6月15日 聖霊降臨節第2主日礼拝
「主の賜う休み、安らぎ」隅野徹牧師
聖書:マタイによる福音書 11:25~30
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今日は、日本基督教団の聖書日課で選ばれている箇所のなかからマタイによる福音書11章の25節から30節を選び、このところからみ言葉に聞きます。 まず最初に 先週の月曜日「ホーリネスの群中四国教師会に出席するために鳥取県の米子教会へいった」そのときのお話しをさせて下さい。
米子教会は鉄道の駅から離れているのですが、もっとも近い駅は「ゲゲゲの鬼太郎」のラッピングトレインが走るJR境港線の「富士見町駅」で、そこから1キロぐらい離れたところに教会があります。
ただその1キロの道のりが私にとっては「楽しみな歩き移動」でありました。実はその途中に気動車の修理点検を行う「JR西日本 後藤総合車両所」というのがあり、その中の様子を外側の道路から歩きながら見ることが出来るのでした。
そして米子教会に着いたとき、役員さんの何人かが出迎えてくれたのですが、お一人が「私が後藤車両所を見ながら歩いてきた」ということを聞いて、「隅野先生!鉄道ファンだったのですか!わたしは元国鉄職員なんですよ」と伝えて下さいました。
その方は、かなり前から顔見知りになっている男性役員さんでしたが、お互い真面目な「教会運営の話」ばかりしていて、鉄道関係で話が繋がるとは思ってもみませんでした。
今までより一層気心が知れるようになり、その方は「自分がどうしてクリスチャンになったのか」を話してくれました。
皆さんには、今のように「趣味のこと」や「出身地のこと」などで相手と打ち解けて、その後で「信仰の話や証しをするきっかけが生まれた」という経験はないでしょうか?
キリストの福音を宣べ伝えようとは思うが、何をきっかけに伝えたらよいのか分からない…という方も多いと思います。まずは、ありのままの自分を相手にお伝えしましょう。そこに「弁護者であり、助け主である聖霊の力」が働きます。その何気ない会話の中に「神・キリストの御心が働くようにしてくださる」と信じています。
さて…ここからが本題ですが、元国鉄職員の米子教会役員さんが、キリストに出会うキッカケとなったのが、今日の聖書箇所の中の28節の言葉だったそうです。
当時の国鉄は「親方日の丸体質」で、ずさんな運営がなされていて、不正もまかり通るような腐敗した状態だったことをご存じの方も多いと思います。そんな国鉄の中で「キリスト者として、しっかりと歩んでいこう」と祈りによって示された人たちによって「国鉄福音同志会」という任意の団体が設立されていたのだそうです。
この会の「聖書研究、祈祷会に誘われたこと」がキッカケで、先ほどの方の人生は大きく変わったそうです。
本来自分がやりたかったはずの「鉄道業務」よりも、泥沼化した労働組合の活動や、出世するために、上に媚びをうり「飲み会や麻雀などに付き合わねばならない」ことに心底疲れていた…そんなときに「疲れた者、重荷を負う者はだれでも私のもとに来なさい」というイエス・キリストの言葉が、すっと心の中に入ってきたそうです。
これからは出世のために媚びを売るような生き方はしない。一生平職員でもいい。キリストと軛をともにして「人のために、心を込めて働こう」という思いが与えられたのだそうです。 まさに「キリストとともに軛を負うことによって、真の平安を得られたのだ」と言われました。
このように「多くの人に教会へ来るキッカケを与える御言葉であるマタイ11章28節」ですが、誤解もされやすい箇所でもあります。
それは、「キリストのもとに来たなら、何もしないでダラっとできる」という誤解です。
キリストのくださる休みというのは29節、30節にあるように「キリストの軛をともに負うこと、キリストに学びながら、自分に与えられた務めを全うすること」です。
とくに「軛」は、二頭の家畜がバラバラに耕したりしないようにするために首のところにつける「仕事のための道具」です。だから、キリストが「わたしとともに、務めを果たしていこう」という招きがなされている上での「休息、心の平安」であることを抜かしてはならないと思います。
元国鉄の米子教会役員さんは、ここでキリストが語られた意味を正しく理解され、「国鉄JRでの大変な務めをしながら」そして「教会役員としても大変なご苦労をされながらも」キリストとともに歩まれたのです。
残りの時間、28節の一節だけが切り取られて語られることの多いこの箇所が、どういう流れで出ている箇所なのかを見ましょう。そのことによって、キリストが私たちに対し「共に負っていこう」とすすめてくださる「軛」について、そしてこれをともに負うことによってもたらされる「まことの平安について」知っていきたいと願います。
28節を深く理解するカギともいえるのが、その直前の25節26節です。
まず25節ですが、その冒頭に、「そのとき」とあります。これが何を指すのかというと20節以下出来事です。
何があったのかというと、イエスが福音を語り、数多くの奇跡の業が行われたのにガリラヤの町々の人たちの多くが悔い改めなかった、それをイエスはお叱りになったという出来事です。さらにその前の11章の冒頭部分には、「イエスの前に福音の道備えをするために現れた洗礼者ヨハネのことを人々が受け入れなかった」ことが語られています。
そして今回の箇所の直後の12章の1節からの部分では、当時人々から尊敬され、指導的立場にあった「ファリサイ派」の人々が、イエスの伝えられた福音を受け入れず、そればかりか敵対的な行動に出たことが記されています。
このように、神が人々を救うためにお遣わしになった救い主ご自身であるイエスのことを人々が受け入れようとしない、という現実が語られ、そのことへの応答としてイエスが語られた言葉が「25節以下のイエスの言葉だ」と見ることができるのではないでしょうか。
「ご自身の言葉やみ業が受け入れられず、敵対が深まっていく」状況にあったまさに「その時!」イエスが言われた最初の言葉が25節の「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」です。 暗い、現実の真っただ中におもえる「まさにその時」イエスは、天の父なる神をほめたたえ、賛美されたのですが、「父なる神を賛美する明確な理由」があったのです。
それが、次の言葉です。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」ということでした。
「これらのこと」というのは、イエスがそれまで語り続けられた「福音」です。つまり「神の恵みのご支配が今や到来しようとしている、だから悔い改めて神の方に向き直り、その恵みを受ける備えをせよ」というメッセージです。それが知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示された、そのことをイエスは賛美しておられるのです。
イエス・キリストの父なる神は、一体どのようにして「これらのこと」を、つまり「神の国の福音」を示されたのでしょうか?最後にそのことをお話ししてメッセージを閉じます。それは26節、27節に語られています。
【※ここは大切ですので、読んでみます】
「そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。
「すべてのことは、父からわたしに任せられています」と主イエスは言っておられます。イエスは、父なる神から、全権を委任されてこの世に来られたのです。そのご関係が、「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」という言葉に表れています。
このように御子キリストと父なる神とが一体であり、その委任された全権によって、父なる神を示して下さったのです。つまり、私たちが「全知全能の造り主である神を信じ、ほめたたえることができるようになるのは、神の子である主イエス・キリストによってのみなのだ」ということです。
全知全能の造り主である神が、その独り子を「弱い、一人間としてこの世におくられ、そのことによって、罪から救われ永遠の命を持つ希望がすべての人に与えられた」のが神の国の福音です。
この福音が、「知恵ある者や賢い者には隠された」が、「幼子のような、弱く無知な者に示された」ということが起っている、とイエスは言われたのです。
注目すべきことは「賢い者は信じることが出来ず、弱い者は信じることが出来た」とはいわれず、「賢い者には隠された、しかし弱い者には示された」と、神の側にすべての主権があるように言われていることです。
大切なのは、私たちが「この世で評価するところの賢さ」をすてて「幼子のように、助けを借りていく」そんな弱さをもって生きていくことではないでしょうか。
福音が伝わる、伝わらないも神の側の主権によるのです。私たちが「賢い者になることを追い求めるならば」福音は受けられない、それは動くことのない、いわば法則のようなものだとイエスはおっしゃいます。
しかし、私たちが、自分の力に頼って生きるではなく、神の助けを借りて生きる…弱い者となるなら、福音の恵みに生きるものとなるのです。
この流れを考えながら28節の言葉を理解するなら、イエスのもとに行って、共に軛をおわなければ本当の安らぎを得ることはできないということが教えられていることが迫ってくるのではないでしょうか。負っても負わなくてもどちらでもよい…ではないのです。
わたしたちの中には、「軛を負うのはごめんだ」という方があるかもしれません。務めを果たすのなんていやだ…。キリストを信じたら楽させてもらえるんじゃないのか…そんな思いもあるかもしれません。
しかし、キリストは「わたしの荷は軽い、負いやすい」と言って下さいます。なぜ負いやすいのでしょうか?それは、イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかってくださったことが何より証明しています。
私たちを愛するがゆえに「苦しみと死を実際に引き受けて下さった…」そのお方が、私たちに負えない重荷を負わせられるはずがない…わたしはそう信じています。
わたしたちはまず「自分の力、知識」で人生を進んでいこうとすることを止めましょう。それは「世の知恵ある者、賢い者」の歩みです。そうではなくて「弱い者、力なき者」であることを認めてイエス・キリストのもとに進み出ましょう。
そのとき、イエス・キリストはわたしたちに「負いやすい軛」を共に担わせてくださいます。わたしたちは、自分の重荷を共に負って下さる方と新たに歩むことによって本当の安らぎを与えられる、そのことを心に留めて今日からまた歩んでまいりましょう。(沈黙・黙祷)