3月5日 受難節第2主日礼拝・聖餐式
「わたしを離れては何もできないから」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書15:1~17
今朝も、ここのところ続けて読んでいますヨハネによる福音書の「十字架が目前に迫った中でのイエスの言葉が記された箇所」から読み進めてまいります。今日の箇所は、イエスがなさった「ぶどうの木とその枝」の箇所です。
私の牧師としての初任地であり、瞳牧師の母教会である「東京・大田区の東調布教会」には付属施設として「ぶどうの木幼稚園」があり、園のマークもぶどうの実がまとわれています。
この箇所は「多くのクリスチャンたちに好まれてきた箇所」といえます。とくに好まれるのが5節の前半です。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、その人は豊かに実を結ぶ。」
イエス・キリストという「根っこにつながる幹」につながっているなら「枝である一人ひとり」は、豊かな実を結ぶことができる…実にシンプルで分かりやすい格言のように思いがちです。
しかし私は、今回ここを深く黙想していて、もっとも大切なのは「5節後半のイエスの言葉ではないか…」と深く思わされたのです。
「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」
本日の説教題も、示されてこれに変えさせていただきました。
私たち一人ひとりが「豊かな実を結ぶ枝として生きるため」に必要なことは、5節前半にあるように「イエスご自身にとどまること」もっと具体的にいうなら7節が教えるように「イエスご自身の言葉、聖書の言葉をいつも大切にしている」ことです。
今日はそのことではなく「私たちは、イエスを離れては、何もできないのだ」ということについて、この箇所が示す「深い教え」を味わってまいりましょう。
これまで流れを追いながら「ヨハネによる福音書」を読んでいますが、一つ一つの聖句や「場面」を切りとるようによむのではなく、それぞれのイエスの言葉が「どんな流れで、だれにたいして、どんな状況で語られているか」を味わうことがどんなに大切に気づいていただいたと思います。
一ページめくっていただいてP196をお開けください。
13章の34節からでは、ユダが裏切って、いよいよ十字架が目前にせまってきたことを悟られたイエス・キリストは「自分を裏切る者、傷つける者をも受け入れて愛し合うこと」を新しい掟として教えられます。
そして14章に入ってからは「イエスが父なる神、と一つであること」、そして父なる神のおられる場所である「天の国」に私たちの居場所を作るために、御子イエスは十字架に掛かられ、復活されることが教えられます。
そのことで天の父なる神は「さらに大きな栄光をお受けになるのだ」ということが語られますが、その働きは私たち「弱さを持つキリスト者たちに委ねられているのだ」という励ましが語られるのです。
14章の12節には「はっきり言っておく、わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」という言葉が示すように、イエス・キリストが十字架にかかられ復活し、すべての人々に「天への道を開いてくださった」その業が、私たちによって「広がり、大きなものになる!」そのように教えてくださえるのです。
もちろん、私たちは弱いですから、自分の力だけで「神・キリストの業を行ったり、「大きくしたり」はできません。ですから、私たちが「神の御心を行うことができるように、神ご自身の霊である聖霊」が私たちに送られるのです。
そのことが前回の箇所である14章の15節から31節で語られました。
神の中に御子キリストがおられるように、聖霊を心に宿すことによって「私達もまた、神、キリストと一つになることができる」のです。
「神・キリストとわたしたちが一つになる」その希望が語られているのですから、14節の「わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」というイエスの言葉が「わたしたちが身勝手なお願いをしてもなんでも叶えられる」ということを言っているのではなくて「神の御心をねがうならば、なんでも叶えられる」ということが教えられているのです。具体的にいうなら「神の業がもっと大きなものになるために、助けを願うなら、それは叶えられる」ということです。
この「教えの流れ」の中に今日の箇所の教えもあることを覚えつつ、読み解いていきたいと願います。P198をお開けください。
まず誤解して取られやすい言葉から見ていきます。
7節の「あなたが、わたしにつながっており、わたしの言葉があなたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすれば叶えられる。」これは多く誤解されて理解されますが、13章からの流れで言えば「身勝手なお願いをしても叶えられる」ということとは全く違うことがお分かりいただけると思います。
そしてとくに16節「わたしがあなたがたを選んだ。あなた方を選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、またわたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである…」これは多くの戦争の「大義名分として悪用された」言葉なのです。
神に選ばれたのだ、任命されたのだと自称する「為政者」たちが、「実を結び、実が残る」という言葉を「領土を拡大し、自国を豊かにする」という「占領・戦闘行為」を正当化するために、この言葉を悪用してきましたし、今このときも悪用されていることは容易に想像できると思います。
しかしそういう人たちは、大概次の17節に出る「互いに愛し合いなさい」という言葉は都合よく省くのです。「互いに愛し合うこと」ことは、イエス・キリストが十字架に掛かられるにあたって私たちに「教えられた新しい掟」ですが、これは違いを持った人々、いままで対立していた人たちを愛し受け入れることです。
9節と10節をご覧ください。「ぶどうの木であるイエスにつながって、よい実を結ぶ」とは「イエスが命を贖うほどに私たちを愛されたその愛に留まること」なのです。
イエスの言われる「実を結ぶ」とは、この世でいわれるところの「成功」や「名声を手に入れる」ということの真逆なのです!
戦争によって領土を拡大したり、人々から搾取して「自国が豊かになっても」それは「まことのぶどうの木」である、イエス・キリストにつながってできる「本来の実」ではないことは間違いありません。
戦争に加担するかどうか、ということだけでなく、イエスの絶対の教えである「互いに愛し合う」ということを全く抜かして「自らの利益や繁栄を追い求めて得られた成果」は「ここでイエスが教えられる実では全くない」のです。
私たちは「この箇所でイエスが教えられていることは「実は厳しく、緊張感をもって受け止めねばならない」ということを考える必要があります。残りの時間で「その厳しさ」に目を向けて、メッセージを閉じます。
2節、そして6節を続けて読みます。
この言葉が好きだという人はいないと思います。ある人は「これは福音ではなく脅しだ」という率直な感想を言ったそうです。そして「実らぬ枝は切られてしまうのだから、頑張って努力して、切られないで実る枝になりましょう」というようなメッセージを聞かされ、不快な気持ちになった…という方もあるようです。
ではこの2節、6節をどう受け取ればよいのか。私が今回いろいろと読んだ注解書のなかである牧師がこんな黙想をしていましたので紹介します。
「脅迫のようにも聞こえるこのイエスの言葉は『自分は正しい、優秀だ』と思い込んでいる人間への『悲鳴のような懇願』なのではないか。
主イエスはユダのように『ご自分を見捨て、切り捨てていく』ような人に対して効果的で強力な手段を何も持ち合わせてはおられない。優秀な人材を引き留めるべく『ほらこんなによいことがあるよ』と奇跡をなさったりはしない。
なさるのは、ただ『あなたは私を離れたら何もできないのだよ』と訴えることだけだ。 切り捨てる言葉としてではなく、奢り高ぶって主のもとを離れていく者の衣の裾をつかむような言葉として、受け止めたい」
いかがだったでしょうか?わたしはこの先生の黙想に同意します。
わたしたちは自分が「優秀で、正しい人間だ」と思っていないかもしれません。しかし「自分の信仰を正当化して、自分を顧みることをしない」そんな誘惑とは隣り合わせだと思います。
とくに最近、多様な考え方を持てることから「自分の考え方は間違っているのではないか」と疑うことが減っていると思います。また情報社会になり「自分と同じ考え方、価値観の人がつながりやすくなり」下手をすると「間違いに気づかず、暴走する」ということが増えているのだと感じます。そして技術革新により「人間には何でもできてしまう。神なんて必要ない」という考えが充満する社会に身を置いています。
だからこそ、今回の箇所の5節で、イエスが「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と言われた言葉を強く心に刻みましょう。
そして6節の「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる」という厳しい言葉も、自らを省みる愛の言葉として重く受け止めましょう。
イエスの愛の内にとどまり、「隣人と互いに愛し合いながら生きていく…」それがまことのぶどうの木であるイエス・キリストにつながって「実を結ぶ」人生であることを覚えていただきたいと願います。 (祈り・沈黙)