3月30日 受難節第4主日礼拝
「人々が御業をほめたたえられるように」隅野徹牧師
聖書:詩編 145:1~13
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少し前の3月22日土曜日、ボクシングのヘビー級の元王者だった、アメリカの「ジョージ・フォアマン」さんが76歳で亡くなった、というニュースが入ってきました。 このジョージ・フォアマンさんは、モハメド・アリとの伝説的な王座決定戦があまりにも有名ですが、その少し後から「牧師」として、イエス・キリストの福音を伝える仕事をしていたことも、報じられていましたが、皆さんはご存じだったでしょうか?
私が、ジョージ・フォアマンを知ったのは大学2年生のとき。洗礼を受けて少し経ったころでしたが、牧師をしながらもう一度ボクサーに戻り、世界王者に返り咲いたときの様子を「NHKのドキュメント番組」で見た時ですが、大きな衝撃を受けたのを覚えています。無敵のヘビー級チャンピオンが、なぜ牧師なんだ?…と。
大学生であったそのころの私は、洗礼こそ受けていましたが、牧師になるつもりは全くありませんでした。その後、旅行会社での6年の勤務を経て「牧師の道に進む」ことになったのですが、洗礼を受けた頃は、信徒として教会を支えることしか本当に考えていなかったのです。
いまでも、出会った多くの人から「隅野さんは、なぜ牧師になろうと思ったのですか?」という質問をうけます。なかなか一言では答えられない質問です。なぜなら何年もかかって、いろんなことを考え、経験するなど紆余曲折を経ながら「その道を目指そう」という思いに導かれたからです。
地味で苦労も多く、経済的にも大変な牧師になどなりたくない…そう思っていた私が、それでも「牧師を目指すことを考え、祈る」ようになった要因の一つが、社会人になりたての頃じっくりと読んだ「ジョージ・フォアマンの自伝 敗れざる者」だったのです。
きょうの礼拝メッセージは、はじめて教会に来られたという方もおられますので、聖書日課として選ばれている、旧約聖書、詩編145編の言葉を「ジョージ・フォアマンさんの生涯」と重ねながら、簡潔に語ろうと思います。
ともに聖書のことばを味わってまいりましょう。
先程、礼拝の中で「主の祈り」という、イエス・キリストが私たちに対し「祈る時は、このように祈りなさい」と教えられたものを共に祈りました。
この「主の祈り」ですが、新約聖書ルカによる福音書の11章に実際にでてくる「イエスの言葉」を基にした祈りであり、約2千年の間、世界中のキリスト教会が伝統的に大切にしてきた祈りなのです。
その「主の祈り」ですが、イエス・キリストがこの世にお生まれになる前に書かれた「旧約聖書の中に出て来る祈りの言葉」が基になっていると言われます。それが今日の箇所の詩編145編だといわれています。
いま旧約聖書のP985をお開けいただいているでしょうか?
世界中の教会にとって「もっともポピュラーな祈り」となっている「主の祈り」のもととなっている詩編145編について「ポイントをしぼり」読み解いてまいりましょう。
1節から2節をご覧ください。 ここでは「神を神として崇める」いのりが成されています。そして10節から13節、ここでは「神の前に、すべての人が遜りますように」という祈りが成されています。
主の祈りでは、最初に「御名をあがめさせたまえ、御国をきたらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りがきますが、これも「地に住むすべての人が、神の前に遜ることが出来ますように」という祈りなのです。
今の時代は、技術革新が進み、いろいろなことで「昔では絶対に無理だと考えられていたことが、できる」ようになってきました。便利な世の中ですが、その一方「人間が何でもできる、分かる」と勘違いしやすくなってきたのが今の世だと感じます。
その影響も確実にあると思います。人の命を軽んじる悪い行いが世界に満ちあふれています。10節の「造られたものがすべて」という言葉に表れているように、聖書は、この世に存在するすべての命が「神によって造られたものだ」と教えます。
その造り主である神が悲しまれるような、行いがこの地に溢れています。だからこそ「すべての人が、神に与えられた自分の命、他者の存在に感謝することができるように」そして「天国で神の御心がなり、神の統治がなされているように、悪に満ちたこの地上で、少しでも神の御心がなされていくように」と祈ってまいりましょう。
つづいて注目するのは14節~16節です。(ご覧ください)
主なる神は倒れようとする人の一人一人を支え、食べ物をはじめとして「必要なものをお与えくださる」という信仰告白をし、「そのとおり、多くの苦しんでいる人々に、食べ物など、生きていくのに必要なものがいきわたりますように」との祈りが成されているのです。
主の祈りでも「我らの日用の糧を今日も与え給え」という祈りを祈りました。
わたしにではなく「われらに」というところがミソです。自分だけ豊かになって食べるのに困らなければよい、という考えに立つのではないのです。
今日わたしに食べ物があることを望むと同時に、世界のすべての人々に、とくに戦争や災害で苦しんでいる人たちに「必要な糧が与えられるように」祈り願うことを聖書は教えているのです。
今日、山口信愛教会では「桜バザー」をいたしますが、売り上げは「国際飢餓対策機構」を通して、能登地方の復興支援のための献金としておささげします。
多くの教会、キリスト教主義学校などが「こういったチャリティー活動」を大切にしていますが、これは聖書、イエス・キリストの教えから来ていることを心に刻んでいただいたら感謝です。
このように「神の前に、自分だけでなく、困っている誰かが食べ物を与えられるように」と祈ることで、私たちは感謝の心をもって毎日を歩むことが出来ると信じています。
格差社会で貧富の差が広がっている「この世界」ですが、謙虚に歩んでまいりましょう。 今日も食べ物があることを「当たり前のこと」と捉えず、命が与えられていること、健康など、食べるために必要なことも「与えていただいている」ことを忘れず、神に感謝してまいりましょう。
最後に17節から21節に注目しましょう。ここが「今日、とくに注目している、ジョージ・フォアマンのボクサーから牧師への転身」とつながる部分ですので、とくに強調してお語りしたいと思います。 【※ここを読んでみます】
厳しいことばが並んでいるように感じられるかもしれません。これは聖書が証しする神が「悪を放置されるかたではない」ことの表れです。
私たち人間は皆、例外なく罪をもっています。神の目から見て「罪や悪のない人」はどこにもいません。私も牧師ですが、罪人の一人です。
しかし、そんな罪人のわたしたちを、それでも神は見捨てず、救われる道を与えて下さるのです。「主を畏れる人々の望みをかなえ、叫びを聞いて救ってくださいます」とある通りです。
それは、神の独り子イエス・キリストが「私たちの身代わりとなって、十字架にかかり私たちの罪の身代わり」となったことによって成し遂げられたのです。そして3週後のイースター・復活祭でそのことをとくに「喜び祝う」のですが、私たちの罪を背負って死んで下さった神の子イエス・キリストは「死の力を打ち破って復活してくださった」ことによって、イエスを救い主として信じる者すべてが「同じように復活の命に与ることが出来る」道が開かれたのです。
これをキリスト教会では「福音・よろこばしき知らせ」として、まだキリストを知らない世の人々にお伝えすることを使命にしています。
1977年、モハメドアリとの世紀の一戦の前、ジョージ・フォアマンに対して、「イエス・キリストの福音を伝えようとしていた牧師がいました。世界チャンピオンでありながら、私生活でも数々の問題を起こし、人を殴り倒すことに注力していたジョージ・フォアマンに聖書を渡し、「あなたの罪を、イエス・キリストが身代わりになることで救って下さったのだ」と説いたのです。
フォアマンはアリとのチャンピオン戦に敗れたあたりから、少しずつ、神の存在を意識するようになったようです。その後、チャンピオン返り咲きを目指し、プエルトリコで「ジミーヤング」と戦ったフォアマンは、判定負けをした試合後倒れこみ気を失ったのですが、そこで神秘的体験をするのです。
その後、聖書を詳しく読み始めた彼が「そっくりだ」と証言しましたが、それはもともとキリストを迫害していた使徒パウロが、ダマスコで倒れ「キリスト自身の声を聞き」、全く逆の人生をスタートさせた、「いわゆるダマスコの回心」と同じことがフォアマンに起こったのです。
キリストに出会うという神秘的体験をしたフォアマンは、凶暴で愛のない世界から抜けて「神の愛のもとで生きたい」と決心するにいたったのです。
キリストに出会って生まれ変わったのでプロボクサーを引退すると宣言したフォアマンをマスコミやファンは、変人扱いしました。それでも、教会に集う人たちは、彼の体験を「キリストが罪から救い出すために、直接あってくださったのだ」といって喜び、祝福したのです。そして彼はキリストの名によって洗礼を受けたのです。
フォアマンは、富や名声がどうでもよいと思うようになり、教会の仲間と共に生き始めるようになったのです。困っている人がいたら一人間として助ける。そして他の信徒たちと同じように「自分の教会や街中で、自分を罪から救い出してくれたイエス・キリストについて、力強く証言、証しをする」ようになりました。
彼の180度の回心の証言は、多くの人を引き付けるようになったこともあり、彼は聖書の勉強をさらに深め、牧師になる道を進んだのです。
特に、非行に走った青少年にキリストの福音を伝え、「更生させる」ことに大きな力を発揮したのです。そのために「ジョージ・フォアマンユースセンター」という更生施設を造ったのです。そこの運営資金を得るために、もういちどリングにあがることを祈りのうちに示されたのです。
復帰後は「人を殴れなくなっていたフォアマン」ですが、ひたすら相手のパンチを受け止め少ない数のカウンターパンチで相手を敗る、以前とは全く違うスタイルのボクシングで勝ち上がり、そして45歳のとき、史上最年長でヘビー級王者に返り咲いたのです。
私がジョージ・フォアマンという人を初めて知ったのがちょうどこの頃です。その後、フォアマンの動向に注目するようになったのですが、公言通りファイトマネーを「ジョージ・フォアマンユースセンター」の運営のために全てつぎ込んだこと、その施設によって多くの非行少年が救われたことを知り、感動したのを思い出します。
そして、目的を達成したフォアマンは、チャンピオンベルトを守ることに全く固執せず、再び引退を宣言。牧師としてすぐに教会の働きに戻ったのです。
私は彼を見て「人前で語ることが牧師の仕事なのではなく、神を愛し、人を愛するのが仕事なのだ」ということ、とくに「困っている人を助けるために、自分にできることを祈りつつ成そうとするのが牧師だ」ということに気づかせていただきました。それで、私も僭越ながら同じ道を進むことになりました。今は天に凱旋したジョージ・フォアマンを通して大切なことを学べたことに感謝します。
「自ら痛みを負い、十字架にかかってくださった神の子イエス・キリスト」はジョージ・フォアマンにとともにいて、彼の人生を導いてくださったように、皆さんひとりひとりにも同じことをしてくださいます。 どうぞ、そのお方キリストの愛を感じながら歩んでいただくことを望みます。 (祈り・沈黙)