「人の罪によって十字架につけられ復活された方」3/31 隅野徹牧師


  3月31日 復活節第1主日礼拝・イースター礼拝
「人の罪によって十字架につけられ復活された方」隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書 24:1~12

 

 

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 今日はイースターです。イースターは世界中で「喜びの日」としてお祝いされますが、その理由とは…国籍・人種を超えて「すべての人を救うために」人間となってこの世に来てくださったイエス・キリストが、すべての人間の罪をあがなうために十字架にかかって死なれた後、その死の力をうちやぶってくださって、復活してくださった、そのことを「自分のこととして喜び祝う」からです。

今日はこの後に「洗礼式」があります。洗礼式は、一年中の「どこの日に受けるのが相応しい」ということはなく、どの日に行っても大変大きな喜びなのですが、しかし、「イースターに洗礼式が行われること」は、受ける人にとっても、立ち会う人々にとっても「特別に大きな心の迫りが与えられる」と私は確信しています。

イエス・キリストの名による洗礼は、授かる人が「肉体的という意味ではなく、霊的な意味で一旦罪に死ぬ、しかしその後キリストの復活の命をいただき、新しく生まれるのだ」と聖書は教えるのです。

2週前の説教でお話ししたとおり、「キリストと共に葬られ、キリストと共に復活する」という事が洗礼において起こるということです。

「キリストと共に死に、共に生きる」ことは、考えて分かることでないので、体で体験する以外にない、だから、神は「水を用いた洗礼」を私たちに授けてくださり、「古い自分が死んだ後、キリストが引き上げてくださり、生き返らせてくださる。そのことによって新しく生きることができる」ことを体験させてくださるのです。

まさに今日、一人の姉妹が「復活の命に与られるのだ」ということを、皆様一人ひとりも「喜びの出来事として」心に刻んでいただけたら幸いです。

洗礼式が行われる、今日の礼拝で味わう聖書箇所は「イエス・キリストが復活された」ことを天使すなわち御使いが告げる場所です。イエス・キリストがもたらしてくださった「復活の命」が、私たち一人ひとりとどうつながってくるかを分っていただいたら幸いです。

皆様、今日の新約聖書の箇所をお開きでしょうか?

「イエス・キリストが復活された」ことを天使が告げた相手は誰かというと、「婦人たち」で、10節には何人かの名前が具体的に出ています。

今日は、弟子たちではなく「婦人たちにしぼって」御言葉を味わいます。この婦人たちは「イエスの墓の前で」復活を告げ知らされます。 そのとき、どのような思いで「墓にいたのか」そこから、見てまいりたいと願います。

イエスは金曜日の午後3時ごろ、十字架の上で息を引き取られました。その遺体をアリマタヤのヨセフという「議員」が引き取りたいと願って、自分が所有する「まだ誰も葬っていないお墓」に急いで埋葬しました。土曜日は安息日であり、すべての労働を止めなければならず、葬りもしてはいけない決まりになっていたからです。

その埋葬の様子を見ていたのが、23章55節に記されている通り、「ガリラヤ地方からずっとイエスに従って着いてきていた婦人たち」でした。

今お話ししたように、土曜日は安息日のため、ほとんどの作業ができません。だから56節後半にあるように「香料と香油を準備して休んだ」のです。「くつろいで休んだ」のではありません。「日曜日になったらお体が傷まないように薬を塗って差し上げよう…」婦人たちはそのことだけを考えて過ごしたのではないでしょうか。

彼女たちの心には、愛する主イエスの死に対する深い嘆きと絶望があったことでしょう。安息日があけたらすぐに香料と香油を持って主のお墓に行き、お体を改めて丁重に葬る。その予定だけが、彼女らの心の唯一の支えだったのだろうと思います。

しかし絶望の淵にあったこの女性たちが、主イエス・キリストの復活の証人になるのです。今回の聖書箇所は「絶望の先にあった希望」として主の復活を描いているのです。

2~3節をご覧ください。墓をふさいでいた石が横に転がされていて、イエスのお体は見当たらなかったのです。その光景をみて婦人たちがどう感じたでしょうか… 想像してみましょう。

愛する主イエスのお体に薬を塗り丁寧に葬りたい…それしか考えられなかった婦人たちが、空になったお墓を見た時の気持ち…。4節の途方に暮れているというのは、言葉以上の状態を表しているのです。

 

しかし!5節そこに神のみ使いが現れます。そして6~7節のことを伝えます。

5~8節が今回の箇所の中心で、大切なことがいくつも示される箇所ですが…

洗礼式が行われる今日…私の心に迫ってきた大切なことを一つだけお分かちします。

それは、婦人たちが、天使・み使いを通して「どんな約束の言葉を思い出したのか」ということです。それが説教題につけたように「人の罪によって十字架につけられた神の御子が復活されたのだ」という約束です。

7節を注意深くご覧ください。

よく見ると「イエスの復活だけが約束されているだけではない」ということに気づいていただけると思います。

そうではなくて「罪人たちの手に渡され、十字架につけられる」ことがあったうえでの「主の復活」であることが示されているのです。

イエスは、逮捕される前に弟子達や婦人たちに数度「ご自分がこのあとどうなるか」を前もって伝えられています。

それはすべて「人間の罪のために殺される」ことと「死で終わらず復活される」ということがセットで約束されています。つまり「復活の約束は、人間の罪がもたらす十字架の死と切り離されないで約束されていた」のです。

私は思いました…婦人たちがイエス・キリストから直々に教えられた「復活の約束」。それを悲しみと絶望の中で思い出すことができたのは「自分を含むすべての人間の罪の身代わりとなって死なれたのだ」ということが心で理解できたからではないか…

つまり! 「ただ世の悪者たちによって無残にも処刑されてしまった」と被害者的に悲しみ嘆くのではなく、婦人たちが「処刑にかかわった人たちだけでなく、自分にも罪がある。そんな自分をも罪から救い出すために、イエスは十字架にかかって死なれた。しかし死の力に勝利されて復活されたのだ」ということが分かって初めて、「復活が何のためなのか」「自分にとってどんな意味を持つのか」ということが自分自身で受け止められたのではないか…と私には迫ってきたのです。

よく「イエス・キリストの復活を本当のこととして信じることができない」という声を聞きます。一方で「イエス・キリストが奇跡的に生き返ったことは信じる。でもそれが自分に関わりあることだとは思えない」という意見も聞きます。

やはり「イエス・キリストの復活を心で信じ受け入れる」ためには、まず「十字架がこの私の罪のためだったのだ」と素直に受け止めることが原点なのだと考えます。

もしイエスの復活が喜べないならば…そのときは「自分の心を見つめ、自分がどんなに罪深いか」、しかし「そんな自分をも救うために神の御子が命を献げてくださった。「それほどまでに自分が愛されているのだ」ということを思い出す必要があると思います。この後の洗礼式を通して、見守られるお一人おひとりが、「目で見て」このことを思い返していただける機会になることを切に望みます。

キリストの十字架による「自分の罪の赦し」を心から受け止められたとき、それぞれの心には「神の御子の死はただの死で終わらない。罪の力、死の力を打ち破って復活なさったのだ」ということが迫ってくる…そのように私は信じています。

聖書全体に書かれている神による救いの約束。それは「神による罪の赦し」と「神が罪の力、死の力に勝利される」ことの両方があるのです。私たちも、イエス・キリストの復活が何のためであったか、私とどうつながるのかを深く考え、そしてじっくりと噛みしめるように「主の復活の喜び」を感じましょう。

イエス・キリストは神の御子だ。人の姿をとって私たちと共に歩んでくださる愛のお方であるが、しかし!死の力さえ打ち破る生ける神なのだ!そう信じられるところに生きた希望があります。

 今日洗礼を受けられる姉妹にとっても、他の教会の兄弟姉妹にとっても主イエス・キリストの復活の希望が皆様の支えであるようにお祈りいたします。(祈り・黙想)