「キリストの言葉が豊かに宿るように」9/17 隅野徹牧師

  9月17日 聖霊降臨節第17主日礼拝
「キリストの言葉が豊かに宿るように」隅野徹牧師
聖書:コロサイの信徒への手紙 3:12~17

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 今朝は、「聖書日課」のうち、コロサイの信徒への手紙3章12節からの部分を選びメッセージを語ることにしました。

 コロサイの信徒への手紙は、使徒パウロが「ローマの獄中で」書いたものです。この手紙がかかれた背景にあるのは「コロサイ教会で起こっていた誤った信仰の考え」があります。具体的には「哲学思想や禁欲主義」をキリスト教にとりこもうとする誤った考え方です。

これに対してパウロは「クリスチャンの生活に必要な教えはすべて、イエス・キリストが示して下さった生き方と重なるのだ」ということを教え、愛の実践に励むように手紙を書いたのです。

 今日の箇所はまさに「愛の実践」が教えられる箇所です。共に読み進めましょう。

まず12節から14節です。(※よんでみます)

ここではまず、クリスチャンが「どのような者であるか」について、パウロがコロサイの信徒たちに思い出させようとしています。 

ここでパウロが述べているのが「神に選ばれた者」「聖なる者」「神に愛された者」です。

誤った教えが入り込んだことで、「クリスチャンとはこういう者たちのことを言うのだ!」という「誤ったクリスチャン観」というものがあったのでしょう。「ギリシャ哲学」にかぶれ、頭でっかちになった人たちは「キリストの愛より、学問や理論」を正論のようにして教会で語ることも多かったようです。

そこで!パウロは一つ一つ確認するようにして「あなたたち一人ひとりは神が愛するがゆえに特別に選んで下った聖なる者たちなのだ」と言い表しているのです。

次にパウロは「クリスチャンが身に着けるべき徳」を挙げています。それが「憐れみの心」「慈愛」「謙遜」「柔和」「寛容」です。これら5つは人間的な努力で身に着けられるものではありません。13節に出る「互いに忍び合い、互いに赦し合う愛」が「心の中に宿っている」ことが必要となるものです。

もちろん13節の後半で表されているように「互いに忍び合い、互いに赦し合う愛」は、まず「イエス・キリストが、罪深いこの私を、赦して下さった」その愛を覚えていることなしには、成り立ちません。

14節には「愛はそれらを結び合わせるきずな」だとあります。別の訳ではこれは「帯」と訳されていますが、こちらの方が分かりやすいかもしれません。「互いに忍び合い、互いに赦し合う愛」に基づく「憐れみの心」「慈愛」「謙遜」「柔和」「寛容」の帯の役目を果たすのは「キリストの私たちに対する愛である」のであります。

つづいての15-17節ですが、今日はここを中心にメッセージを語らせていただきます。

ここでは信仰の実践の勧めをパウロが教えているのです。

まず15節です。ご覧ください

ここでは前半の「キリストの平和が、心を支配するように」との勧めがあり、「その根拠としてあなた方は招かれて一つのからだとされたのだ」と、言うことが教えられ、それとは独立した別の教えとして「いつも感謝していなさい」という勧めがあるように見えてしまいます。しかし原文に忠実に訳すると、ここはだいぶ意味合いが変わって聞こえてきます。

まず前半の原文を忠実に訳すると「キリストの平和が、あなたがたの心の中で審判をするようにしないさい」となるそうです。 審判とは、スポーツの「アンパイア」を思い浮かべていただいたらと思います。

つまりキリストの平和が「審判になる」とは…クリスチャンたちの心が「キリストの平和で満たされているときに」何かの判断をするということです。

私たちは弱い者です。日々「怒り、憤り、悪意、ねたみ」などを持ってしまいがちです。

そのような気持ちをもっているときに、何かを判断することは極力やめたいです。

感情にまかせて何かをするとき、それは愛の一致ということからは遠ざかるのではないでしょうか。

しかし「キリストの平和」つまり「キリストが、私が罪から救われるために命を捨てて下さり、その後復活してくださったことによって、私は特別に、神と和解することができた」という感謝をもって、ひとつひとつの行動をするならば「隣人との間に、真の平和」を作り出す者とされます。

15節の後半には「このために、あなたたちは一つの体とされた」とありますが、これも原文に忠実に訳せば「あなたがたは、一つの体の中に招かれた」となるそうです。

コロサイの信徒たちだけでなく、今日、ここに集うお一人お一人も「ご自分に与えられたキリストの平和の恵みに満たされて、物事を判断する、行動する」そのために召されているのだということを忘れずに歩みたいです。

続いて17節を先に見ます。

「何をするにしても、キリストの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝する」ということです。

この勧めを「文字通りに取るなら」 すべての行動のとき「イエスの名によって〇〇を行う」といって何かすることになります。私の知り合いの牧師に「買い物に行く前には、必ずお祈りし、無駄なものを買いませんように、御心にそった生活を送れますようにと祈る」という人がいます。

素晴らしいことだと思いますが、ここまで細かく行為のまえに祈ることのできる人は稀だと思います。パウロもこの箇所で「事細かに祈ることを教えようとしているのではない」と私は理解します。

大事なのは後ろにある「イエスによって父なる神に感謝する」ということにあります。

ひとつひとつの行動の前に細かすぎるぐらい祈ることよりも、大切なのは、何気ない一瞬一瞬を送るとき「私は、イエス・キリストの愛によって生かされていることを、父なる神に感謝します」という気持ちに満たされていることだ、と理解します。

 イエスご自身が教えとも重なりますが、長い言葉で祈ること、回数の多い祈りより、「日常の生活の中でいかに素直に、自然体で神・キリストへ思いが向いているか」ということの方が大切なことなのです。

 このように「目を閉じて、手を組んでお祈りしていないときも、神に心を向ける」そのことが最後に見る16節に表れています。 深く味わいましょう。

今回私にもっとも迫ってきた言葉です。説教題も16節の言葉から取らせていただきました。皆さんも 16節をご覧ください。

ここでは「キリストの言葉が、自分の中で豊かに宿るように」という勧めと「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌によって、心から神をほめたたえなさい」という別の勧めがあるように見えますが、ここも原語に忠実に訳すならば、少しニュアンスが変わって見えます。

まず前半は「キリストの言葉が、あなたたちの中に豊かに住み込むようにしなさい」という風に訳せるそうです。ただキリストの言葉が「心の中にある」というのではなく「住み込むように」ということを教えているのです。

つまり、キリストの言葉、聖書の教えをただ「知っている、記憶している」のではなく、その言葉や教えが「実生活」の中に生かされているということが教えられているのです。

皆さんの中には、「キリストの言葉が自分のうちに豊かに宿るように…といわれても、今から聖書の言葉を覚えたりすることはできない…」そうお感じになった方はないでしょうか?

実は私も、「記憶力の低下」を正直感じている今日この頃なのです。 その週の説教作成に全力投球しているせいでもありますが、数週前に聖書のどこから何を語ったか、思い出せないことが多くなっています。

今から約20年前の「神学校で学んでいたころ」が自分の中で一番聖書の言葉を記憶していた時期であって、あのときのように「〇○書の何章何節に何がかいてある」ということを覚えることはもうできないのだな…と正直思います。努力すれば、やる気を出せば…とかそういうことではないのだと思っています。

しかし!自信をもっていえることがあります。それは「たくさんの聖書の言葉を暗記していた、神学生の頃より、今の自分に『キリストの言葉が住み込んでいる』ことを感じる」のです!

御言葉が住み込むというのは、暗記している、詰め込んでいるというより「実生活の中で生きている、生かされている」ということです。

そのことを証しするのが、16節の次の言葉です。 原語に忠実に訳するならば「お互いに、あらゆる知恵によって教えて諭し」となるそうです。

 つまり「御言葉が自分の中に住み込むようにする」ことをうけて「あらゆる知恵によって教え諭す」ということが出るのです。 あらゆる知恵とは、私はとくに「人生の中での経験、社会での経験」を指すのだと感じています。

これまでに読んできた、また聞いてきた聖書全体の教え、神の愛が「人生の経験」とプラスされることで、人を諭し、愛をもって教えることができるようになるのではないでしょうか。

私も牧師として様々な経験をしましたが、一人の人間として、社会人として、家庭人としても沢山の経験をさせていただきました。その人生の経験を踏まえて「聖書の教え」を味わうことで、聖書が全体的になにを伝えようとしているのかその素晴らしさが、以前よりも理解できるようになっていると感じます。そしてまわり人にも証しできるようになっている、手前みそですが「成長させていただいている」と肌で感じます。

皆さんもそれぞれ、かけがえのないご経験をなさっている方ばかりです。そのご経験と聖書の教えを重ねることで「隣人や近しい人を諭し、愛をもって教える」ことができると信じています。パウロがこの箇所で教える「愛の実践」とは、「自分らしく自然体でできることだ」ということをぜひ覚えていただいたら幸いです。

最後に一言だけ、付け加えさせてください。

その「御言葉が自分の中に住み込ませ、あらゆる知恵によって教え諭す」ということで、私たちが最も自然にできることは「讃美」だということが、この箇所から教えられていると私は考えます。

「詩編と賛歌と霊的な歌」は太古の昔から「神を礼拝する」ために大切になされてきましたが、それはキリストの言葉を自分の中で深く住み込ませている、自分の生き方を神の前でも、人の前でも表せるものとして、神ご自身が私たちに授けてくださったものです。

気づけばいつでも讃美歌を口ずさんでいる…そういう人から「神の愛、キリストの平和を感じた」という人は多いと信じます。

私達も、ぜひ「自然な形で」神への感謝、キリストの平和を証ししてまいりましょう。

(祈り・沈黙)