「わたしを信じる者は死んでも生きる」9/11隅野徹牧師

  月11日 聖霊降臨節第15主日礼拝
「わたしを信じる者は死んでも生きる」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書 11:11~27

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 現在山口信愛教会の主日礼拝で続けて読んでいるヨハネによる福音書ですが、ただいま「有名なラザロをイエスが生き返らせる」箇所である11章を味わっているところです。 今回は、「ラザロが息絶えたことをご存じのイエス・キリストが、ラザロに会いに向われる箇所」です。そして迎えに来た「ラザロの姉妹、マルタ」に対して大切なことをお話しになります。早速味わってまいりましょう。

まず、今週もの地理的な背景から話の流れを理解したいと願います。

聖書の後ろの地図6をお開けください。

下の方に死海があり、その少し左に「エルサレム」があり、その少し右に「ベタニア」という町があります。ここにラザロ、そしてマルタ、マリアの家がありました。イエスは、エルサレムに滞在される際、この兄弟たちが住む家に何度も滞在されたと言われています。

マルタ・マリアは、離れた場所におられたイエスに対し「ラザロが命にかかわるような重篤な状態である」という知らせを、人を送って伝えます。それは約40キロ西へ行った「ヨルダン川の向こう岸・ベレア地方であった」こと、イエスはこの場所で「愛するラザロが重篤な状態である」ことを聞かれたのに、なお二日、ヨルダン川の右岸にあるベレア地方に留まられたことを先週お話しいたしました。

また、10章の40~42節に記されていますが、ベレア地方においてイエスを信じる人が多く起こされていました。きっとイエスは「ご自身が、ベレアの地で為すべき務めがある」とお考えになって、なお2日間滞在されたのではないか、ということもお伝えしました。

しかし、その場所からいよいよ「ラザロのいるユダヤ地方」に出発されるのです。しかしそれは「ただラザロに会い、業を行う」ためだけではないのです。ユダヤには「イエスを目の敵にし、命を狙おうとする者たち」が沢山います。

今回の箇所の16節、弟子のトマスが「私たちも一緒に死のうではないか」という言葉が示す通り、ユダヤに向かうということは命がけであり、危険を伴うものでした。弟子たちには分からなかったでしょうが、イエスには「ラザロを生き返らせることが、ご自分を目の敵にする者をさらに怒りに満ちさせ、それが十字架につながる」ことがすべて分かっておられました。

そこまでわかった上でユダヤに向かわれたのです。15節に「さあ彼の所にいこう」とありますが、単にラザロの癒しに留まらず「全人類を罪から救い出す十字架の死」に真っすぐに向かわれるイエスのお姿が見て取れるのです。

只今より17節から27節を深く味わってまいりましょう。

まず17節から20節を読んでみます。

ここから分かることが何点かあります。まず、ラザロは死にかけていたのではなくて、墓に入れられ4日経っていたことです。これはイエス・キリストが墓に葬られた状態から復活なさったことと繋がることであります。

次にマルタ・マリアのもとを多くの人が訪れ、慰めようとしていたことです。マルタ・マリアそしてラザロが、多くの人に愛されていた証しがここにあると言えます。

そして、姉妹のうちマルタは、家から出て、イエスを「村の入り口」まで出迎えに行ったことが分かります。

ルカによる福音書第10章の「マルタとマリアの話」では、イエスをもてなすために忙しく立ち働いているマルタと、足もとに座ってみ言葉に聞き入っているマリアの姿が対照的に描かれていますが、ヨハネ福音書も二人の姉妹の違いを語っています。

それは「悲しみの中で気丈に立ち上がりイエスを迎えにいくマルタ」と、そして来週の箇所から分かるのですが「悲しみにうちひしがれて立ち上がることもできずにいるマリア」の違った姿です。

多分、自分の思っていることをはっきり口に出せるマルタと、口数の少ないマリアという違いも描かれているのだと私は思います。どちらが良い悪いではなくて、違いを持った二人の姉妹が、主を愛し、そして主に愛されていたのです。今朝の箇所では、マルタが「自分の思っていることを、素直に主イエスにぶつけたこと」によって、イエスが「大切なことをお話しになる」、そのようなことが起こっているのです。

私たちも、心にある疑問を、祈りの中で「神、そしてキリストにぶつける」ことで、聖霊の働きにより、大切なことが心に中に示されるということは多いのではないでしょうか?

それでは今日の中心である21節から27節を読むことにします。

ここは一度には語り尽くせない「大変に深い教え」ですので、11月の召天者記念礼拝でも取り上げさせていただくつもりです。

 それでは21節から27節を読んでみます。

 21節でマルタは「イエスがここにいてくださったら、ラザロは死ななかっただろうに」と残念さ、無念さを正直に口にします。しかし彼女は22節、残念な状況でも「大切な信仰告白」をしたのです。

 それはラザロが死んでしまった今でも、彼女は「神の独り子イエス・キリストが願ったことは父なる神が必ずかなえて下さる」という信仰です。

そのマルタにイエスが最初にかけられた言葉が23節の「あなたの兄弟は復活する」という宣言でした。

ラザロには新しい命が与えられ、あなたは悲しみを取り去られるのだ!ということを力強く宣言して下さったのです。

 この宣言を聞いたマルタは、24節で「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いました。世の終わりは、「恐ろしい破局、崩壊の時ではなくて、神による救いの完成の時である」という話を私は皆さまに何度もお話ししてきました。その救いが完全に完成される神の時において、死は滅ぼされ、もはや死に支配されることのない新しい命、永遠の命を生きる新しい体が与えられる、それをマルタは「自分の信仰告白」として表したのです。

 しかし本日の箇所の中心はその後のところにあります。イエスは「正しい信仰を告白したマルタ」に対して、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」とおっしゃったのです。

大事なのはこれが、将来のことではなく現在のこととして語られているということなのです。「わたしは復活であり、命である」は、将来、終わりの日に実現する救いではなくて、今すでにイエスによって実現している救いを語っているのです。

イエス・キリストは「わたしは復活であり命である。だからわたしを信じる者は、死んでも生きるのだし決して死ぬことはない」、という救いを今現在!与えられている希望として告げておられるのです。

そしてイエスは併せて、「このことを信じるか」という問いかけをなさっています。復活であり命である主イエスを信じる者は今この人生において、「終わりの日に与えられる復活と永遠の命に確かにあずかる」、その恵みの体験は、イエス・キリストを救い主として信じることで起るのです。

マルタはイエスの問いに、すぐに「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えました。

この時点ではまだラザロは復活していません。死んで墓に葬られたままです。目に見える現実を支配しているのは依然として死の力であって、悲しみと嘆きの状況は少しも変わっていないのです。

しかし!その中で、イエスが来て下さり、「わたしは復活であり、命である」と宣言して下さり、「あなたはこのことを信じるか」と問いかけられたのです。

その問いに「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えるなかでマルタは、「あなたの兄弟は復活する」という言葉が実現することを確信したのです。

死の力を打ち破り、嘆き悲しみから解き放ち、新しく喜びをもって生かして下さるイエスの救いのみ業を体験したマルタと同じ経験を私たちはすることができます。

イエス・キリストは今、いろんな病や老いの現実の悩みの中にある私たち来て下さるのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるなら、今ここで、死の力に勝利するわたしの救いが実現する。終わりの日に約束されている復活を、あなたは今この人生の中で確かに体験するのだ」と告げて下さっているのです。

いよいよ来週は「十字架と復活というイエスの救いの業」を見える形で指し示した「ラザロの生き返り」の箇所を見ますが、その業の前にイエスが話された「今日の箇所の言葉」が、私たちに向けて語られた究極の「希望の言葉なのではないか」と今回私は感じました。

イエス・キリストは十字架の死と復活によって私たちに、終わりの日の復活と永遠の命を約束して下さいました。しかしそれだけでなく、生きておられる主イエスが今私たちに出会って下さり、語りかけて下さり、終わりの日に約束されている復活と永遠の命を、この人生において、確かに体験させて下さるのです。そのことに希望を向けて、歩んでまいりたいと願います。(黙祷・沈黙)