「イエスの渇き」4/10隅野徹牧師

  月10日 受難節第6主日礼拝・棕櫚の主日礼拝
「イエスの渇き」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書19:28~37


説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 今日は受難節最後の主の日である「棕櫚の主日」です。私達の作り主であり、すべてを導いておられる神、その独り子「イエス・キリストの十字架上での死」に目を留めましょう。

今年の受難節の礼拝は「ヨハネによる福音書」の「十字架に関係する箇所」を選んで読んできました。先週よんだ今回の箇所の直前の箇所は、イエス・キリストが十字架に架けられる「まさにその場面」でした。

この箇所を改めて読むことで、人間の汚さ、冷徹さが表され、その結果として主が苦しまれたことを深く心に刻みました。しかし、そんな人間の罪がうずまく現実にあっても、神の救いの計画は着実に進むのです。

とくにイエスの架けられた十字架の上に掲げられた「ナザレのイエス・ユダヤ人の王」という言葉に注目しました。これはローマの総督ピラトが直々に記したもので、その行動の裏には「自分に対してイエスの死刑判決を強要してきたユダヤ人たちへの復讐心」があるということをお話ししました。ピラト自身、神に対して、そして目の前におられるキリストに対して、信仰の思いは全くありませんでした。 しかし、そのピラトが「十字架にかかって死のうとされているナザレのイエスが、全人類の真の王なのだ」ということを証言した形になったのです。

自らをユダヤ人の王と称したナザレの大工の息子イエスが、人々の恨みを買い、弟子に売り渡されて死刑に処せられたのではない!十字架の上で死なれた「あのナザレ出身のイエスは、神の民全体の王なのである!」と神自らがピラトを用いて示されたのです。私たちもこの「十字架で死なれたイエスこそ神の子であり、救い主であり、すべての民のまことの王だ」という信仰に立ち、告白をして参りたいと願います。

それでは今日の箇所を見てまいりましょう。

今回の箇所は28節から30節の「イエスが息を引き取られる場面」と、31~37節の「イエスの亡骸を十字架から降ろす」場面に分けられます。まず後半の31節からの部分から見てまいりましょう。

ここで記されていることは、他の福音書には「出ない」、ヨハネによる福音書独特のものです。この部分では、イエスは既に息絶えておられます。死後の後処理についての出来事で、はっきり言って「目をそむけたくなる」記述です。だれもこの聖書の箇所を好んで読みたい人はいない、そんな箇所ですが、しかし!ヨハネはあえてこの記述を通して伝えたいことがあったと考えられます。

それは「死んでもなお、イエスが旧約聖書で約束された神の子救い主である」ということ」です。つまり「遺体処理を通しても」イエスが救い主であり王であることが証しされているということです。 

31節をご覧ください。イエスが息を引き取られたのは安息日の備えの日、すなわち金曜日でした。31節を見ると、ユダヤ人たちは、死体を十字架の上に残して置かないようにピラトに願い出たことがわかります。

十字架刑で死んだ囚人は、しばしば見せしめのために、そのまましばらくの期間、野晒しにされたそうです。ところがイスラエルでは違いました。

「死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである」という律法の規定がありました。これは申命記21章22,23節に実際に出てきます。  

安息日の規定を守りつつ、埋葬の規定を守ろうとすると、本当に時間が残されていなかったのです。そこでユダヤ人たちはピラトにあることを願うのです。それが「足を折る」ことでした。

考えるだけで身の毛がよだちますが、十字架刑は死の苦しみを長く味わわせる刑で、二、三日ずっと苦しんで死ぬこともあったそうです。一方で「苦しみを長引かせない」という人道的配慮もあったのです。それが「足を折る」ということだったのです。そうすると体を支えきれなくなって、すぐに窒息死するからです。

32節をご覧ください。兵士がこの処置を「イエスの両脇にいた二人の囚人」に施したのです。しかし33節、イエスはすでに死んでいると確認されたので、足は折られなかったのです。

しかし34節、兵士たちは死刑執行という「任務遂行のため」に、念のためイエスのわき腹を槍で突き刺したのです。「すぐに血と水が出てきた」この言葉は書かれている文字以上の意味があると言われています、後程少し深めます。

「キリストは気絶していただけで死ななかった。復活したのではなく、瀕死の状態から回復したのだ」と主張する人がいます。しかし、そうではないことがここからはっきりします。たとえ兵士たちの判断ミスで足は折られなかったとしても、槍で突かれて、なお生きていられる人はいません。イエス・キリストは確かに死なれたのです。

一方で「キリストは肉体をもって生まれたのではなかった」と主張する人もいます。しかし、確かに血やその他の体液を宿した「私たちと同じ、肉体をもった一人間として」十字架に架かってくださったことが、ここではっきりと証言されているのです。

35節では、この福音書を書いた「ヨハネ自身」が、「人として生きて下さり、十字架に架かってくださった救い主イエス・キリスト」が確かに死んでくださったことの目撃者であると証言しているのです。キリストの死は確かであったことなのです。そして来週以降詳しく見ますが「確かに死んだお方が、死の力をうちやぶって復活された」のであります。

そして何より、ヨハネは「兵士たちの一連の行為」に、聖書の預言の成就を見ているのです。36節に「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった」と記しています。

この聖書の言葉とは、旧約聖書出エジプト12章46節の「過越の生け贄の小羊に関する教え」です。そこでは「生け贄の小羊の骨を折ってはならない」と教えられています。

過越は「完全な生け贄の小羊である、イエス・キリスト」が十字架で血を流し、死なれることで、「完成された、成し遂げられた」のですが…イエス・キリストが十字架で死なれたとき「兵士たちによって足を折られなかった」ことで、まさしく「骨を折られない過越の小羊である」ということが証されたと聖書は教えます。

バプテスマのヨハネが告げたとおり、「世の罪を取り除く神の子羊」なのです。(1章29節)であられた。もう一つ詩編34:21の「骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる」という言葉の成就であるとみています。

さらに、37節には、もう一つの預言が成就したことが教えられています。「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」という言葉、これはゼカリヤ書12章10節の成就だとみています。

このように、残酷な場面を見てきたわけでありますが、ここから私が受け取るべきメッセージは実にシンプルなものです。それは「十字架に架けられて殺されたナザレのイエスこそ、旧約聖書から約束された「神の子、救い主である」ということ。そして、その救い主は「血肉をもった人間として、この世に来てくださり、十字架の上で確かに死なれたのだ」ということです。これらをしっかり心に刻み付けることで、来週以降、復活の恵みと喜びも深く迫ることを信じています。

残りの時間で短く、前半の28節から30節を味わいます。(よみます)

息を引き取られるこの場面、イエスは十字架の上で2つの言葉を発せられたことが記されています。

2つ目の言葉は、イエスが息を引き取られる前に言われた最後の言葉で「成し遂げられた」というものです。

何が成し遂げられたのか…それは人を救う神のご計画が「成し遂げられた」のです。

私たち人間は自分の罪のために滅びる以外にない者たちです。しかし神の独り子イエス・キリストが十字架の上で、身代わりとなって「死んで滅んでくださった」ことによって救いの道が開かれたのです。その救いの道が「完成した」という意味での「成し遂げられた」だということを私たちも重く受け止めましょう。

もう一つの言葉は「渇く」です。今日の説教題にも着けました。この「渇く」という言葉も、肉体的な喉の渇きというより、旧約聖書の成就としてヨハネは捉えています。

旧約聖書のどこの言葉の成就かというと、それは詩編22編です。

今日は受難週の礼拝でもありますので、皆さんでここを開いて見ることが示されました。皆様旧約聖書P426をお開けいただけますでしょうか。

2節から22節を私がゆっくりよみます。皆様は目で追って見て下さい。

いかがでしょうか?色々な言葉が「主の受難の預言だ」と捉えられたのではないでしょうか?渇くは16節に出ますが、それ以外にも2節の言葉は、十字架の上でイエスが叫ばれた言葉ですし、19節の「着ていたものを分けてくじを引く」場面は先週見た箇所にそのまま出ます。そして15節です。骨は外れても砕かれず、そして何より「水となって注ぎ出され」という言葉は、今回の箇所の34節と重なります。

詩編22編は、ダビデの「叫びにも似た神への訴え」が詠まれたものです。罪の現実の中で、苦しみ、嘆き、神に助けを求めることしか道がないそんな全ての人間を代表して詠んだかのような言葉です。

本当なら、私たちもこのダビデと同じような「叫び」をしなければならなかった。しかし、神の独り子が「私たちを愛する故に」これをすべて背負って、身代わりとなって死んでくださったのです。「渇く者」として、苦しみの極みを味わって下さった…だからこそ、私たちは平安の中を歩むことができるのです。

受難週の今週、今日の礼拝でみた聖書の言葉をもう一度読み直して、「この私のための、主のお苦しみ」を深く心に刻みましょう。 
(沈黙・黙祷)

 

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