6月18日 聖霊降臨節第4主日礼拝
「イエス・キリストの御名によって」隅野徹牧師
聖書:使徒言行録4:1~21
今朝は、「聖書日課」のうち、使徒言行録4:1~21を選びメッセージを語ることにしました。説教題は予告と変えて「イエス・キリストの御名によって」にしました。
この言葉、よく教会で聞くフレーズだな…と感じられた方も多いと思います。実は多くの方がお祈りの最後につける「定型句」のような感じで広まっている言葉です。
しかし、皆様、なぜ「イエス・キリストの御名によって」祈る必要があるか、じっくり考えられた方はあるでしょうか?
使徒言行録4章1~21節の間には「名前の名」という字が沢山出てきます。今回の箇所のキーワードだと言ってよいでしょう。ぜひ今朝の礼拝を通して「イエス・キリストの名」と「私たち自身」がどうつながっていくのかを知っていただければと願います。
まず1~4節をざっとご覧ください。
ここでイエスの弟子であるペトロとヨハネが捕らえられるという事件が起こったことが記されています。これがなぜ起こったのかというと、彼らがイエスの復活を大胆に宣べ伝えていたからです。
元をたどれば、直前の「使徒言行録3章」に記された「エルサレム神殿の美しの門で、足の不自由な男性をペトロとヨハネがいやしたこと」から始まっています。どうして「この男性の癒しが起こったのか」をペトロたちが民衆に話すのですが、その中心として語られたのが「神の御子、イエス・キリストの十字架と復活」でした。そこへ祭司たち、神殿守衛長とサドカイ派の人たちがやって来て、「ペトロとヨハネを逮捕し、牢屋に入れてしまった」のです。
ここに出て来る「サドカイ派の人々」は復活をはじめ、超自然的なことを信じないという特徴があったのです。彼らは神は信じていましたが、奇跡はすべて否定する「いわゆる現実主義者」でした。だから、死者が復活するというようなことは到底受け入れられないことでしたが、ペトロとヨハネがイエスの復活を教え、多くの人が信じ始めていたことから「危機感をもった」のです。
次に5節から7節をご覧ください。ここはいわゆる尋問の場面です。
5節、6節をみると議員、長老、律法学者という指導者たちに加え「大祭司とその一族」も出席したと書かれています。当時のエルサレムの権力者たちが「取り囲むかのようにして」ペトロたちを尋問します。「お前たちは、何の権威によって、だれの名によってあああいうことをしたのか」と尋問しました。
「ああいうこと」というのは、もちろん、彼らが足の不自由な男性を癒したということです。権力者たちは「神殿で癒しの行為を行ったり、教える時には、大祭司や神殿の守衛長たちの許可が必要なのに、お前たちはそれをしていないではないか!」と主張しています。
私たちの身近なところでもよく「一体何の資格があって、まただれの許可があって、こんなことをしているのか?」というような汚い言葉が飛び交うことがあります。それはつまり「何の権威によって、誰の名によって、これをしているのか」というのと同じです。
人間は実に自分勝手で罪深いです。苦しんでいる人を助け、癒す行いであっても「なんの資格があってやっているのか」とか「だれの許可でやっているのか」など、すぐに「人間的な権力」もっといえば「利得関係」を崩してはならない…のようなことをいうのです。
ペトロ、ヨハネを尋問している指導者たちは、本来「神に仕え、人々を神の御心にそって歩ませる務め」をなすべき人達です。それが神を畏れ、神に従うという姿勢を失い「自分の利益だけを追い求める」状態でした。
私も自戒したいと思います。
続く8節から12節の「聖霊の助けによって、ペトロが返した言葉」は大切ですので、読んでみます。
ペトロはまず、自分たちが取り調べられている直接の原因が「病人に行った善い行い」であることを確認します。その上で「この善い行いが」何によって、別の言い方では「何の権威によってなされたのか」をお話ししますと伝えるのです。
これらのことをしたのかというならば、それは、あなたがたが十字架につけて、神が死者の中からよみがえらせてくださったナザレ人イエス・キリストの名によるのだ!とはっきりと語るのです。
「イエスの名によって、いやされる」とは…「イエス・キリストがここにおられる! 私と共におられる! だから、私もイエス・キリストと共に命じます。あなたもイエス・キリストのお力によって立ち上がり、歩きなさい」そう祈ったことによって起こったのだ。私の力ではない!ただイエス・キリストが復活し、臨在してくださったことでなされた業なのだ…そのように「あくまで復活のキリストがなされたことであり、この業は、キリストが死者の中からよみがえられた、証しなのだ」ということを語ったのです。
10節で語られているとおり、イエス・キリストは、ユダヤの指導者階級が「十字架にかけて殺すこと」を決めた人です。しかし、神は彼らが十字架で殺したイエスをよみがえらせたのです。
そして11節、ペトロは詩編118編を引用して「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石」というのは、まさにイエス・キリストなのだ、と教えています。
隅の親石は、それをはめ込むことによって当時の建築物を、最後に完成させる意思だったのです。イエスはユダヤ教指導者たちによって捨てられ十字架につけられて殺されました。まさに「家を建てる者が、必要ないと判断してが、捨てた石」のような扱いです。しかしこの石が「神の国が立て上げられるために」になくてはならないものだったのだ、と教えます。
だから、ペトロは結論として12節の言葉を言ったのです。
「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間に与えられていないのです。」
13節から21節は簡単に流れを見ます。
ユダヤの権力者たちは、ひとことも言い返せませんでした。彼らは、イエス・キリストが死の力を打ち破って復活された救い主だということがこれ以上広まることを恐れて「イエスの名によって話したり、教えたりしないように」脅したのです。
しかし聖霊に満たされたペトロは20節で力強く答えます。
「わたしたちは、見たこと、聞いたことを話さないではいられない!」
19節の言葉は、この箇所の内容を一言で表した「象徴的な言葉」です。人間の権力者に従うか、かたや「人間を愛するがゆえにイエス・キリストをこの世に与え、死者の中から復活させられた神に従うか」、そのことを読者に投げかけるようにして、この話は終わります。
以上、今回の箇所の流れを見ましたが、残りの時間、最初にもお話しした「イエス・キリストの名によって〇〇する」ということについて皆さまと一緒に考えてまいります。
今回の箇所の場面で、ペトロが「イエスの名によって」足の不自由な男性を癒したことを見てきましたが、もちろん「イエス・キリストの名によって命じる」といって何かをすれば、その通りになるわけではありません。「イエス・キリストの名」は魔法の言葉とは全く違います。
一方で、まったく威厳のない言葉かというと、そうでもないのです。
「イエス・キリストの名によって祈ります」という言葉を聞いて、ある人は「これはお祈りをそろそろやめます…という合図なんだな」と思った人があるということです。もちろんこれは誤解です。「イエス・キリストの名によって」というのはただの定型句なのではない、もっと深い意味があります。
魔法の言葉ではない、だけれども「重い意味をもつ」「イエスの名によって」という言葉。私がこの言葉の意味について、すっと「腑に落ちるようにして」理解した聖書の言葉を共に味わいたいと願います。
皆様新約聖書のP202,ヨハネによる福音書の17章11節をお開けください。
(※皆様がお開けになるまで待ちます)
ここは十字架刑に至る「逮捕」の直前、この後ご自分が「父なる神によって復活させられ、栄光を受ける」ことが分かっておられる、イエス・キリストが「祈られる」場面です。
その中の11節、イエス・キリストはこのように祈られているのです。
「わたしはもはや世にいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えて下さった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」
イエスの御名は、「神・キリストとわたしたちが一つになる」ために与えられているのだ、ということがここではっきりと分かります。
神・キリストと同じ思いをもち、同じ目的にむかって、神と一緒になって業を成し遂げていく…そのために、イエス・キリストの名によって祈ることが許されているのです。
本来は罪深くて、神に祈ることさえ許されないはずの私たちが「イエス・キリストの御名によって」特別に聖なる神に祈ることが許されているのです。
御名によって祈ることで、「神・キリストと一つ思いとなって」祈ることができる…そのことの尊さを感じていただいたら幸いです。
「身勝手なお願いをしてもなんでも叶えられる」のではなくて「神の業がもっと大きなものになるために、助けを願い」罪深いわたしたちがそれでも「神・キリストの御心が一つとなる」…イエス・キリストの名によって祈るのは、そのためです。
ペトロが「イエスの名によって」男を癒した、それも「ペトロ個人として、目の前にいた人がかわいそうに思ったから」とか、そういうことではなく「目の前のこの男性のためにも十字架に掛かって罪を贖い、そして復活して永遠の命をお与えになろうとする、そのイエス・キリストの心と一つになって願った」ということではないでしょうか。
いま世界では多くの人が苦しんでいます。しかし、その一人ひとりは神、御子キリストがどれだけ愛されている命かということを私たちは知っています。
神・キリストと一つ思いになって祈りましょう。天がそうであるように、地上でも神の愛の御心が成りますように、そのために私たちは「イエス・キリストのお名前によって」心込めて一つ一つの祈祷課題を祈り続けましょう。
(祈り・沈黙)