「主よ、それはだれのことですか」3/13隅野徹牧師

  月13日 受難節第2主日礼拝
「主よ、それはだれのことですか」

隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書13:18~30


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 受難節に入った先週からしばらく「ヨハネによる福音書」の「十字架につながる場所から」メッセージを聞くことにしています。

先週、今週、来週と3回に分けて13章を読みます。抜かした箇所はイースター以後に改めて読むことにします。 先週読んだヨハネ13:1~17はイエスが弟子たちの足を洗われる有名な箇所でした。今週は「ユダの裏切り」について記されている箇所からメッセージを取り次がせていただきます。他の福音書よりもヨハネは詳しく「ユダが裏切った時のことを」描いているのですが、本当に今の世界状況に対しての大切なメッセージが示される箇所です。早速読んでまいりましょう。

 まず簡単にこの箇所のあらすじをお話しします。ヨハネ13章は過越の祭りの前日、つまり木曜日の夕方、弟子たちと食事をとられる場面なのですが、他の福音書が記している「聖餐の制定」の様子が出てきていません。食事が終わったあと「弟子たちの足を洗い始めた」ことから話が始まります。

先週お話しした通り、当時足を洗う務めは普通「奴隷がするもの」でしたが、イエスは12人全員の足を洗われたのです。その中には、この後でイエスを裏切るイスカリオテのユダも含まれていました。

人間の足が土ぼこりで汚れているように、人間の心もさまざまな罪で汚れている。だから、足を洗うように、心の汚れである罪も洗い落とさなければならないということ。そして、「心の中の汚れである罪は、ご自身の十字架の贖いの業によってのみ洗い落されるのだ」ということを、イエスは十字架で死なれる直前、「ユダを含む弟子たち全員の足を洗われることによって」教えられているのです。

この後、再び席につかれたイエスは弟子たちに大切なことを教えられます。それが14節、15節です「主であり、教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったのだ、あなたがたも、互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、模範を示したのである」

このようにイエス・キリストは、身をもって弟子たちに、「互いに足を洗い合う」よう、手本を示され17節で「そのことを実行することの幸い」が語られますます。 その流れで今回の箇所が始まります。

 今回の箇所のテーマは「ユダの裏切り」です。ヨハネ福音書は、他の福音書よりも詳しく「ユダがイエスを裏切り、イエスのもとから去っていった瞬間」を描いています。

 この「ユダの裏切り」ですが、これをどう捉えるかについて様々な議論があります。中には「ユダはイエス・キリストが十字架の業を成し遂げるために、神が選んで用いたのだ。ユダがいなければ十字架の業は完成しなかった」と捉えるものもあります。しかし…私はそうは捉えていません。

 マタイ、マルコ、ルカの各福音書には「ユダが、宗教指導者たちに、イエスを売る相談を持ち掛けた」場面が描かれています。しかし、これはあくまで私の意見ですが、そこでユダがイエスをお金で売り、その見返りとして手引きをした、その行為がなかったらから十字架につながらなかった…とは思いません。「なんとかイエスを逮捕したい、裁判にかけて処刑したい!」そのように執拗に狙っていた宗教指導者たちです。ユダがいなくても、同じことはしようとしたでしょう。

 このように私は、「ユダの役割が運命決定的なものではなかった」という立場に立ちます。むしろイエスは最後の最後まで「ユダを悔い改めに導こうと招いておられた」と理解しています。このことを前提にしてメッセージを取り次ぎます。

 順番を入れ替えて、まず21節から25節を読みます。

ここではイエスの「この中の内の一人が私を裏切ろうとしている」という言葉を聞いて皆が動揺したのだということが分かります。自分のことではないかと気にしたり、「一体誰がイエスを裏切るのか」を気にしたことが分かります。

ここから分かること、それは「弟子たちそれぞれが、秘密を隠し持ち、建前で生きていた」様子です。互いに心を開くことがないばかりか、イエスに対してもどこか心を開いていなかったことが表れていると伝統的に理解されてきました。どこかイエスの前に「後ろめたい思いを隠しもっていた…」だからこそ、「裏切るのはあなただ、と言われるのではないか」という胸騒ぎがしたのではないでしょうか。

28節から30節をご覧ください。ここでは、イエスがユダに向かって「しようとしていることを今すぐ、しなさい」と言われたその言葉を、他の弟子たちは「ユダは弟子を代表して大切な務めを成す」のだと勘違いしてとったことが分かります。他の弟子たちの目には、ユダが優等生に見えていたのでした。

私たちはどうでしょうか?うわべだけの交流をしていないでしょうか?教会が建前だけで生きる、そんな場所にならず、心と心が通う場所であることを切に願います。

もちろん、それぞれに人にはいえない「隠したもの」が心の奥底にあって当然だと思います。しかし、神・キリストの前で「ごまかしがなく、素直に悔い改められる」私たちでいたい!そう願います。

つづいて26節と27節をよみます。(※よむ)

 イエスはパン切れをユダに与えられました。聖餐式を想起させるこの行為ですが、実はこの当時のパレスチナでは「パンを割いて、相手に渡すこと」は、相手への特別な好意を表すものだったそうです。

 一見、冷たい言葉をかけておられるように見えますが、そうではありません。1節にあるように「弟子であるユダを最後まで愛し抜かれたイエス」は、彼の心の中をご存じで「心を騒がされ」ました。そして特別の好意を表す「パンを渡す」という行いを通して、ユダに最後まで悔い改めを促されました。「訴えにも似た愛の証し」がこの「一切れのパンを渡す」という行為なのです。

 先ほどお話ししたように、ユダはこの時「思いとどまろうとおもえば出来たはずだ」と私は考えます。僕となってユダの足を洗われ、特別な愛をこめてパン切れを渡されたイエス。それは「ユダに対し罪から救われてほしい」と願っておられたからに他なりません。

 それでもユダは、悪魔、サタンに身を委ねる方を選んでしまったのです。27節にある通りです。私たちは「ユダにならないように」気を付けるというよりも、むしろ!「最後の最後まで、私たち一人ひとりが罪や悪から救われることを願われる、イエスの愛」を強く!心に刻んでまいりましょう。

 最後に18節から20節を読みます。(※よむ)

この部分は「ユダの裏切りの予告」ということ以上に、イエスが!旧約聖書で預言されていた神から遣わされた救い主であることが示されているのです。

ただ弟子に裏切られる人なら歴史上沢山いたことでしょう。しかし、イエス・キリストはその「裏切られ、苦しみを受けられること」も含めて、すべて旧約聖書で約束された救い主であることがここで強調されているのです。

「弟子に裏切られるただの可哀そうな先生」なのではなく、「神が長い約束の末送られた真の救い主であること」を示し、そのことを信じ受け入れることの大切さが教えられるのです。

 特に大切なのが19節です。ここでは「事が起こる」という言葉が2回も出ます。「大事件のが起こる前」「大事件の時」という風な訳し方をしてもよいとおもいますが、そのような状況で!「わたしはある」という出エジプト記3章14節の有名な言葉を用いてイエスが宣言をされているのです。

何を宣言されたかというと、「裏切られるなど、人間の目から見て、悲惨な目に遭っても、私は神の子として確かにいる、いつも変わらずに存在する者なのだ。」そして「この私を、神が遣わした救い主だと信じ受け入れる者は、遣わした天の父なる神を信じ受け入れることになるのだ!」そう力強く宣言されたのです。          

 私たち人間はいつも人に裏切られ、そして自分自身も「人を裏切ってしまう弱い者」です。最近流れている戦乱のニュースにも、人の命を大切にするという人道的な常識が守られない、「裏切り」が溢れています。               

 「良心が少しだけ残っているのではないか」と期待した、その私達の思いが踏みにじられ「裏切られた!」と思った…そんなことが多いのではないでしょうか?

しかし!そんな裏切りによって悲しみ嘆きが行きかう時も、悪が支配していると感じるような時でも…それでもイエス・キリストは、目に見える現実を超えて「救い主として、いつも私たちと共にいて下さる」のです。

もちろん裏切りによってうまれる「戦争」のような事件だけではありません。大切な命が病によって苦しむ、心が非常に苦しむ…そんな「事が起こるときにも」神の子イエス・キリストは、永遠の命に導く救い主として、「わたしはある」お方として、私たちの傍にいて下さるのです。 そのことを忘れないで歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)

 

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