「クリスマス~神のことばの到来~」12/25 隅野徹牧師

  12月25日 降誕節第1主日礼拝・クリスマス礼拝
「クリスマス~神のことばの到来~」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書1:1~14

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 今年のクリスマス礼拝は、ここのところ山口信愛教会の礼拝で読むことの多いヨハネによる福音書のクリスマス記事」を味わうことにします。

 ヨハネ福音書には、ルカ福音書に書かれているような「ベツレヘムまで旅をした」とか「家畜小屋で生まれた」「羊飼いが礼拝に来た」ということは出ませんし、マタイ福音書に書かれているような「博士たちが礼拝に来た」という「いわゆる物語的な描写」が一切ありません。独特な描き方で「キリストのご降誕」を表現しているのです。

 しかし、このヨハネによる福音書の1章は「クリスマスに人としてご降誕くださったキリストが一体何者であるのか」「どのようにしてご降誕されたか」ということが深く教えられている箇所です。

 ともに読み深めましょう。

まず1~3節です。

1節2節では、「キリスト」を「ことば」、もとのギリシャ語で「ロゴス」と表しています。そして、「初めにあった言は、神と共にあり、それ自身が神であった」ということを教えています。

そして3節、「言」であるイエス・キリストによって、この世の全てのものは造られたと教えます。イエス・キリストがまことの神であられることを示しているだけに止まらず、「神がこの世界と私たち人間をどのような心によって造って下さったのか」それが「言による創造」という表現を通して示しています。

聖書のはじめの創成期1章の天地創造の場面。神は語り掛けるように言葉を発して、この世界を創造されたと教えます。

無言のまま、意思もないままに造られたのではありません。そして一つ一つのものを生み出されたあとは「極めてよかった」とその心からの思いを表して下さっています。このことと今日の箇所の3節の「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」という言葉は繋がっているのです。

「ことば」という表現で示そうとされている、「神の、直接の語りかけ」「神の愛」が、見える形で私達の人間に現れて下さったのが「イエス・キリスト」なのだ、それが今日の箇所の14節に表れています。(14節をゆっくり読みます)

「神の本質である愛、私達への語りかけ」が、「神の独り子が、肉体をまとってこの世に来られる」ということを通して実現したということを教えているのです。

そして神の「言」、神の語りかけが、「私たち人間を生き生きと生かす」ということを別の表現で語っているのが、4節から5節です。

「ことば」の中に命がある、そして「ことば」によって「私たちが命を与えられ、生かされる!」ということが、「ことばは人間を照らす光である」と表現されているのです。

そしてこの聖書箇所は「光と対極にある暗闇」を描きます。その暗闇が表しているのは「私たちの罪」です。私たちに命を与えて下さった神を神として敬い、礼拝し、その神と共に生きようとせず、神から目を背け、神の言に聞き従うのでなく、自分の思いや考えを第一として生きている…その罪によって私たちは神の光を見失い、暗闇に陥ってその中を生きているのです。

しかし、私たち人間が「自ら作り出した暗闇」の中に、神がご自身の愛の光を輝かせて下さっているのです。それが5節に表れています。

「暗闇は光を理解しなかった」とあります。ここは以前の口語訳聖書では、「やみはこれに勝たなかった」となっていました。この世界に暗闇の現実がある。しかし!神の愛による光がそこに輝いて、私たちに命を与えて下さるのです。

光が輝く時、闇はもはやその光をかき消すことはできません。光が輝けば闇はもはや闇ではなくなるのです。闇は光に勝つことがない新しい世が訪れる…そんな風に「イエス・キリストのご降誕」を表しているのです。

「人間を照らす光であるイエス・キリスト」が「暗闇の中に輝いている」と表されています。この1年はとくに「人間の罪深さ」を感じる出来事が多く、「この世が暗闇の中にある」ことをお感じになることが多かったと思います。しかし、そんな暗闇のこの世に「神の生きたことば・メッセージ」としてイエス・キリストは来て下さり、私たち人間と共に生き、愛のメッセージを伝えて下さっているのです。

5節の最後の言葉は、前の口語訳では「闇は光に打ち勝たなかった」となっていたように、この世の現実におけるどのような暗闇も、イエス・キリストの愛の光に打ち勝つことはできないのです。

少し飛ばして9節をご覧ください。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とありますが、「照らすのは、すべての人だ」ということが教えられるのです。

この「すべての人」の中には「キリストを救い主と受け入れず、反抗する人も含まれるのです。ご自分を信じ受け入れる人だけが「光で照らされる」のではなくて、「罪に気づかず、悪に悪を重ねるような人たちをも」照らされるのです。

そのことはさらに10~13節で「さらに深く教えられる」のであります。(※10~13節をお読みします)

「自分を受け入れず、反抗する相手に対しては見捨てる、縁を切る」というのがこの世の常識だと思います。しかし、神からの「愛のことば・メッセージであるキリスト」は、そんな反抗する人間たちをそれでも救おうとされるのです。なんという大きな「愛」でしょうか。

 

神の言葉キリストは、ご自分を受け入れた者を「無条件で、新しく生まれさせ、そして神の子とされる!」のです。その道が開かれたのが2千年前に、歴史的出来事として実際に起こった「神の子の降誕」「クリスマス」なのです。

最後に残った14節、これが今回の中心です。これまで「神の愛の御意思の表れ」としてキリストが「暗闇のような罪に溢れたこの世に来てくださった」ことを見ましたが、「それが実際、どのようになされたのか」が教えられます。

14節をゆっくり読んでみます。

「ことばが肉となった」とは「神が、人間にその思いを伝えるために遣わした言葉」が「人間の姿となった」ということです。つまり「神の独り子がイエス・キリストとして、この世に生まれてくださった、身を置いてくださった」ということです。

そのことによって、私達人間は「天におられるイエス・キリストの父なる神」の真理、つまり「正しさ」と、愛に溢れたその恵みを知ることができた、ということが教えられるのです。

ヨハネによる福音書は、このようにして「クリスマスの出来事」を、「キリストがどこどこで、誰から、どのような状況でお生まれになった」という角度から語るのではなくて、「全知全能の創造主である神が、罪深い人間をそれでも愛しておられることを伝えようとされた、その出来事がクリスマスだ」と語っているのです。

その「神の愛のことば」が「私達と同じ人間となって」「私達と共に生きて下さった」そのことで、私たちは大切な真理を知ることができるのです。

暗闇といえるこの世でも、「神が私達を愛し抜いてくださっている」そのメッセージを、このクリスマスに受け取りましょう。(祈り・沈黙)