「わたしの心に適う者」1/12 隅野徹牧師


  1月12日 降誕節第3主日礼拝
「わたしの心に適う者」隅野徹牧師
聖書:マタイによる福音書 3:13~17

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 能登地震から1年、阪神淡路大震災から30年ということで、最近関連のテレビ番組が多く放送されています。私も折をみて、そのような番組をみています。先日は歌手の松任谷由実さんが「能登半島地震で被災された方々」を積極的に支援されている様子を伝える番組を見ました。

すこし地震のことから離れますが、ユーミンさんがその番組で言われた言葉が大変印象に残ったので紹介させてください。

地震などの自然災害が多発し、戦乱や対立も収まらないなど「混迷を極める今の時代」を生きていくために「何が大切か」を問われたユーミンさん。彼女の答えは「自分の中をより深く見つめることではないか」というものでした。

「自分の心の中には見たくないものもある。でもそこに蓋をしないで、自分の中の見たくないものを見ることを通して、見えて来るものがあるのだ…」そう答えていました。

ちょうど、今から語る礼拝説教の黙想をしていましたので、「今日の聖書箇所で私自身に示されるメッセージと重なった」気がしました。

今日は、与えられた聖書日課の中から「マタイ3章」の、イエスが洗礼を受けられる場面、を選び語ることにいたしました。ここは「わたしたちが洗礼を受ける理由」が深い言葉で示されている箇所ですが、今お話しした「自分の内側にある汚いもの、罪と向き合う」ことについて考えさせられる箇所です。 ともに味わってまいりましょう。

今回の箇所は13節からですが、話流れ自体をつかむために3章1節からを簡単に触れさせてください。

洗礼者ヨハネは、イエスが公に福音宣教をされる前に、「人々に悔改めを促す預言者として!」神がお遣わしになりました。3章の3節に「主の道を整え、道筋をまっすぐにせよ」という言葉が記されていますが、まさにその働きのために神がヨハネをこの世に遣わされたのです。

そんな彼のもとへユダヤ全土から人々が集まり、罪を告白し、洗礼・バプテスマを受けたことが6節までのところで分かります。

人々はこのヨハネこそ世を救うメシアかも知れないと期待しましたが、ヨハネは自分ではなく、この後に来られる方がメシアであると言います。11節で分かるのですが「自分は人々を悔い改めに導くために水で洗礼を授けているが、後から来る方は自分とは比較にならない優れたお方で、そのお方は聖霊と火によって洗礼をさずけられるのだ」と伝えています。

そのように、ヨハネが「自分とは比較にならない、まことの救い主だ」と捉えていたイエス・キリスト」が自分のもとにきて「洗礼を授けてほしい」と来られたのです。ヨハネの驚きはいかほどだったでしょうか… それでは今日の箇所の14節以下を見てまいりましょう。

まず14節をご覧ください。

ヨハネは、イエスの洗礼を思いとどまらせようとして「私こそあなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、私のところに来られたのですか??」と言います。それに対してイエスは「今は、止めないでほしい!正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです!!」と答えられたのです。

ヨハネは11節で、「自分が授けている水による洗礼は、イエスがお授けになる聖霊と火による洗礼に比べれることもできない」と言っていました。救い主のための道備えをする使命を神から与えられていたヨハネには、イエスこそ自分が道を整えている救い主であることが分かったのです。

ヨハネは、イエスが自分から洗礼を受けるなんて相応しいことではない、と言ったわけですが、それは、主イエスは何の罪もない方なのだから、悔い改めの印である洗礼を受ける必要はない、ということではない…ということに今回の箇所を黙想していて気づかされました。

ある牧師の黙想によって気づかされたのですが、わたしは長らく一つの思い込みをしていたことに気づいたのです。

洗礼者ヨハネが「私こそあなたからバプテスマを受けるべきなのに…」といった理由について「イエスさまには罪がないのに、自分は一般の罪ある人間たちと同じように洗礼は授けられない…」という理由で断っているとおもいこんでいませいた。しかし、注意深くこの箇所を読むなら「イエスに罪があるとかないとか、悔い改めの必要があるとかないとか…」ヨハネは一言も言っていないことに気づかされました。

私が参考にさせてもらった、その牧師の黙想では「もしも、ヨハネがイエスに対し『あなたは罪のない方ですから、私から洗礼を受ける必要はありません』と言ったとしたら、その時ヨハネは、救い主よりも上に立ち、『イエスのことを罪があるとかない』とか評価する立場に身を置いていることになる」ということが書かれていましたが、まさに私もその通りだと思いました。

「救い主のために道を備える働き」をしているヨハネ、彼は洗礼を授けてはいますが「救い主によって罪から救っていただかなければならないの一人間」なのであります。ヨハネはそのことを理解していたので、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが私から洗礼を受けるのは間違いです。逆ではありませんか」とはっきりいったのです。

私も神から派遣された「牧師」として、「洗礼を授ける」恵みに与らせておただいています。昨年も3人の方に「洗礼を授けることができて」本当に感謝でしたが、しかし自分も「もともとイエスの名によって洗礼を授かり、そのイエスによって罪から救っていただかなければならなかった者だ!」ということを謙遜に受け止めたいとおもいました。ここでのヨハネの言葉は、すべてのものを原点に立ち返らせるとともに、冒頭にお話ししたとおり「自分の内面を深く見つめる」キッカケになるのではないでしょうか。

次に15節を見ましょう。洗礼を受けることを思いとどまらせようとしたヨハネに対してイエスが返された言葉がしるされています。 

私は今日のメッセージで中心聖句として捉えているのがこの15節です。

イエスは、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とおっしゃったのですが、この「正しいこと」という元の言葉は、他の聖書箇所で「義」と訳されている言葉だそうです。

「義」とは、人間が行うべき正しいこと、という意味で理解できますが…その理解で、ここでのイエスの言葉を解釈するならば…「わたしイエスは、『本来人間が行うべき正しいこと』をすべて行うことは、天の父の御心なのです!」とおっしゃったことになります。

つまりイエスが洗礼をお受けになったのは、それがご自身にとって必要だったからというより、「人間が行うべき正しいこと」を、救い主として受けて下さるためだったのです。

神の前で「罪を告白し」、「悔い改めて、神と共に新しく生きていく」ことのしるしとして洗礼を受けること、それは「すべての人間が行うべき正しいことなのだ!」ということがイエスから伝えられている!そのように私は受け取りました。

洗礼は「クリスチャンになりたい人だけが受けるもの」ではありません。そうではなく「本当なら、すべての人が受けてほしい!」そのように私は願って、牧会をしています。

ある年齢に達したから「洗礼を受ける」とか「ミッションスクールに入りたいから受ける」とか、洗礼を一種の通過儀礼のように捉える見方がありますが、そういう「箔をつける」ものでは全くないということが今日の箇所からも理解できると思います。

そもそも洗礼とは、マタイ福音書の最後にイエスご自身が「すべての人に洗礼を授けなさい」と言われているように、「神の前に罪を告白し、悔い改めて、神と共に新しく生きていくことのしるし」として、すべての人が受けることを神ご自身が願われているものです。 私は幼児洗礼を授けない方針ですが、「こどもからご年配まで、すべての方が、自分の口で、イエス・キリストのことを『自分を罪から救う救い主だと告白し』、洗礼をうけてほしい」と切に願い、祈りを積み重ねてまいります。

さてイエスがヨハネから「洗礼をうけたあと」のことが16節と17節に記されていますが、ここを最後に触れ、メッセージのまとめの部分を語りたいと願います。【※16節と17節、ご覧ください】

イエスが水から上がると、「天がイエスに向かって開いた」そして「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」、つまり洗礼を受けたイエスに、神の霊、聖霊が豊かに降ったのです。そして天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえたと記されています。  

父なる神が、わたしたち全ての人間に対して、「このイエスは私の愛する独り子救い主である。そのイエスが洗礼を受けたのだ。「全ての人間がすべき正しいこと、御心にかなうこと」が洗礼であるのだが、すべての人間に先立ってこれをしたのだ」との啓示がなされていると私は受け取りました。

神の御前で罪を告白し、悔い改めの洗礼を受けるという、わたしたち全ての人間がなすべきことを行なって下さったイエス・キリストは、十字架の上で「わたしたちの罪を全て背負って、死んで下さった」のです。そして「死を打ち破って復活してくださった」のです。その救いの業によって、わたしたち全ての人間には「罪から赦されて救われ、永遠の命をいきる」道が開かれたのです。

よく言われることですが、洗礼という「人間の行為」が罪からの救いを成し遂げるのではありません。そうではなくて!神による罪の赦しが与えられて初めて、救いは実現するのですが…その罪の赦しを、十字架と復活の業によってなしとげてくださったのが、わたしたちと同じ「人間」になってくださった神の子イエス・キリストなのです。その「神の子イエス・キリスト」今回の箇所のことばを使って表すなら「天の父なる神の愛する子であり、御心に適う者であるイエス・キリストが「わたしたちと同じ人間として」ヨハネから洗礼を受け、「全ての人間がなすべきこと」つまり「罪を告白し、悔い改めて、神と共に新しく生きていく」ことを示して下さったのです。

今日の箇所を通して、洗礼とは何かをもう一度確認しましょう。

洗礼はヨハネを通して、「天地を創造された神とキリストが」示して下さった「本来すべての人間が受けるべきもの」です。この洗礼によって、罪深いわたしたちも、新しく生かされることができ、神の目から「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」とみなしていただけるのです! その恵みに感謝して歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)