「ダビデの子孫として生まれた救い主」12/5隅野徹牧師

  12月5日 降誕前第3主日礼拝・聖餐式
「ダビデの子孫として生まれた救い主」

隅野徹牧師
聖書:ローマの信徒への手紙1:1~4




説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 アドベントクランツに2つめの灯がともりました。いよいよクリスマスが近くなってきました。クリスマスは「イエス・キリストのご降誕を祝う」ということを日本でも多くの人は知っています。しかし!イエス・キリストを「神話上の登場人物」のように「架空の人物」だと思っている人がこの日本には多くいるそうです。

今日の箇所の3節に「御子は肉によればダビデの子孫から生まれ…」とあります。この聖書箇所の著者である使徒パウロは、神の御子イエス・キリストが「肉体をもった人間としてお生まれくださったこと」を「事実として」はっきり記すのです。

このローマの信徒への手紙が書かれた頃、ギリシャ哲学に影響された一部の人たちが「神の子が人間の汚れた肉体をまとえるはずがない」と考えて、イエス・キリストの人間性を否定したと言われています。しかし!使徒パウロは「キリストは神話の登場人物や架空の人物ではない。私たちの人類の歴史の中で確かに生きて下さったのだ」と語ります。

クリスマスは「神の子キリストが人間の肉体をまとってこの世に来てくださった」ことを自分にとっての喜びとして捉え、お祝いする時です。歴史の分かれ目、西暦の分岐点もキリストの復活のときではなく「キリストのご降誕の時」なのです。それだけ人類の歴史上においても大変重要な出来事であります。

私たちは、「神の子が確かに人となって下さった。罪や悪が満ちたこの世の歴史の中で確かに人として生きて下さった」ことを喜んでいるか…というと「少しぼやけている」という方もあるでしょう。私もクリスマス時期の忙しさの中で「神が人となってくださったこと」を深く考えず感謝していないときが正直あります。
 そんな私ですが、与えられた聖書箇所を通して、皆さんと「キリストが人間として生まれてくださったこと」について深く味わってまいりたいと願います。

今回の箇所は、パウロが「ローマにいるクリスチャン達」にあてて書いた手紙の冒頭部分です。ここでは「神の福音、つまり喜ばしい知らせとは何か」が書かれています。その答えは「イエス・キリストがこの世を生きて下さったことが、私達にとって本当に喜びなのだ」と教えられます。そのイエス・キリストは一体何者なのか…それが「肉によれば」と「聖なる霊によれば」という2つの視点で語られます。

まず、2節と3節と4節をゆっくりと味わうように読ませてください。(※よむ)

3節の「肉によれば」という言葉に注目しましょう。これは「肉眼で見たときにこう見えた」ということではなく「キリストは、私たちと同じ肉体をまとった人間としてはこうだった」という意味です。

つまり「肉によれば」とは短い一言ですが、「神であられるお方が、なんと私たちと同じ人間となり、肉体をもってこの世に生まれて下さった」ということを表しているのです。

同じように4節の「聖霊によれば」も、「霊の眼でみるなら」という意味ではなく「神の霊である聖霊の働きによって、神の子が確かにこの世に降られたのだ」ということを表しているのです。これはマリアが聖霊によって身ごもったこと繋がっていくのです。

日本では、人間が神のように扱われて崇め奉られることが多いです。しかし、イエス・キリストは全く反対なのです。神であるお方が、天から私達をただ見おろしているのではなくて、私たちと同じ低いところに降りて来られた。肉体をもった人間としてこの世に生まれ、私たちと共に歩んで下さったのです。それこそが喜びの知らせ「福音だ」と聖書は教えます。

2節3節の、その他の言葉も掘り下げましょう。

ここではイエスは「神が既に旧約聖書の中で預言者を通して約束された通り」「ダビデの子孫から生まれた」とあります。ここに書かれている通り、旧約聖書の「預言書」の沢山の部分に「神が救い主をダビデの子孫として遣わす」という約束が記されています。

約束というものについて考えましょう。私は、約束というものは具体的であればあるほど、「喜びが大きくなる」のだと思います。一つ例を挙げさせてください。

私が、人からしていただく約束で嬉しいのが「教会に行きます」という約束です。本当に一人でも多くの人とご一緒に神の前で礼拝をささげることが何より嬉しいことだからです。その「教会に行きます」という約束ですが、いつ、何をしに、ということが告げられない約束もあります。やはり嬉しいのは「来週日曜日の礼拝に出席するために礼拝に行きます!」と約束してくださると本当に嬉しいですし、実際にそれがなされたときはもっと嬉しい気持ちが増します。

神の人間に対する約束はどうかというと、漠然としたものではないのです。漠然と「神が人間を大事にしていることがいつか明らかにされる」と約束されたのではありません。「いつかどこかに救い主を送る」と抽象的に約束されたのでもないのです。そうではなくて、「ユダヤ人のダビデの子孫として実際に生まれる人間として救い主を送る。そのことによって罪から救い出される」と約束されたのです。

人間となるということは抽象的なことではありません。私たちはどの人種にも属さず、具体的な姿形を持たずに生きることはできません。また特定の時、時代を生きないで「人としてこの世を生きる」ことは不可能なのです。ですから「神の御子が人間となる」ということは、「ある民族に属する一人の具体的な人間となって、具体的にある時代を生きる」ということでしかあり得ないのです。     

つまり!神の御子がダビデの子孫から、一人のユダヤ人として生まれたというのは、「神が私たち人間に、抽象的にではなく、具体的に関わって下さった!」ということの表れなのです。

そして!神が人間に具体的に関わり、具体的な救いの業を行われるために選ばれたのがイスラエルの民、ユダヤ人だったのです。

神はイスラエルの民を特別に選ばれました。そして救いの約束を与えられました。その約束が、「ユダヤ人、しかもダビデの子孫として生まれる救い主によって、人が罪から救い出される」ということでした。実際にイエス・キリストは、何の罪も犯されない神の子であるのに、十字架で死に、全ての人の身代わりとなって死んでくださいました。そして4節にあるように、全ての人を新しく生かすために「死に打ち勝って復活してくださった」のです。このことによって、ユダヤ人だけでなく、私たち全ての人間のための救いの業を実現して下さったのです。

神の子であるイエス・キリストがダビデの子孫として生れて下さった…その事実に目を留める時、私たち人間と具体的に関わり、具体的に救おうとなさる神の愛を感じることが出来るのです。そのことを覚えていましょう。

最後に、普通のユダヤ人の子孫としてではなく「王であるダビデの子孫として、神の御子キリストがこの世を生きて下さった」と約束されたことに意味があることを、他の聖書箇所を通して味わって終わります。皆様旧約聖書の歴代誌上の17章を開けていただけるでしょうか?(旧約聖書P652をお開けください)

ここは一体どんな場面かというと、王になったダビデが「神のために神殿をつくりたい」という願いを持ち、そのことを信頼する預言者ナタンに相談した後の場面です。 預言者ナタンは神からの言葉を受取り、それを王であるダビデに告げるのですが、その言葉が記されたのが1~14節なのです。

その内容とは「ダビデの子として生まれる王が神殿建設を成し遂げる。そしてその王国は永遠に繁栄する」という素晴らしいものでした。 11節から14節を読んでみます。(※よむ)

これはダビデの子ソロモンが神殿を建てることを指しているように見えますが、実はそれ以上のことが約束されているということに、皆さんは気づいていただけるのではないかと思います。

ダビデやソロモンとは全く別な形で「もっとすばらしい王国」が与えられます。それがダビデの子キリストによって建てられた神の国なのです。ダビデの子孫から救い主が与えられるという約束、預言は、この時ナタンを通して与えられた約束から始まったのです。

イエス・キリストが王である「神の王国」。それは目にはみえませんが確実にあるものです。ヨハネの黙示録にははっきりと教えられています。私たちが行く約束を与えられている天の御国。それは死の力に打ち勝ち、すべての痛み苦しみから解放され、神と一体となっていることが出来る場所です。その「天の御国」を治めておられるのは神の御子イエス・キリストです。

今日はローマ書の最初の数節から「クリスマスメッセージ」をいただきました。とくに「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれた…」という言葉に注目しましたがいかがだったでしょうか?

救い主がダビデの子孫として生まれたということに、大して意味を感じていなかった…、自分はユダヤ人ではないしダビデに特別思い入れはない…と思っていたという方も、そこに示されている大切なメッセージを感じ取っていただけたなら感謝です。

・神の御子が肉体を持った具体的な人間となられた、その事実に私達に対する神の愛と恵みが溢れています。

・神が特別にユダヤ人を選び、キリストがユダヤ人として生きて下さったことが、現代を生きる私達の罪からの救いにつながっています。

・そして、ナタンを通して神が約束してことを通して「ダビデの子孫が立てる、ゆるぎない神の王国」に私達が入ることができるのだ!という希望が与えられます。

肉体をもってこの世を生きている私たちは、死の力に常に脅かされています。しかし神の子であるイエス・キリストは、私たちと同じ肉体を持った一人の人間となって下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。その後死者の中からの復活され「死に勝利する力」を表して下さったのです。その「死に勝利する力」に王国の民である私たちも与らせていただけるのです。クリスマスを前に、今一度神から与えられた「私達への約束」をはっきりと心に刻みましょう。
(祈り・沈黙)

 

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