「不思議な業の目撃者」6/30 隅野徹牧師


  6月30日 聖霊降臨節第7主日礼拝
「不思議な業の目撃者」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書 4:46~54

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 今朝は、聖書日課の中から「ヨハネ4章の後半の、イエスがガリラヤでなされた2回目のしるし」「役人の息子をいやされる物語」を選び、皆様と学んでいくことにいたします。

説教題の中に「目撃者」という言葉をいれましたが、ここに私の強調点があります。

「目撃する」とは、日本語の辞書では「ある出来事や現象を直接自分の目で見ること」という意味になっています。そして「目撃する」という言葉の起源は大変古く、日本の古典文学や歴史書にも見られるということが載っています。古代から「目撃した出来事を語り継ぐ」ということが重要視されてきたそうです。

このように「目撃する」とは、「ただ見た」というのではなくて、「その出来事の証人として語り継ぐ」ことの意味があることに気づかされます。

今回の箇所で「イエスの業の目撃者」となったのは誰でしょうか?そして「何を見て、何を語り継いだ」のでしょうか?そのところを理解するのが今回の箇所を深く理解するカギだと私には示されました。

その上で…私たち一人ひとりも「イエスの業の目撃者だ」という思いが与えられ、「イエスの業に感謝しつつ、それを語り継いでいく」という思いが与えられたなら感謝です。ここでの「目撃」は、「イエス・キリストがこの世に来られ、直接見えるかたちで業を行われた時だけ可能なこと」なのではなく「現在の私たちにも可能である」ということを先にお伝えしておきます。 共に読み進めましょう。

今日選んだ最初の箇所の46節には、イエスが再びガリラヤのカナに行かれた。そして「そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所だ」とわざわざ記してあります。神の国を宣べ伝えるようになって最初になさった奇跡が「カナでのぶどう酒の奇跡」でした。 

3章をみると、この「ぶどう酒の奇跡」をなさったあと、イエスはエルサレムなどのユダヤ地方、そして「サマリア地方」に行かれたのでしたが、再び少年時代や青年時代を過ごされ、最初の奇跡を行われた「ガリラヤ地方」に戻ってこられたのです。

ガリラヤの人々にとっては「イエスが再び奇跡を起こして下さる!」という期待が高まっていったのです。ちょうどそんな時、カファルナウムにいた王の役人の息子が病気で死にかかっていたのです。役人は「イエスがガリラヤに来られ、カナにおられる」という情報を得たのでしょう。イエスのもとを訪ね、「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように」と頼んだのです。

ちょっとイメージしやすくなるために、聖書の後ろの地図をみましょう。地図の7をお開けください。

このときイエスがおられたのは、ガリラヤの外れの「カナの町」です。一方、役人と息子がいたのは湖に近い「カファルナウム」です。

今のように情報手段がない中、カファルナウムの町に「あのイエスが戻ってきたらしい。どうもカナの町にいるらしい」という話が伝わったのです。

本当か、ウソかもわからない…、そして今とちがって30KMぐらい離れているところに歩いていくのです。ここからでいえば宇部の手前ぐらいの距離です。それでも役人の父親はイエスにお願いをしに行くために出かけたのです。

それだけ切羽詰まっていた…とも言えますが、私にはこの父親の「子を思うおもい」や、「空振りを恐れず、また徒労になることを恐れずに、イエスのもとに行こうとする姿勢」は学ばされるな…と感じます。

地図を閉じ、再びP171をお開けください。

そんな父親に対し、イエスが掛けられた言葉が48節です。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とおっしゃいました。随分と冷たい言葉だな…と感じると思います。しかしこの言葉を理解するカギは「あなたは」ではなくて「あなたがたは」となっていることだと、私は考えます。

この「不思議な業を見なければ決して信じない」という言葉をかけられた相手ですが、が、それは「父親である役人」以外に「カファルナウムの町の人たち」もっというと「ガリラヤ地方に住むすべての人々」に対して言われのだと理解します。

実は、イエスが「ユダヤ、サマリア地方からイエスが戻って来られるのを待っていた」のは役人の父親だけでなく「ガリラヤの人々の皆である」ことが45節から分かります。 その歓迎の理由は「イエスがエルサレムでなさった奇跡的な癒しの業を見ていた」からだということも分かります。

「しるしや不思議な業を見た」ことで、再度「不思議な業が起こることを期待して」イエスを歓迎しているのです。目撃ではなく、敢えて「見た」という表現にします。

聖書は45節で「イエスがなさったことをすべて、見ていた」と表現していますが、もちろんこれは「後をつけてすべての奇跡を肉眼でみてまわった」ということが表されているのではありません。「うわさをきいた」ということが「見た」という言葉で表されているのです。

人々は「うわさの通り、自分にも不思議な業を行ってほしい」と願ってイエスのもとに来たのでしょう。イエスはその心の内を見抜かれたのです。

それで「しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」といわれたのです。つまり「自分が期待しているしるしや不思議な業を見たら信じるし、それがなされないなら失望して去っていくのだ」ということを指摘なさったのです。

イエス・キリストが不思議な業を行われたのは、「ご自身が人々を滅びから救い出す救い主であることを示すため」です。このあと十字架にかかり、復活して永遠の命を開かれるご自身をすべての人が救い主と信じることで、死の滅びから救われてほしい…そのために「癒しなどの不思議な業はなされた」のです。

決して、個人の生活を楽に快適にするために業を成されたのではありません。

この言葉を聞いて「自分に語られているようでドキッとした」という方はないでしょうか?

結局自分が期待しているしるしや不思議な業になっている…。本当は自分の魂の救い主であることを信じねばならないのに…イエス・キリストを「自分の願いを叶えてくれる都合の良い存在」として捉えている…。

私は…この48節の言葉が、信じきることがなかなかできない「この自分にも掛けられている言葉だ」と感じましたが、皆様はいかがでしょうか?

さて、イエスは父親である役人に対しても、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とおっしゃいました。それは「子どもが重篤な病状にあった父親」にとっては、嬉しい言葉ではなかったはずです。しかし、この父親は諦めてしまうことなく、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と願いました。

病気の子どものもとを離れて、30KMの道のりを走ってまで「イエスのもとにきた」。何とかして息子を助けたいと願う思いは「しるしや不思議な業を見なければ決して信じない」という言葉で揺らいでしまうのではなく、むしろ「もっと強く信じよう。このお方に委ねよう!」という思いになったことが読み取れます。

その思いに対して、イエスは50節にあるように「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と語られました。父親の願いは、息子が死なないうちにイエスがカファルナウムに来て、癒して下さることでした。しかしイエスは、彼の願い通りにするのではなくて、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」という「言葉のみ」をお与えになったのです。

そのお言葉を聞いて彼はどうしたでしょうか? 「なぜ、いっしょに着いてきてくれないのですか!」と文句をいうこともなく、「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」と25節の後半には書いてあります。「ただ帰った」のではなく「あなたの息子は生きる、といわれたイエスの言葉を信じて、息子のところに帰ったのです。

旧約聖書、列王記下の5章にでる「ナアマン将軍の癒し」ともつながるなと、私は思います。ぜひ皆様、お帰りになって「列王記下5章」を読んでみてください。

さて…30KMあるその帰り道、役人はどんな思いだったでしょうか?想像してみてください。

きっと「不安につつまれた道中」だったと想像できます。しかし、カファルナウムの方から、知らせを伝える人が走ってやってきたのでしょう。「あなたの息子さんの病気は癒されました!!」そのように伝えられたのです。

それを伝え聞いた役人は「ただ息子が癒されたことを喜んだ」のではないことが分かります。すぐに「熱が下がり、癒された時刻を尋ねたのだ」と聖書は教えます。

この行動は、イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」とおっしゃった時間と、息子が癒された時間が「一致するかどうか」関心をもっていたことの表れです。どういうことかというと「イエス・キリストの存在がずっと頭の中にあった。病気が癒されたという嬉しい知らせが入ったときも、イエスが癒して下さったのではないかと、すぐに考えた」ということが分かるのです。

53節の後半には「父親である役人がイエスを神の子救い主として信じただけでなく、家族もこぞって信じた」ということが書かれています。イエスに直接会ったのは父親だけです。しかし、家族がこぞって信じたというのですから…父親が「イエスが自分にあって下さったこと。言葉を与えて下さり、それを信じて帰ったところ、息子はイエスが言葉をかけて下さった…まさにその時刻に癒されたのだ」ということを証言したのでしょう。

ただ単に癒されたことを喜ぶだけではなく、癒し主である「イエス・キリスト」に対して感謝をささげることが家族で出来るようになったのだ、と私は理解します。一家は「イエスの業をただ見る」つまりは「奇跡を起こしてくれる便利な存在」とみなすのではなく、「イエスのことを、自分が助けを求めるときだけでなく、全生涯を通して自分を導く救い主である」ことを受け入れたのです。

さて今日私は、こだわりをもって「目撃する」ということばを使わせていただいています。

目撃とは「ただ肉眼でみる」、ということを超越した意味で「その出来事を自分のこととして受け止め、語り継ぐ」という意味だと最初の方で話しました。 そういう意味ではこの家族の全員が「イエスが癒し主であり、救い主である」ということの目撃者なのだと私は理解しています。

息子や他の家族は 不思議と熱が下がり癒されたところを経験したり見たりした。だけれども、そこにイエスはおられませんでした。「なにかよくわからないが不思議なことが起こった」と思えたとしても、「イエスが癒してくださった」とはすぐには分からなかったことでしょう。

一方の父親も、息子が急によくなったその瞬間には息子の傍にはいませんでした。イエスの癒しの業が行われた「まさにそのとき」、彼は肉眼で不思議な事象をみたわけではありません。 しかし、それでも家族は「イエス・キリストを自分の救い主として信じることができた」のです。

私たちが今日の箇所から学ぶこと、それは「願いごとが叶えられたのを、目で見るなどして自分で確認できたら信じる。でも確認できなかったら信じるのをやめる」ということではない、「キリストは私の願い求めにかかわらず、いつも傍にいて最善をお導き下さるのだ」と信じて、ぶれずに歩むことの大切さではないでしょうか?

この役人のように、「自分の願い求めが思う通りになったのかどうか、自分で確かめる前に、神・キリストを信じて一歩を踏み出す」そのことをしたとき、神の業は起こるのだと私は信じます。

「神の奇跡を肉眼でみたら目撃者になる」のではなく、むしろ「目には見えないけれど、信じて一歩を踏み出した結果、神の業は働いたのだ」ということを語り継いで生きていく人が「神の業の目撃者」ではないでしょうか。

 今日の箇所のイエスの語りかけを「ご自分への語りかけ」として捉え、皆様、新たな一歩を踏み出しましょう。

(祈り・沈黙)