3月20日 受難節第3主日礼拝
「互いに愛し合うならば…」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書13:31~38
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今年の受難節主日礼拝では、ヨハネによる福音書の「十字架」につながる箇所から御言葉を味わっています。2週前からヨハネによる福音書13章を読んでいます。2週前は「イエスが弟子の足を洗われる場面」を中心に、先週は「ユダが裏切る場面」を中心に見ました。本日はその続きの31節からです。今回も「ただ神の子イエスの十字架の苦しみ」だけでなく「今の世界情勢の中にあっての大切なメッセージ」が語られています。早速読み進めてまいりましょう。
この箇所は展開が分かりにくいです。ですので「あらすじ」を見てまいりましょう。まず31節と32節をご覧ください。
イエスが最後の最後まで悔い改めに導こうとしたその愛にもかかわらず、ユダはイエスのもとを去って行きました。それを受けてイエスの十字架の死への歩みが「今や!具体的に!」始まりました。だから「今や私は栄光を受けた」とイエスはおっしゃったのです。
さらに「イエスご自身の十字架と復活」によって「父である神も栄光をお受けになった」、併せて「父なる神が人の子主イエスに栄光をお与えになる、しかも、すぐにお与えになる」と教えられています。この「すぐに」は、十字架にかかって死なれるイエスを、父なる神が「すぐに!三日目に!」復活させて下さることを表されているのだと理解できます。つまりユダの裏切りによってイエスの十字架の死だけでなく「復活の業」も「すぐ先」のこととして迫ってきているのです。
つづいて33節~35節です。この節は今回の中心ですので後程深く掘り下げますが、ここだけ見ると意味が分かりにくいです。
弟子たちがイエスを捜そうとする、しかしイエスが行く所に弟子たちは来ることができない、そのように告げられた後、34節、35節で「互いに愛し合いなさい」という教えを告げられます。なんだか「つながりが分かりにくい」と思ってしまいますが、実は非常に大切なことが教えられているのです。
つづいて36節から38節です。ここをご覧ください。
大体ここでは、シモン・ペトロが「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。私は何があっても着いていきます」ということを言ったのに対してイエスは、「あなたは私について来ることはできない、むしろ、自分を守るために、私のことを三度知らないと言う」と答えられる、そんな内容が記されています。
しかし!今日のメッセージを理解するうえで鍵となる言葉があります。それは36節後半のイエスの言葉です。
「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後で、ついて来ることになる」
このイエスが仰る「わたしの行く所」とはいったいどこでしょうか?この言葉は33節にもでます。十字架に掛かることをご自分で理解されているイエスがおっしゃる「わたしの行く所」、しかも「弟子たちが行くことのできない場所」とはいったいどこなのでしょうか?
「陰府」いわゆる「地獄」ではありません。ペトロも後でついて来ることになる」とあるので、そうではないことが分かります。
では「十字架」なのでしょうか?ペトロも最後は十字架で処刑されたという伝説が残っていることから、34節は「ペトロがどんな殉教の死を遂げるのか、その預言なのだ」ととる人もいますが、私はそう取りません。
では私は「イエスがこの後行かれる場所」をどう捉えているかというと…それは「究極の愛の世界」と捉えます。つまりイエスは「十字架に向かうことは、愛しかない場所に向かうことである」ということを象徴的に表されたと私は理解すのです。
だからこそ十字架と復活によって救いの業が完成する前、弟子たちは「わたしの行く所にあなたは行くことができない」と告げられたのです。また36節でペトロにも「今ついて来ることはできない」と告げられるのです。
自分の力に頼っている限り、入ることができないのが「究極の愛の世界」です。しかし、この後「イエスの愛の力によって変えられたペトロ」が「入ることができるようになる場所」、それが「究極の愛の世界」だと私は今回強く迫ってきました。
33節に語られているように、「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」という言葉は、すでにイエスが「ユダヤ人たちに対して」仰ったものです。今日は開きませんが7章33節や8章21節に出てきます。イエスを憎んでいる「ユダヤ人指導者たち」は「イエスが行かれる場所に行くことができない」と繰り返し教えられます。そして今回この箇所で、イエスは「互いに争っている弟子たち」に対して、そして「自分が一番弟子だ!自分は強いんだ!」という思いがみなぎっている自信家のペトロに対して、「私が今から行こうとする場所には今いくことができない」と告げられるのです。しかし!後でついてくることができるのだ、とも語られるのです。
このように「イエスがこの後行かれる場所」とは、「憎しみ合ったり、争ったり、自我が捨てられない者が行くことのできない場所」であることがはっきりとお分かりになったのではないでしょうか?
イエスがこの後行かれる十字架。この「イエス・キリストの十字架こそ!」無に至るまで与えつくす本当の愛が示された、究極の場所なのです。人間の目で見れば、ただ惨たらしい処刑の場にすぎない十字架ですけれども、霊の目でみるなら、そこは「徹底的にご自分を与えつくされた、究極の愛が示された場所」なのであります。
そのようにして十字架に掛かることによって究極の愛を私たちに示してくださったイエス・キリストは、私たちに対して「新しい掟」を与えて下さっています。それが34節、35節です。この2節は「非常に大切」ですので、お読みいたします。
主イエスの十字架と復活による救いにあずかることによって私たちには、新しい生き方が与えられるのです。それは「互いに愛し合う」という生き方です。裏切ることが分かっているユダでさえも「この上なく愛し抜かれた」イエス・キリストは、私たち一人ひとりも「この上なく愛し抜いてくださる」お方です。十字架には「ご自分の命を与えるほどに愛して下さった」その愛が溢れています。同じように互いに愛し合うことが、主イエスの弟子、そして私たちに教えられる「新しい生き方」なのです。
そして35節に語られていることをとくに大切なこととして今日皆様にお伝えします。私たちがまず「互いに愛し合うこと」によって「私たちが主イエスの弟子であることを世の人々が知るようになる」つまり「キリストの証し人」となるということです。このことを神は求めておられるのです。
ウクライナでの戦争。私たちは毎日やるせない思いで報道に接しています。「祈ることしかできない」とよく言います。しかし、大切な祈ることとともに、できることがあると思います。それが、まず「身近な人同士で愛し合う」ということだと、今回聖書から強く示されました。
具体的には、「キリストがご自分をささげつくされたような愛で、家族を愛し、教会の仲間を愛しつくす」ということです。家族といがみ合ったりしていて、あるいは教会の中で「争い、不和があるのに」、どんなに平和の大切さを訴えても、それは空しいのではないでしょうか。
家族や教会の仲間と愛し合うことは、簡単なことではなく難しいことです。しかし!自分の力ではなく、私たち一人ひとりを愛し尽くしてくださるキリストの力により頼みましょう。
簡単ではありませんが、キリストの愛に基づいて家族の不安や悩みに寄り添い、教会の仲間の悩みや不安に寄り添う、実際に助ける…そのことは、各家庭の外側、この教会の外側におられる方々に必ず波及します。たとえ大河の一滴に思えても、「その根底にあるキリストの愛を、戦争で揺れるこの世に伝えることになるのだ」と私は信じます。
「敵は倒さねばならない」という「やられる前に、やられないための準備をしなければない」など、愛が失われている考え方が蔓延している今のこの社会。だからこそ私たちは今日示されたキリストの教えをしっかりと胸に刻みましょう。
イエスが十字架の死と復活によって私たちを徹底的に愛し抜いて下さったことを覚えましょう。罪深い私は自分の力だけで人を愛し抜くことはできません。しかし、祈りつつ、聖霊に満たされ「身近な方と互いに愛し合って生きる」ことをしていきましょう。その姿を神、キリストが用いて下さり、平和のために用いて下さることを信じ歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)
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