「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」1/30 隅野瞳牧師

  

  1月30日 降誕節第6主日礼拝
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」
隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書6:60~71


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 本日の箇所では主イエスの御言葉を聞いて、離れた者と留まった者がいたことが記されています。

 3つの点に目を留めて、神の言葉に耳を傾けましょう。 

1.聖霊によって、御言葉を命として受け取ることができる。(63節)

2.主イエスのもとに来ることができるのは、御父の恵みによる。(65節)

3.主から離れる弱さもご存じの上で、主は私たちを選んでくださる。(70節)

 

今日の聖書個所では、主イエスから多くの人々が去っていく様子が描かれています。しかし人々が去っていったことも記されていることに、むしろ、この福音書の真実さがうかがえます。

 本日の聖書個所の前の部分、6章前半では、主イエスによって五千人の人が、パンと魚で満腹にしてもらったことが語られました。人々は、この方こそローマ帝国の支配からイスラエルを解放してくださる王になる方だと期待して、主イエスを追いかけてきました。それらの人々に主はご自身が「天から降って来た命のパン」であり、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を得、終わりの日に復活させると語られました。しかし人々が欲していたのは、目の前の現実を満たすパンでした。主イエスの家族を知る人たちは、主が天から降ってこられた、つまりご自身を神とする発言につぶやき始め、ご自分の肉や血を食べさせるという言葉に激しい議論が始まりました。そして弟子と言われる人たちまでも、つまずいたのです。

 

1.聖霊によって、御言葉を命として受け取ることができる。(63節)

「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて行った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」」(60節) 

主イエスには私たちがよく知る十二弟子のほかに、たくさんの弟子たちがいました。その人たちは、主イエスがなさった癒しや素晴らしい教えに心動かされ、洗礼を受けて従っていたのです(4:1)。主が奇跡的な力によって目に見える形で、神の国を到来させてくださると彼らは期待していました。ところが主イエスがこのパンの話をされた時、彼らも主から離れて行きました。新たに起こった不信感というより、最初から主イエスを誤解していたといえます。

弟子たちがひどい話だと感じたのは、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」という言葉です。これは私たちの罪を担い、身代わりとなって死んでくださるために、神が御子をこの世にお与えになったことを表していました。聖霊によって心が開かれていない人は、耳ざわりのよい話をしている間は喜んで聞いていますが、罪、信仰、永遠の命について話し始めると、離れ去ってしまうのです。

もし主イエスが「奇跡によってパンを出してあげよう」「すぐにローマ人の手から救ってあげよう」と言ったなら、誰もつまずかなかったでしょう。しかし主イエスはあくまでも、御自身の十字架を通して永遠の命をお与えになるという、ただ一点のために来られたのです(Ⅰコリ2:1~2,Ⅱテモ4:1~5)。主イエスを信じるということは、キリストそのものを、すべていただくことです。それ以外に言い表せないあり方で、私たちは主の命をいただくことによって主とともに生き、変えられ続けて歩むのです。

自分にとってプラスになりそうな、わかりやすい御言葉だけを聞き、心がえぐられるところやわからないところは飛ばしてしまうならば、それは御言葉を「ひどい話だ」と評した人たちと同じ姿勢です。そうではなく、命の言葉でありパンである主をすべて感謝していただき、変えられた私たちを通して、人々が主イエスを知ることができるよう願います。

 「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば…。」(61~62節) 

弟子たちをご覧になった主のお言葉は、途中で終わっています。おそらくは「なおさらつまずくことになるだろう」と続けたかったのでしょう。その先にはもっと大きなつまずき、主イエスの十字架にかけられる姿が待っているからです。「人の子がもといた所に上る」というのは天に帰るということです。「上る」というのは、ヨハネによる福音書では十字架に上げられることも指します。それは死だけではなくて、栄光のうちに主イエスが父のもとに上げられることを意味します。十字架、復活、昇天によって、御子は天への道、父の御もとに行く道を私たちに開いてくださったのです。

続けて主は言われました。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(63節)

聖書は体の命とは別に、私たちがまことに生きるための、神につながった命があることを記します。それが「永遠の命」であり、聖霊のお働きとして与えられます。「“霊”」とは「聖霊」のことです。また「肉」というのは目に見えるこの世界に属するもの、人間的な力や考えを指しています。主が「朽ちるパン」と呼ばれ、人々がひたすら追い求めているもの、それが「肉」です。しかし「肉」は本当の意味で命を与えることはありません。自分の理解力に頼って従っていった弟子たちは、まさにそれゆえに主のもとから去っていってしまいました。しかし聞く者の心に聖霊が働くと、御言葉が霊的に理解できます。そこに命の神との交わりが与えられます。

主イエスの周りには、常に生活に困窮した人たちがいました。人間に肉なるものがどれほど必要であるか、主はよくご存じでした。しかし主は、死によってさえ奪われることのない永遠の命をどうしても与えたくて、このように言われたのです。主は「わたしが命のパンである」と言われました。命のパンとは主イエスがもっておられる教えとか、御力とか、そういった一部のものを指すのではなく、主イエスという人格的な存在そのものが、命のパンであるということなのです。パンが与えられるような目に見えるしるしを、神は日常の中に示してくださっています。そのしるしを通して主ご自身に出会い、主の内に私たちがおり、主が私たちの内にいてくださるようになることを、主は望んでおられます(6:56)。それが永遠の命です。

 

2.主イエスのもとに来ることができるのは、御父の恵みによる。(65節)

「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。…弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(65~66節)

 これは教会の現実です。ヨハネ福音書の著者や読者が直面していた教会の現実は決して順風満帆ではありませんでした。少しずつ増えたと思ったら、大迫害に遭いガタッと減る。教会が常に「霊的な言葉」「いのちの言葉」を語り続けるならば、数的には増えないことが多いのです。来会者や救われる方が起こされることは、教会の喜びです。けれども私たちは、数に一喜一憂しない姿勢も大切であることを教えられます。人が増えることそのものに価値を置くと、増えればおごりが生まれ、減った時には責め合いが起こるからです。主ご自身の伝道でさえ人が減ったことがあるという事実に目を留めましょう。

私はなぜ人が増えてほしいと思っているのか、目の前の一人に愛を注ぐことを忘れていないだろうか。振り返ってみる時に、主から今離れてしまっている方のために、最も傷つき苦しんでくださっている主が見えるのです。主と心ひとつに、祈ろうではありませんか。私たちも数えきれないほど主から離れてきました。それにもかかわらず、主は汚れた私を捜し、いつでも帰ってきなさいと待ち続け、何度でも御腕に迎えてくださいました。父に先に迎えられた者として、すべての人が父なる神の愛に帰ることができますように祈り仕えてまいりましょう。「独り子を信じる者が一人も滅びないで」とは、すぐ答えが現れるこの世の数の計算ではなくて、何千年の歴史を見通す神のご計画であることを覚えたいと思います。

「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。」との御言葉に、心配する方がおられるかもしれません。自分は表面的なクリスチャンで、いつか主から離れていくのではないか。しかしこの御言葉は、救いはまったく主によるのであって、自分の功績にはよらないということを意味します。それは私たちを平安にする恵みです。自分で好きで信じたのであれば、嫌になったら止めることもできるわけです。けれどもどんなことがあっても主を信じることができるのは、神がお許しくださったからです。何があっても、主が握っていてくださいます。ここに、私たちの信仰と救いの確かさがあります。

 

3.主から離れる弱さもご存じの上で、主は私たちを選んでくださる。(70節)

 人となられた御子イエス・キリスト。そのご生涯、特に十字架と復活の証人として選ばれた十二弟子は、広い意味の弟子とは立場が違います。十二弟子は主とともに生活し、深い交わりの中で育てられてきました。

この福音書が書かれた紀元1世紀末頃のヨハネの教会は、イエスは主であると告白する者が迫害され、生きることに困難を覚えた時代です。多くの弟子たちが教会から離れて行ったことが本日の箇所に重ねられていると言われます。深い痛みをもって書き記されたに違いありません。しかし、そのような時代であったからこそ、主イエスの言葉も強く迫ってきたことでしょう。弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった時、イエス様は十二弟子にこう言われました。「あなたがたも離れていきたいか」(67節)これは徹底的に弟子たちの自由な決断を認めておられるとともに、「いや、あなたがたは去って行かない。きっと留まるはずだ」という信頼を表す語りかけです。

 その言葉に対して、シモン・ペトロは弟子たちを代表して信仰を告白しました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(68~69節) 

すべての命を創造し生かす神の言なる御子が、人となられたことが、1章で語られていました。神はイエス・キリストを通し、私たちに一切の罪の赦しと永遠の命を約束し、私たちの全てをもって神に従う恵みをお示しくださいました。主イエスはお語りになったとおりに、私たちを悔い改めと罪の赦しに導くために十字架でその身を裂かれ、復活の命に共にあずからせてくださいました。主イエスは私たちが神のもとに帰り、神と共に永遠に生きる御言葉を持っておられる方、救いの御業のために聖別されたお方です。

そのような方、私の救い主として主イエスを信じる時…その信仰は聖霊が御言葉を通してお与えになるのですが…、罪に支配されていた自分ではなく、キリストが私の内に生きてくださいます。永遠の命を受け新しく生まれた人は御言葉をもっと知りたい、伝えたい。主に心から従い、隣人を愛したいと思うようになります。私たちが救われているかどうかは、洗礼を受けているかとか、どれだけ教会に来ているかで決まるのではありません。

ペトロの信仰は、この時点では未熟なものだったでしょう。しかし彼は、そして私たちは生涯この主の問を聞き、このように応答し続けていくのでしょう。主がお選びくださったから、私たちは主のもとに、その恵みの御言葉のもとに何度でも立ち帰ることが許されているのです。私たちは何と応えるでしょうか。主はここにいる私たちにも「あなたがたはわたしの言葉に留まるはずだ」と信頼して永遠の命の御言葉を語っていてくださいます。ペトロと共に、主イエスこそ救い主であるとの信仰を告白させていただきましょう。

 さてペトロの言葉に対して、主イエスは驚くべきことをおっしゃいました。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」(70節)悪魔とは、やがて主イエスをユダヤ人宗教指導者たちに引き渡す、十二弟子の一人イスカリオテのユダを指しています。ユダはすでに心の中で、主イエスをユダヤ人宗教指導者たちの手に引き渡そうとしていました。「裏切る」は、ユダが特別に悪い人間だという非難が含まれた訳し方だと思いますので、当時普通に使われていた「引き渡す」という訳を用いたいと思います。主はご自分をやがて十字架へと引き渡す者をも、弟子として選んでくださっていたのです。

マタイ16:21~では、ペトロが本日の箇所のような信仰告白をしたすぐ後で、「サタン、引き下がれ」と主より叱責されています。十字架の道を進もうとされる主に、「そんなことがあってはなりません」と止めさせようとしたからです。ペトロは十字架がいざ現実になると主との関係を三度否定し、他の弟子たちも逃げ去ってしまいます。主を十字架につけ、救いの御心から離れ去る危険は、信じる私たちすべての中にもあることを、この主のお言葉を通して覚えたいのです。

けれども主はすべてご存じの上でなお、弟子たちそして私たちを愛し抜かれます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)

私たちが何かを選ぶ時には、優れていたり好ましいから選ぶものですが、神の選びは全く違います。神は無力な者をお選びくださいます(Ⅰコリ1:27)。その選びには、私たちが主から離れることも赦しも含まれています。そのような無条件の愛こそが、私たちが自発的に信頼に応えるように促します(参考:ローマ9章、11:11~36イスラエルの選び)。ユダが自発的に悔い改めることを願いつつも、引き渡すならばそれでも構わないという考えです。

 神が私たちを選んでくださったというのは、父のお許しがあって初めて主イエスのもとに行くことができるということと重なります。私たちの救いは自分という不確かなものによるのではなく、ただ神の憐れみと恵みによります。選びとは私たちが振り返った時に、「すべては神の恵みだった。今もそしてこれからも、主は私の救いを支え、完成に導いてくださる」と、感謝をもってこの恵みに留まり続ける思いを新たにさせるものです。神に選ばれ招かれたからこそ、私たちは今ここに集い御言葉にあずかっています。変わることのない救いの御手に支えられて、「主よ、わたしたちはあなたのもとに参ります。」とお応えしてまいりましょう。

 

≪説教をPDFで参照、印刷できます≫

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