「わたしと父とは一つである」8/28隅野瞳牧師

  8月28日 聖霊降臨節第13主日礼拝
「わたしと父とは一つである

隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書 10:22~42


説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 本日の箇所では、御父と御子の愛のうちに守られている羊について記されています。3つの点に目を留めて、ご一緒に御言葉に聴きましょう。 

1.主イエスは私たちを尊いものとして、御手のうちに守り抜いてくださる。(28~29節)

2.御子と父なる神は一つである。(30,38節)

3.積み重ねられた証が信仰へと導く。(41~42節)

 

1.主イエスは私たちを尊いものとして、御手のうちに守り抜いてくださる。(28~29節)

 10章で主イエスはファリサイ派の人々に対し、彼らが盗人や強盗、雇い人であると例えて話されました。彼らは民衆からの賞賛やお礼を期待して教え、羊飼いであるかのようにふるまいました。しかし律法を知っているといいながら主イエスを救い主と信じず、主に従う者を会堂から追放するなど、自分の身を守るためには羊を犠牲にしました。しかし真の牧者なる主イエスは羊を追い立てることなく、愛をもって羊を導かれる方です。

さて、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われていた時のことです。ユダヤ人たち(エルサレムの宗教指導者たち)が主イエスを取り囲んで言いました。「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」(24節) 

主イエスがメシア、救い主であることは、教えやしるしによってはっきりと証明されていましたが、ユダヤ人たちは誰もがわかるような「自分は救い主だ」という言葉をとらえて、主イエスを逮捕しようとしていたのです。神殿奉献祭は主イエスの時代より200年ほど前の出来事に由来します。当時ユダヤを支配していたシリアの王はユダヤ人たちにギリシャの宗教を強要しました。彼はユダヤ人たちに豚をいけにえとしてささげさせ、割礼を禁止し、安息日に戦争をしかけて大量に殺害しました。しかしユダヤ人たちはユダ・マカバイという祭司出身のリーダーを立てて、エルサレムを奪い返し、神殿を清めて、再び主なる神を礼拝出来るようになりました。これを記念する祭の時にはユダヤ人たちの民族的・宗教的高揚は高まり、ローマから解放してくれるような政治的な救い主が待ち望まれたのです。しかし主イエスはそのような救い主として来られたのではありませんでした。

あるいはユダヤ人の言葉は、あなたがメシアであることを我々が納得できるように示してほしい、そうしたら信じてやろうということだったかもしれません。それに対して主イエスは「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」(26~27[節)とお応えになりました。私が救い主であることは、私の羊とならなければ分からない、ということです。「○○が分かったら信じる」ではなく、信じると分かるようになるのです。まさに目が癒された人がそうでした。彼は自分が主イエスの羊であることに気づき、ファリサイ派ではなく主イエスの声を聞き分け、従う者となったのです。

主イエスを神の子と信じない時、私たち自身は根本的な所で何一つ変わることなく、主イエスの語られた言葉を良い話として聞くことができるでしょう。しかし主イエスを私の救い主として信じるならば、何を大切にし、どのように生きるのか、私たちの内側が変えられることになります。自らの罪を認め、神に赦しを求めなければなりません。主がファリサイ派の人々にこのように言われたのは、彼らが悔い改め、真の羊飼いである私のもとに帰ってほしいと願っておられるからです。主の御心にはつねに、まだ囲いに入っていない羊を導き入れる思いがあるのです(16節)。ヨハネによる福音書はその最後に「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(20:31)と執筆の目的が記されています。私たちは信じなければわからない聖書を、信じるために、聖霊の助けを祈って読みます。その中で主の招きが与えられたならば一歩踏み出して、あるべき場に、主のみもとに帰りましょう。

「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(28節) 

主イエスが御自分の羊に与えてくださる永遠の命とは、死んだ後に復活することだけではありません。今すでに主イエスとの交わりの中に生かされること、それこそが永遠の命です。良い羊飼いである主イエスは、私たちを傷つけ奪おうとする偽りの声、死の力からも守って下さいます。詩編23編には、私たちが死の陰の谷を行く時も、羊飼いである主が共にいて下さるゆえに、災いを恐れることがないとあります。父なる神と御子イエスが、私たちをみ手の内にしっかり守って下さっているのです。羊のために命を捨てる愛によって、御手に私たちの身代わりとして傷を受けてくださることによって、私たちは無傷なのです。主イエスは私たちに、永遠の保証をお与えくださいました。しかしそれは、放縦な生活をしてよいということではありません(ローマ6章)。私たちは救いを失わないためにではなく、神の子とされたから、神の愛に対する応答、恵みとして主に従って生きるのです。「主我を愛す 主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ」主イエスが私の手をしっかりとつかんでいてくださいます。私たちの信仰は自分の意志の力ではなく神の御業です。感情の波や主に従えないこと、つまずきはあるでしょう。しかし主がお与えになったこの信仰は、決してなくなることはないのです。

私たちは神のもとから離れ、自分勝手な方向に迷い出た羊です。神の御心に背き神を信じない、真の命から引き離された状態を聖書では罪といいます。罪の中にある時に私たちは自分中心に生き、傲慢で、愛するよりも憎み傷つけてしまいます。罪あるままでは、神のもとに帰り、神との交わりを回復することはできません。羊が滅びを免れるただ一つの道は、羊飼いが来て探し出し、助けてくれることです。御子は私たちを滅びから救い、本来あるべきところに連れ戻すために、この世にきてくださいました。御子はその御言葉、生涯、人格すべてを通して、神がどのような方で何を求めておられるかを明らかになさいました。御子が私たちの罪を取り除く神の小羊として十字架にかかってくださったゆえに、私たちは罪赦された者として神の前に立つことができるのです。

なぜ神は御子の命に代えてまで、私たちに永遠の命の祝福を与えようとされたのでしょうか。その驚くべき理由を主イエスは次のように語っています。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない」(29節)。

「わたしの父がわたしにくださったもの」とは、主イエスとの愛と信頼の交わりに入った信じる者の群れ、教会のことです。「偉大であり」は原文では「より大きい」、すばらしいとか尊いと表現することができます。「わたしの目にはあなたは価(あたい)高く、貴く、わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の身代わりとする。」(イザヤ43:4)自分を見る時、弱さや失敗、罪ばかりが目にとまります。しかし主イエスは私たちを「すべてのものより偉大」であると言われます。御父が私たちのために御子イエス・キリストを人として遣わし、十字架に命をささげてくださった。それは私たちの罪の重さを表すとともに、神が私たちを最も大切なものとして取り扱ってくださっている証です。

「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。…だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。…どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31~39)「そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。」(詩編8:5)このような恵みがあってもよいものでしょうか…主よ、感謝します。

 

2.御子と父なる神は一つである。(30,38節)

そして主イエスはユダヤ人たちに対して、決定的な宣言をなさいました。「わたしと父とは一つである。」(30節) 主イエスは御自身が、父なる神と等しい方であると言われたのです。ユダヤ人たちはこれを聞いて、主イエスをまた石で打ち殺そうとしました。彼らにとって、人間が自分を神と等しいと口にすることは唯一の神への冒涜であり、決して赦されないことでした。しかし彼らは…彼らだけでなくどんな人間の知恵でも決して理解することができないことですが…、神はその全能の力をもって、愛のゆえに人間になる方であると知り得ませんでした。御父とともに天地を造り、御父と永遠に一つなる方として生きたもう神の御子が、人となられたのです(ヨハネ1:1~18)。

私たちが信じる神は、ただひとり永遠より永遠に至るまで生きておられる方、万物を創造し、治め、完成される方です。この神は天にいます父なる神であり、同時に人となって地上に来られた子なる神、信じる者の内に住まわれる聖霊なる神です。もしイエス・キリストが単に人間であるなら、罪と死に打ち勝ち私たちの罪を贖うことはできません。しかし御子は父なる神と本質を同じくする方であり、礼拝を受けるべきお方、永遠より永遠まで生きておられる独り子なる神なのです。

御父と御子が一つであるということには二つの意味があります。本質が一つ(神)であること、そして御心が一つであることです。私たちは神と同質にはなりえない被造物ですが、神の養子とされました。私たちもまた神の御心を求めて歩み出す時に、御父と御子のように一つとされます。私たち一人ひとりが御子を通して現わされた神を知り、打ち砕かれて神と和解する時に、私たちは一つとされます。「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(ヨハネの手紙一4:9~12)

「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか」(32節)と主が問われると、ユダヤ人たちは答えました。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」(33節)

  ユダヤ人たちは、自らを神と等しい者とした主イエスを石打ちにしようとしました。モーセによって与えられた十戒には、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20:3)とあるからです。しかし福音の光に照らされるならば、神が唯一であるということは、神がすべての人を愛し、信仰によって救いたいと願っておられることだとわかるのです(ローマ3:30)。

  ユダヤ人たちは不思議にも、主イエスの「良いわざ」を認めざるを得なくなっています。主イエスは38年間ベトザタの池で伏せっていた人を歩けるようにし(5章)、男性だけで五千人にも上る大群衆にパンと魚を分かち満腹させ(6章)、生まれつき目が見えなかった人の目を開いてくださいました。旧約の預言を知る者であれば、これは神の救いが到来したしるしであるとすぐにわかったはずです。

救い主のしるしに心が閉ざされているユダヤ人たちに対し、主イエスは詩編82:6を引用して反論なさいました。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。」(34節)(ここで「律法」は旧約聖書全体を指します。)82編は、神が正しい裁きを地上に実現するために、権力者や裁き人をお立てになったことが記されています。神の代理人という意味で、彼らが「神々」と言われているならば、父なる神から直接遣わされた者が自分を「神の子」と呼ぶのがなぜ冒涜罪なのかと、主は問われました。

「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。」(37~38節)

 御子はこれから最も大いなる御業に向かわれます。それは十字架と復活によって私たちの罪を贖い、信仰に導き、永遠の命を与えることです。主イエスが人となってくださったこと、その御業は、すべての人に注がれる神の愛そのものです。御自身を救い主であると悟らず打ち殺そうとしたユダヤ人たちを、主はそれでも愛されました。そして今は御自身を信じることができなくても、御父から委ねられた私の業を信じるようにと呼びかけられました。

主は私たちをも招いてくださっています。この主の招きに応えて救われた私たち一人ひとりもまた、主の業そのものです。主は私たちに始められた救いの御業を完成に至らせてくださいます。私たちが何者なのかは、私たちが結ぶ実によって明らかにされます。私たちが弱くても、そこからにじみ出る私たちのあり方が、主イエスの愛が真実であることを示します(Ⅰヨハネ3:14~18)。主の教会が今も立ち続けていることがその証です。

 

3.積み重ねられた証が信仰へと導く。(41~42節)

「多くの人がイエスのもとに来て言った。『ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。』そこでは多くの人がイエスを信じた。」(41~42節)  

それでもユダヤ人たちは聞く耳をもたず、再び石で打ち殺されそうになった主イエスはそこを逃れて、ヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行かれました。洗礼者ヨハネは人々から救い主ではないかと噂されていましたが、自分は救い主の履き物のひもを解く値打ちもない、僕にすぎない者であるとし、主イエスが自分の方に来られるのを見ると、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29)と証しました。主イエスがこの地に来たとき、そのみ言葉とみ業を通して、人々はかつてバプテスマのヨハネが語った多くの証を思い出しました。そしてヨハネの証は真実であった、彼が証した救い主はこの方のことであったとはっきりわかり、多くの人々が主イエスを救い主と信じました。

私はここに深い慰めを感じます。この人々はヨハネが最初に語った時には、まだ信仰に至っていなかったのです。洗礼者ヨハネの証という道備えがあって、時満ちて主が、彼らの信仰の目を開いてくださったのです。私たちがこれまで出会った人たち、ある時に聞いた聖書の御言葉や救いの証し、経験したことが、ある時一つにつながっていることに気づきます。御言葉や自分に起こる出来事の意味がわからなくても、心に留めて祈っていると、あとで知らされる時がきます。ヨルダンの川向うの人たちがヨハネの証に時を経て目を開かれたように、私たちにも主を信じる信仰が与えられ、神が私たちに備えておられるご計画が示されるのです。

私たちが信じる者となるためには、御言葉をくりかえし聞き、神の時が満ちることが必要です。私たちにもまた、あきらめることなく祈り語ってくださった数えきれない信仰の先達がおられて今があります。私たちは自分の養いのためだけでなく、誰かに伝えるためにも御言葉をいただきましょう。愛する家族や友人、誰か一人にでもキリストを伝えられるように祈っていく時、証をする機会も力も、主がお与えになります。私たちが力を尽くして福音を宣べ伝えても、すべての人がその時に信じるわけではありません。しかしそのような時には、今は魂に御言葉を蓄える時なのだと覚えて、主の約束に立ち、小さき証し人として主を指し示し続けましょう(ローマ10:14~17)。

 

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