2月19日 降誕節第9主日礼拝
「キリストが私達の内に」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書14:7~14
今朝も、ここのところ続けて読んでいますヨハネによる福音書の「十字架が目前に迫った中でのイエスの言葉が記された箇所」から読み進めてまいります。
今回の部分でイエスが教えておられることは、これまで何度も繰り返し語られたことです。はじめの7節で「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」という言葉に表れているように「父なる神と、御子イエス・キリストが一つである」ということです。
「三位一体」という言葉をご存じだと思います。これはキリスト教を理解する上で外せない教理です。聖書には「三位一体」という言葉は直接出てきませんが「父なる神と、「人間を救うために人となられた御子キリスト」と「来週の箇所である15節以下にイエスご自身の言葉で詳しく示される聖霊」が「一つである」という教理です。
今読んでいる「ヨハネ14章」は「三位一体について」聖書でもっとも詳しく教えられている箇所だと私は理解します。
「聖霊について、詳しく語られる前に、神と御子キリストが一つであること」そして、題につけたように「キリストを信じる我らも神・キリストが一つである」ことが教えられます。深く御言葉を味わっていただければ幸いです。
まず、今回の箇所のあらすじを簡単に確認します。
先ほどもお話ししたとおり「父なる神と、御子イエス・キリストが一つである」ことが今回の箇所の主題ですが、これが語られるきっかけとなったのが8節です。ご覧ください。
弟子の一人であったフィリポが、イエスに向かって「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足出来ます」。と語ったことが記されています。7節でイエスは「あなたがたは既に、父を見ている」といわれているにも関わらず、フィリポは、イエスのお姿から「神が現されている」ことが受けとめられなかったのです。
そのようなフィリポに対して、イエスは、10~11節で、父なる神とイエス・キリストが一つであることをお語りになるのです。
その後12節から14節で、フィリポをはじめ全てのキリストに従おうとする者も「神・キリストと一つである」ことが語られる、そのような流れです。
まず注目するのが10節、11節です。
ここでイエスと父なる神の関係が、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」と表現されていて、もう一度繰り返されています。イエスと父なる神は、「お互いがお互いの内にいる」という関係なのです。
10節後半には「わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」ということが語られます。イエスのお言葉は、主イエスの内におられる父なる神のお言葉でもあり、主イエスのなさる業は、父なる神のみ業でもあるのです。
そのように主イエスと父なる神は一体なのだということが「改めて」語られたあとで12節以下が語られているのです。この12節から14節が今回の箇所の中心です。イエスを救い主として信じ受け入れ、「イエス・キリストと父なる神が一体であることを信じる者」が、どのように生きていくのかの教えについて詳しくみてまいりましょう。
その最初に出てくるのが「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」という言葉です。これはイエスを信じて生きる信仰者は、イエスが行う業を行っていき、そして、もっと大きな業をも行うようになると教えられているのです。
イエスが行われる業…その最も大きなものは「十字架と復活」を通して、人々を滅びから救いに導くという偉大な業で、私達はそれと同じ業が行えるはずがありません。しかも、イエスは「信じる者がもっと大きな業を行うようになる」とおっしゃいました。私たちがイエスよりも大きな業を行うことができるはずはありません。
では、この言葉を私達はどう受け取ればよいのでしょう?そしてもう一つ疑問に感じることがあるのではないでしょうか?それは13節と14節で「イエスによってお祈りすればなんでも叶えられるのか?そんなはずはないだろう」という疑問ではないかと思います。
ただ読むだけでは意味を間違えてとってしまいそうなこの箇所ですが、冒頭にお話ししたように「三位一体」そして「神・御子・聖霊とともに、私達も一体になる」ということを心に留めて読むことが大切だと私は考えます。
そうすることで「この箇所が語ろうとしていることが、深く、私達の心に迫ってくる」と思います。
まず13節、14節です。(改めてよんでみます)
イエスは「わたしの名によって願うことは、かなえてあげよう」と2回も言っておられます。これは私たちのどんなワガママな願いでもかなえてあげる!ということではもちろんありません。
13節の後ろに「こうして、父は子によって栄光をお受けになる」とある、この言葉が理解のポイントです。私たちがキリストの名によって願い、与えられるもの、それを通して「天の父なる神が、栄光をお受けになる」ということです。
私たちが「イエスの名によって祈り願う」それは、自分の欲望をかなえることではなくて、イエスのみ業を私たちが行う、そのことのためです。
具体的に言うなら「イエス・キリストによる救いにあずかった者として感謝して生きられるように祈り願うこと」。そしてその感謝を自分だけに留めるのではなくて、「人々に宣べ伝え、証ししていく者となれる」そのことを、イエスのみ名によって祈り願うなら、その祈り願いを「父なる神が確かにかなえて下さる」そのことが教えられているのです。
私たちは弱いです。イエス・キリストによる救いを日々喜んで生きたい、そして証ししたいと思ってもなかなかできません。人間的な力、努力だけで「立派なクリスチャンになりたい。多くの人を信仰に導きたい」と頑張っても、そうはなれないことは多くの方が経験されていることだと思います。
弱い私たちが、それでも「キリストの救いに生き、キリストを証しする」ことをさせていただけるように働くのが、神の霊である「聖霊」なのです。聖霊については来週以降、じっくりと学んでまいりましょう。
最後に残った12節を味わってメッセージを閉じます。(12節をよみます)
先ほどもお話ししましたが、イエス・キリストの十字架と復活以上の業はどこにもありません。しかし、私たち一人ひとりによって、2千年前にイエスがなさった「その大きな業」はもっともっと大きくなることができる、そのように教えられていると多くの注解者が理解していますが、私も同意します。
つまり、小さな私たちが神に用いられることで「キリストの十字架による救いの業はもっともっと大きな業」になっていくのです。
キリストによる十字架と復活による救いの業、それは確かに「最大の業」であることは間違いないのですが、当時はパレスチナの一部の人以外「その業が行われたこと」自体知らなかったのです。
それが教会につながった者たち、別の言い方で聖霊に満たされた「信仰者たち」によって、生きた証しとして世界に広がったのです。
そして注目すべきは「直接、キリストの教えを人々に伝える牧師や宣教師」によって「もっと大きな業となった」のではない!ということです。
キリストを救い主として受け入れたクリスチャンが「自分の置かれた場所でしっかりと務めを果たすこと」それがキリストの救いを「もっと大きな業」にしているということだと私は思います。
分かりやすい例でいえば、当教会出身の日野原重明医師の働きは、牧師や宣教師の働きとは違います。しかし召されて6年たった今でも「キリストの十字架による救いの業」を十二分に証ししています。天の父なる神の栄光がさらに称えられる、その一つの力になっていると私は思います。
そして、世間に名は知られなくても、他の「山口信愛教会の召天者たち」も、それぞれに「キリストの救いの業を、さらに大きな業にする」ために用いられた一人ひとりだと感じます。
ここに私たちも同じです。目立たなくていい。隣人をあいする小さな行いの一つ一つに「聖霊の力が働き」、「神・イエス・キリストによる救いの業を世界に伝えられ、広められ、世界中の人々がその救いにあずかっていく」ために用いられるのです。
…それは、私たちキリストにつながるものが「父なる神、子なるキリスト、見えざる神である聖霊」と一つとなって、生きていくのだ…という希望でもあります。
そのことが今日の聖書箇所で教えられていることを強く心に刻みましょう。
(祈り・沈黙)