
1月11日 降誕節第3主日礼拝
「主の救いを見なさい」隅野徹牧師
聖書:出エジプト記 14:5~18
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今日の礼拝は、聖書日課の中から出エジプト記14章を選びました。出エジプト記の中でも最もよく知られた「劇的な場面」であると言えると思います。古くは映画「十戒」で描かれた場面ですし、ストーリー自体は皆さんよくご存じだと思います。
ファラオはエジプトの軍勢を総動員して追撃にかかりました。追っ手が迫って来るのを見たイスラエルの人々の反応が語られています。その恐れに中で彼らがモーセに語った言葉が11、12節です。
「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」
「エジプトを出発したとき」には意気揚々としていたのに、状況が悪くなると真逆のことをいう…
若いころの私にとってこの言葉は、「海が割れる場面が描かれた19節以下の言葉よりも」センセーショナルに響いた言葉でした。メッセージの最初にその話をさせて下さい。
改めて聖書の11節12節の言葉にご注目いただけますでしょうか。
この時のユダヤの民だけの態度だというより、「弱く罪深い私たち一人ひとりの姿」が描かれていると思うのです。ある牧師は、この民たちの態度を「自立ができていない人間の態度」と表現されていましたが、わたしもまさにそう思います。
奴隷のままがよかったのに… 実は若いころKGKキリスト者学生会の集まりなどに、あまり来なくなった仲間と話した際、ポロっと…「クリスチャンになんかならなきゃよかった」などという声をなんどか聞くことがあったのでした。
なんでそんなことを言ったのかというと、大体その理由は、「クリスチャンになってしまったために、日曜日に友達と遊びに行けなくなって、人間関係が悪くなった…」というものでした。他には「教会の中の奉仕や、献金など余計な苦労が増えた。洗礼を受ける前の方が楽に生きられていたのに…」という愚痴も聞きました。
笑ってしまうほど「甘いなあ」と思うようなエピソードですが、実はわたしもこれと同じことを思わなかったとは言い切れません。「自分も洗礼受けなかった方がよかったのではないか」…そんな風に心が揺らいでしまうような弱さをもっていた私です。
キリストを救い主として信じ受け入れて生きるというのには、それなりの覚悟と犠牲が必要なことが分かりそうなものですが…「やっぱり世の中の快楽や誘惑にどっぷりと浸かって生きている方が楽だった」と思ってしまう弱さが、私たち皆にあるのだと思います。
でもそんな弱さを持つ「人間を救うために」、本当なら渡ることのできない場所へと私たちを導いてくださる、そんな神の大いなる愛の業をお感じ頂いたらと願います。
残りの時間、今日の聖書箇所である「出エジプト記14章」に加えて、もう一か所「新約聖書の箇所」を開き、御言葉を味わいたいと願います。
そして、先に結論を言いますが「モーセに率いられたユダヤの民たちが体験した、葦の海の奇跡」と、わたしたちが「キリストの名によって授かる洗礼」とが、重なるのだということを心に刻んでいただければと思います。
先日のクリスマス礼拝で奥津律子さんが、「キリストの名によって洗礼」を受けられ、多くの方が、その新しい命が生まれる瞬間に立ち会って下さり本当に感謝でした。
それぞれが「洗礼」を思いうかべながら、御言葉を味わっていただくと幸いです。
先程、私が「センセーショナルに捉えた」のが11節12節だといいましたが…中心として語りたいのは続く「13、14節」です。ここを読んでみます。(※よむ)
「神の声なんかにしたがって出発すべきでなかった。奴隷に戻った方がよかった」そんなとんでもないことをいう民たちですが、神はそれでもお見捨てになりません。むしろ「私だけが救い主だ」ということを教え、そして「人間の力を超えた特別な奇跡の業」によって救い出して下さるのです。
ファラオの軍勢はえり抜きの戦車で追ってきたと6節にあります。
当時世界最強レベルであったエジプト軍の「えりぬきの部隊」なのですから、人間の結集出来うる「最強の力」だったことを聖書は表します。一方神はモーセを通して「落ち着いて静かにすること」を命じます。
このことがあってはじめて「開くはずのない、海の底に道ができ、そこを渡ることができた」という「葦の海の奇跡」が起こったのだと聖書は教えようとしていると理解できます。
ただ「絶体絶命のピンチが、モーセが杖を上げたことで、海が割れるという奇跡があって逃げることができた」という摩訶不思議な伝説が書かれているのではありません。 葦の海の奇跡は「新約時代を生きる私たちともつながる、大切な出来事」であるのです。
聖書のことをあまり知らないまま神学校に入った私は、東京聖書学校1年生のとき「旧約聖書素読」という授業で、教授から「出エジプト記14章に書かれている葦の海の奇跡は、新約時代における洗礼を表すものだ」と教えてもらい、そのとき「目からうろこが落ちた」ように感じたのを今でも覚えています。
このように「新約聖書で、出エジプト記14章の葦の海の奇跡と、洗礼を結び合わせて教えている箇所」のうちコリントの信徒への手紙一の第10章の最初の部分を皆様と開いてみたいと願います。 (※皆様 新約聖書のP311をお開けいただけますでしょうか)
- 2節をゆっくりとよみます。
「わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ…」
この言葉は、出エジプト記14章の葦の海の奇跡を意識して語られているのです。これによって「信仰の先輩たちは、モーセに属するものとなる洗礼を授けられた」と語られています。
この手紙を書いたのは使徒パウロですが、出エジプト記14章の「葦の海の奇跡」の出来事を、「洗礼を受けること」と重ね合わせているのです。このことによって「キリストの名によって洗礼を受けることは、神が与えて下さる救いにあずかることなのだ」ということを教えようとしているのです。
新約時代を生きる私たちにとっての「洗礼」は「葦の海の奇跡」つまりは「神が海を分けて下さったという大きな奇跡」に匹敵する業なのです。それは神が「罪の奴隷とされ、罪に支配されている私たちを罪から解放して下さった!」という救いの業です。
その救いは、神の独り子イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さり、そのイエス・キリストを父なる神が復活させて下さることによって実現しました。この「イエス・キリストの死と復活に私たちもあやかる」のが「洗礼・バプテスマ」なのです。
今日はこのように出エジプト記14章と、Ⅰコリント10章を併せて読みましたが、そのことで迫ってくることがあるのではないでしょうか?「キリストの名によってよって洗礼を受けること」は「海の水が分かれ、右と左に壁のようになり、海の中に道が与えられて、渡ることができないはずの向こう岸に渡ることができた」ことと同じだということです。
私たちは罪深く弱い「罪の奴隷」のような者たちです。聖書全体が教えるように、罪深い私たちと「創造主であり、聖なる神」との間には大きな隔たりがあり、そのままでは「神のおられるところ」へ渡ってはいけないのが私たちです。
しかし!私たちのために橋渡しをして下さる方があります。それが「私たちを罪から救い出すために、人となってこの世に来てくださった神の独り子イエス・キリスト」です。このキリストの名によって洗礼を受けることにおいて、イスラエルの民があの葦の海の奇跡によって体験したのと同じように「本当なら渡ることのできないものを、神の力によって渡ることができる」のです。
洗礼は、立派な信仰者になった人が「箔をつける」ために受けるものではまったくありません。そうではなくて「罪深い自分が、それでも罪赦され、聖なる神の御許に渡ることができるようになるため」のものです。私も「洗礼を授かったことではじめて、神の御前に進み出ることが許される者となった」ことを今回改めて思わされました。
皆様も今一度、ご自分の心の中にある「汚さ、罪の奴隷のままが楽だったのに、という弱さ」を見つめ、「洗礼という奇跡の業とご自分との関係」を心に刻んでいただければ幸いです。(祈り・沈黙)
