「キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられる」3/17 隅野徹牧師


  3月17日 受難節第5主日礼拝
「キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられる」隅野徹牧師
聖書:コロサイの信徒への手紙 2:6~15

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 イエス・キリストの十字架のお苦しみを覚える受難節の第五の日曜日である今朝、与えられた聖書日課のうちコロサイの信徒への手紙2章6節からの部分を選びメッセージを語ることにしました。

 私がこの箇所で最も!皆様の心に刻んでほしいと思っていることは「洗礼」という行為によって私たちはどう変化するかということです。

 3月31日のイースター礼拝では、一人の姉妹が洗礼を受けられます。私たちにとって大きな喜びです。

そもそも洗礼がなぜ大きな喜びであるのかが今日の箇所にあると私は考えます。

洗礼は、人間的な目から普通に見れば「宗教儀式」と見えるでしょう。しかし、今日の箇所で使徒パウロは、「洗礼」がキリストの死と命にあずかる出来事であると述べているのです。

 イエス・キリストが十字架にかかって死なれ、その後復活されたのは、すべての人間が「罪にまみれた自分、別の言葉で自我が死に」、そして「新しくキリストの復活の命に与るため」です。

 洗礼をすでに受けた方も、もう一度、「洗礼」によって自分はどのようにされたのか深く考えながらメッセージを味わっていただければ幸いです。

 今日の中心箇所は12節から15節で、とくに大切な言葉は「洗礼」がキリストの死と命に与る出来事であると教えた12節です。

この言葉をコロサイの教会の信徒たちにパウロが語ることになったキッカケについてお話しさせてください。

8節からも分かるのですが、コロサイの教会では「哲学」に詳しい人が、聖書とはちがう教えを教会内で広めてしまっていたようです。今日の箇所の少し前の4節には、「巧みな議論、人間の知恵、そのようなものに振り回されるな」というようなことをパウロは言っていますが、「〇○をすれば救われる」とか「禁欲主義こそが大切だ」のようなことが広まったようです。

さらに、11節で「割礼」のことが出て来ることから分かるように、旧約律法の戒律に縛られていた人が、さらにほかのクリスチャンに強制してそれを守らせることを求め、教会が「キリストの愛」からかけ離れたものになってしまったのです。

戒律主義は、守らない人を攻撃する事を通して、自己実現を果たそうという場合が多いです。まさにそこにあるの「自己顕示欲、承認欲求」です。

  しかし…コロサイの信徒だけが「特別に悪い」のではなく、このような「自己顕示欲、承認欲求」というのは、情報社会に生きる現代の我々の方がむしろ大きく持っていて、そのことによって様々な問題を起こしているのではないでしょうか?

 いま紛争や分断を生み出している多くの為政者たちは、8節の言葉を借りるなら「世を支配する霊に従い」自分を偉く見せよう、という過ちを犯していることは火を見るよりも明らかです。

しかし…私たちも、知らず知らずのうちに「造り主である神に栄光を帰す」ことよりも、「自分がチヤホヤされたい」「人から評価されたい」ことの方を大切にする、そして「過度に人の目を気にして生きる」…そのようにして「世を支配する霊に従って生きている」それが現代を生きる私たち一人ひとりではないかと思います。

とくに最近、私自身について、そのように感じています。

神の御心に歩むことが正しい道だ、とわかっていても、罪により行いえない。そして「人の目を気にする」「人に良く見られたい…」そのような「世を支配する霊」の虜になってしまっている、罪深い自分を、嫌というほど感じさせられるのが、最近の私です。本当に苦しい…、葛藤の日々です。

ローマの信徒への手紙7章18から23節に、使徒パウロの赤裸々な思いをつづったこんな言葉が出ます。

「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」。

いかがでしょうか?私たちみんなの心の中には、「私たちが支配できない闇」がある。その闇が他者に向かう時、妬みや憎しみや怒りとなり、その闇が自己に向かう時、傲慢や絶望になるのです。

しかし!!そういう罪から、神の独り子イエス・キリストは私たちを解放してくださったのです。

 これから今回の箇所の中心であり、洗礼とは何なのかを教えた「革新的部分」である12節から15節を味わいます。

先ず13節をご覧ください。「罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださった」とはっきり証言されています。

14節、15節の言葉は分かりにくいです。

ここでは「私たちのこれまで犯した罪、分からないで犯した罪に対しての大量の罪状書きがある」とイメージしてください。その罪状書きが「十字架にくぎ付けにされた」、つまり「イエス・キリストが十字架に身代わりとしてかかってくださったことで、私たちの罪状書きも、十字架に一緒に貼り付けられるようにして赦された…」というように表現されています。

私たちの罪を訴えて不利に陥れている者の力は絶えず働いていますが、それらの支配と権威の武装を解除して下さる…、それが「イエス・キリストの十字架の死と、復活の命にあずかる洗礼」なのです。

つまりキリストの名によって「洗礼」を受けたものは、この世に捕らわれたものではなくなり、神のものとなり、キリストの勝利の列に加えていただけるのです。

洗礼は人が一旦罪に死ぬのですから、「肉体的という意味ではなく、霊的な意味での葬式」を行うようなものです。しかし、その後復活するのです。

パウロは、これを「キリストと共に葬られ、キリストと共に復活するのである」といっているのです。今日の説教題につけた通りです。イエス・キリストとの「共死共生」とでも言うべき出来事が洗礼において起こっているということです。

これは考えて分かることではありません。だから、人間が考えて分かるように神が導きたもうて「儀式としての洗礼」が教会に与えられたのだと私は理解します。

キリストと共に死に、共に生きることは、「考えて分かることでないので、身体で体験する以外にない。だから、水が用いられるのだ」と言った神学者がいますが、私もそう思います。

 マルティン・ルターも洗礼について「水によって、人は罪の中に溺れ死ぬのであり、キリストはその人を引き上げて生き返らせてくださるのである」と言っています。まさに人が「霊的に生まれ変わる」それが洗礼という出来事だということを、皆様心に刻んでいただけたら幸いです。

私たちはキリストに出会い、罪から解放されるために洗礼を受けるのです。人間の目から見て「ただ水をかけられるにすぎない「儀式」に見えるかもしれませんが、この洗礼を通して、私たちは根本から変えられるのです!

結びに、「洗礼」の意味を教えたパウロが、コロサイの信徒たちに最も伝えたかったことが表れている6節と7節に触れてメッセージを閉じます。

ここは大切なので、ゆっくりと読ませていただきます。

私たちは洗礼を受けることによって「キリストに結ばれた、霊的には一心同体なのだから」、キリストに根を下ろして、日々キリストに似たものへと造り上げること日々を目指していこう!そのようにパウロは勧めています。

そのためには「信仰をまもり、キリストのくださった救いに溢れるばかりに感謝して生きる」ことが大切だと教えます。

洗礼を受けて、かなりの年数がたち、洗礼を受けた時の思いを忘れてしまいがたちな私たちですが、この世的な価値観ではなく、「私の罪のために十字架にかかってくださったキリストと共に古い自分に死に、キリストと共に新しく生きる」その希望をしっかりと抱き、キリストの十字架による救いに絶えず感謝の思いを持って、まず今の受難節を歩んでまいりたいと願います。(祈り・沈黙)