「世界の救い主」12/17 隅野徹牧師

  12月17日 降誕前第2主日礼拝
「世界の救い主」隅野徹牧師
聖書:マタイによる福音書 2:1~11

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 今日は、「クリスマスの出来事が記された聖書箇所」のうちマタイ2章の1節からの部分を選び、先ほど司式者に「1~12節」を朗読していただきました。博士たちのクリスマスとして、ページェントでも演じられることが多く、良く知っている…という方も多い箇所だとおもいます。

しかしながら、今からのメッセージでは、前半の1~6節に絞ってお語りします。それは私が今回「博士たちが住んでいた東・東方」ということに特別に目がとまり、そのことを深く黙想したからです。 最初に少し、その話をさせて下さい。

「東の方」とは、エルサレムからみて「東」ということでしょうから…今のイラン・イラク地方だと捉えることができます。ちょうど今、水曜の聖研祈祷会で詳しく学んでいますが、そこはイエスの時代の数百年前、ユダヤの人々が「捕虜」として囚われて行った場所です。 聖書が禁じている「偶像礼拝、魔術、占い」といったものが盛んな場所でした。

一方で、囚われてその地にいったユダヤ人たちの中で「天地を作られた唯一の神」について、その証を立てた人もいました。 ダニエルなどは、その代表例ですが、そういう人たちによって「異郷の地であっても、聖書の教えに触れる人々がいた」と考えられています。その人たちがいたからこそ、今回の箇所にでてくる「占星術の学者たち」がわざわざユダヤまでイエスを礼拝しに行ったのだろうという説があります。

つまり、旧約聖書の預言書などが異郷の地で脈々と読み継がれたからこそ、学者たちは「救い主の誕生」を「世界を変える大きな出来事」として捉えることができた、ということです。

イザヤ書を深く読むなら、「捕囚という出来事がいかに大きな苦しみだったか」ということが迫ってきます。しかし、その大きな苦しみの裏で「神がイエス・キリストを通して、世界のすべての民を救うご計画」が進められていたことを感じます。

今日は「世界の救い主」という題で、メッセージを語りますが、ぜひイエス・キリストが「遠い遠い国の出来事」なのではなく、「ご自分に密接に関係することとして」受け止めていただいたら幸いです。

今日は1~6節に絞ってみます。7節以降は「イエス・キリストを礼拝する者の態度」について教える箇所でありますので、2023年最後の礼拝で取り上げさせていただきたいと願います。

まず2節、とばして4節から6節をよみます。

学者たちはまず都である「エルサレム」へ行ったと書いてあります。

イエス・キリストは「ベツレヘム」でお生まれになりました。「エルサレム」ではありません。 私も長らく勘違いしましたが、学者たち、つまり「博士たち」が星にみちびかれて、エルサレムまで長い旅をしたとは聖書には書いていないのです。

星に導かれて進むのは、9節のことばによれば「イエスそしてヨセフ・マリアのいた家」が近くなってからです。 つまり何が言いたいかというと、学者たちは「王は都エルサレムにいるのではないか」という先入観があったのではないか、ということが分かるのです。

今日はあまり触れませんが6節には、預言の成就として「小さな町、ベツレヘムの町が、救い主の誕生の地として用いられた」ことが描かれます。旧約聖書ミカ書の5章の1節が引用され、「ベツレヘムが決していちばん小さなものではない」ということが語られます。

私たちの住む町も、大都市に比べれば小さな町ですし、教会の規模も大きくはありませんから、できることは限られているとも言えます。しかし、ベツレヘムの町がそうだったように、山口という小さな町で、そして小さな群れであるこの山口信愛教会で神はご自身の御業を表して下さることがあるのだ、という希望をこの箇所から読み取りましょう。

さて、2節に戻ります。学者たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので拝みに来たのです」といっています。

エルサレムに来て、いきなり王にあって単刀直入にこの質問をした可能性も否定できませんが、私は、学者たちがエルサレムで新しい王について情報提供を求めたその声が徐々に広まり、王の耳に入った。そして王は、知識人を呼んで、「聖書の預言では、救い主がどこで生まれるといっているのだ」と問うたのだと考えます。

ここでエルサレムにいたヘロデ王について、少し説明させてください。

この時代、ユダヤはローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国は「自分たちの支配に忠実に従うことのできるもユダヤの王である」ことを条件に「王として立てる」ことをみとめました。それが、ヘロデ王でした。ヘロデ王は純粋なユダヤ人ではなくエドム人とユダヤ人の間の子でした。

純粋なユダヤ人でないので、「ユダヤ人たちを先導してローマ帝国を転覆させるような行動を起こす可能性が少ない」と考えられたと言われ「ローマにとっては都合の良い存在」であったのです。

一方で、ヘロデ王の存在はユダヤ人々にとっては「生活状況をより苦しくさせる」ものでした。ヘロデ王は、民に認められた王のではなく、ローマ帝国に認められた王でありました。ですので、ローマの圧倒的な権威を借りて、暴力的に民を恐れされ、支配をしたのです。

そんなヘロデですから、王としての自分を守るためには手段を選ばなかったことは容易に想像できます。3節をご覧ください。そんなヘロデは「外国からきた学者が、新しくユダヤ人の王としてお生まれになった方がいる」と聞いたのですから、不安になるのは当然です。

しかし!注目すべきなのは、「王の存在を喜んではいないはずのエルサレムの人々も皆、不安に思ったと書かれている」ことです。

先ほども申しましたが、ヘロデ王は「ローマの圧倒的な権威を借りて、暴力的に民を恐れされ、支配」したのですから、民には当然嫌われていました。それでもエルサレムの人々が「新しくユダヤ人の王としてお生まれになった方がいる」と聞いて、喜びよりも不安に思ったと書かれているのです。

マタイが敢えて「人々も皆、同様であった」と言葉に記した理由、それはエルサレムの人々の多くが「救い主の到来を希望し、そしてその救いに自らを委ねて、新しく生きたい」と思うのではなく、「今の生活を変えたくない」と思っていた。「いま自分の生活が、王が変わることで脅かされる」と思ったからではないでしょうか?

皆が皆そうだったわけではないでしょう。ルカによる福音書の2章に出て来る、年老いた「シメオンとアンナ」は、救い主の到来を心から喜び、お送りくださった神に身を委ねています。

しかし多くの「都の人々」は、ヘロデの権威に従っていれば、逆らわず、王として立てていれば」そのときの自分の生活は守れた人が多かったのでしょう。徴税人などは、その代表格です。規定の額より多く取り立てても、超えた分は自分の収入としてよい…などという無茶苦茶なルールを許したのもヘロデだと言われていますから…徴税人たちは「ヘロデの王政が倒れてほしくはない」と思っていたでしょう。

4節5節に出て来る「祭司や律法学者」も、本来の務めである「民たちが神の御心に従って歩むことができるように、務める」ということがまるでできていません。せっかくミカ書の預言を見つけても、学者たちのように「行って礼拝しよう」という様子が見て取れません。

逆に、本来「その政治姿勢に対して、モノ申さなければならなかったヘロデ」に対しては、良好な関係だったという風にマタイは描いています。

本来神に仕えねばならない祭司や律法学者が、ヘロデによって地位を確保されていたのでそれを失いたくなかった、その心の内が描かれているようです。ローマ帝国によって保身していたヘロデのような「保身の思い」が多くの人にあった、それが「学者たちとの対比」で描かれているのではないでしょうか。

 私は、このヘロデや、取税人や祭司、律法学者たちにあるような「保身」の気持ちがあると痛感します。それだけではありません。「救い主が来られた」ことを心から喜び、その救い主に「自分を委ねる」ということが出来ていない自分に気づかされました。

 今年のクリスマス、私は「イザヤ書を詳しく読んでいる最中」ということもあり、「私にとって、救い主キリストと出会う時」について、考えることが多くありました。聖書が教えているように「主よ来たりたまえ」と私は心から告白できているのか…ということを真剣に考えさせられました。

 そんな風に自分を見つめる中で「この世にどっぷりと染まり、この世で生活を満喫してから天国に行きたい」と思う自分がいることに気づかされました。

 もちろん今、この地で、また出会いを与えられた方々に仕えて生きる務めが私にはあると思っています。 しかし与えられているはずの「今の日々、今の生活」を自分の手で守ろうとしている自分に気づかされるのです。

 世界でだけでなく、身近なところで苦しみに喘ぐ人々があるのに、その人々に寄り添うことよりも、自分の保身を優先してしまう罪深い私です。

 心新たに「私たちの所にきてくださった救い主イエス・キリストの御前に出て」礼拝をささげたいと願います。 そのことで、自分のいのちを「神におささげ」したうえで、周りの方に愛をもってお仕えできることを願っています。

 さて、最後に残った1節を読んで、メッセージをとじます。

最初にお話ししましたが、ここでとくに示されたのが「東の方」という言葉です。

ある牧師が言っておられますが、「ここで大切なのは場所の特定ではなく、聖書の中で東の方角、東の地というのがどういう風な意味で描かれているかということ」なのだと示されたのです。

 代表的なのが創世記3章の「失楽園」の物語ですが、アダムとエバが罪を犯して追放された場所は「エデンの東の方」だと書かれています。他にもたくさん出てきていますが、「聖書において東の方とは」神から遠く離れた場所であったり、神に背く者たちが住む場所として意味づけられているのです。

 しかし、今回の箇所では「その東の方で、救い主誕生のしるしがあり、それを見出した外国人の学者たちがいた」を示しているのです。神の視点に立つならば「神から遠く離れた東の場所で、しかも神の御心を尋ね求めて生きるのとはある意味真逆の「星占い」のスペシャリストだった学者たちに、敢えて「新しい時代を告げる、世界の救い主の誕生」を告げられたのだ…と捉えることができます。

 このことを私たち自身にも当てはめて考えてみましょう。自分の心の内側には「東の部分」つまり「神から離れて生きようとする自分」に気づくところはないでしょうか?私は先ほどお話しした通り「自分の心の中に東の部分があること」そして「自分が東の方に住む者だ」と気づかされます。

 しかし!そのようなわたしたちに、神は救い主を送って下さっただけでなく、神自ら「あなたたちのために救い主を送ったのだよ」と語り掛けて下さるのです。

クリスマスを漠然と過ごすのではなく「世界のすべての人を救うために、キリストがこの世におくられたこと、それは何より自分自身を救うためなのだ」ということを改めて、感じて今年のクリスマスを過ごしましょう。(祈り・沈黙)