる」ことの大切は、直前の「イエスがこどもを祝福する」出来事に表れているのです。福音書の記者は「自分のもっているものに頼って生きようとする金持ちの青年議員」と「なにも持っていない、それこそ純粋無垢に救い主イエス・キリストに頼ろうとするこどもたち」を対比する描き方をしていると思うのです。

(それでは13節から15節を読んでみます)

「こどもたちを来させなさい。天の国はこのような者たちのものである」という言葉に、今回の箇所の主題が隠れていると思います。

金持ちの青年議員は「何をすれば天の国に入れるか」を必死で知ろうとしました。その答えは「全財産を売り払い、貧しい人に施すこと」ではなくて「こどものような純真な心で、自分に力をすてて、神に従うこと」だったのだ、と私は理解します。

力や財のないこどものような姿となって、神に従う…そんなことはできないと思ってしまいがちです。でもそこが「便利な世の中で、自己完結で生きていると勘違いしやすい現代人の落とし穴だ」と言えます。

今日の箇所の最後、イエスは「ある人たちに対して」あなたたちは永遠の命を受け継ぐことが出来るとはっきり約束されています。

その人たちとは「わたしたちは何をいただけるのでしょうか?」と不安のうちにたずねた、イエスの弟子たちなのです。

(では最後のまとめとして25節から30節を読んでみます)                  

 それでは誰が救われて天の御国にいけるのか…と弟子たちが言います。その言葉の真意は27節のペトロの言葉にあるように「ここまで、何もかもを捨てて従ってきたのに…それで、天の御国に入れないのだったら、やっていられない」そんな泣き言に近い言葉だったと思います。

しかし、そんな不安を感じる弟子たちに対し、イエスは力強く答えられます。

「人間が自分の力で罪から救われて、天の御国に行くことはできないが、神は何でもできる方だ。だから罪深い人間が、それでも天の御国にいくことができる道を開いてくださるのだ!」そのような言葉だと私は受け取りました。

そして「あなたたちのように、それでもわたしに付き従うなら、必ず天の御国で永遠の命を得ることが出来るのだ!」そのような太鼓判を押して下さったのです。

弟子たちは、たくさんの失敗をしました。弟子たち同士で喧嘩や言い争うこともたくさんしていたことが聖書には記されています。しかし、それでもイエスは「天の御国での永遠の命をあなたたちは確かにいただくことができるのだ」と断言されるのです。

これは私たちへのメッセージとして受け取りましょう。生きていく中で「思い通りにならないで怒りを覚えること」や「失敗や過ち」も犯すことでしょう。しかし、それでも泥臭く神・キリストとともに歩む思いを新たにしていきましょう。その先に永遠の命があるのです。(祈り・沈黙)