「人を分け隔てしない」10/1 隅野徹牧師

  10月1日 聖霊降臨節第19主日礼拝・聖餐式
「人を分け隔てしない」隅野徹牧師
聖書:ヤコブの手紙 2:1~9

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 今日は、示された「聖書日課」のうちヤコブの手紙2章の1節からの部分を選びメッセージを語ることにしました。

8月20日の礼拝でも「ヤコブ書」からメッセージを語らせていただき、その時もお話ししましたが、ヤコブ書は「聖書の御言葉をただ聞く」だけではなく「生活の中で態度や行動として表わしていこう」という積極的な教えがなされます。

一方で注意しなければならないのが「私たちが、善い行動をしたから、その功績によって神に報いられ、救われるのではない」ということです。使徒パウロが、新約聖書の色々な箇所で「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」と教えているように「信仰によってのみ救われることができる」つまり「自分の罪を悔い、神の救いの恵みを信じる者が、神の愛によって特別に義しとされ、永遠の命を生きる者となることができる」というのが、「どういう行いをするか」とは関係なく与えられる、私たちの希望だと知っています。

 しかし、この手紙の著者である使徒ヤコブがエルサレムの、いわゆる「初代教会」を指導していた時代には、あまりにも行いの伴わない、口だけのクリスチャンが多かったと言われています。 今日の箇所でいうなら、口では「立派にキリスト信仰を語りながら」、行動面では「あからさまに人を分け隔てする」ということがあったようです。

そのような状況で、ヤコブはメッセージを手紙に記したのです。

信仰をもって聖書の御言葉を受け入れた人は、実際の人間関係がどのように変えられていくか…そのことを御言葉から聴き取ってまいりましょう。

 まず…当時の教会の中で「人を分け隔てする」ことは、なにがきっかけになって起こったのか…ということからお話しさせてください。それが読み取れる6節と7節から読みはじめたいと思います。

 ここから分かること、それは「金持ちが教会の中で影響力をもった」ということです。それは5章の内容からも明らかですが、社会の片隅で「肩を寄せ合うようにして、貧しく最低限の生活をしていたクリスチャンたち」を食い物にするような「金持ちがいた」ということです。

 6節に記されている「富んでいる者たちこそ、あなたがたを裁判所へ引っ張っていくではありませんか」という言葉に、教会に入り込んだ「金持ち」の冷酷無情ぶりが表れています。

 私はマタイ18章21節以下に記されている「イエスがなさった仲間を赦さない家来のたとえ」を連想しました。

借金を特別に免除してもらった家来が、自分に対して少額の借金をしている仲間を赦さず牢屋にいれた、あの譬え話の「家来の冷酷無情ぶり」です。

仲間がひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだにもかかわらず、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまで牢にいれた…このたとえ話の家来のように、「貧しい人に高い利息でお金を貸して困らせ、払えないことで裁判所にまで連れていく…」そういう金持ちがいたと理解されています。

その金持ちを「教会の人たちが恐れてしまった」のです。その結果起こったことが1~4節で分かります。

あきらかに派手で「威圧的な金持ち」が教会に入ってきたとき、その人を特別待遇するという「過ち」を犯したことが見て取れます。

一方で、貧しい人を軽く扱う、そんなことも起こってしまったこともまた分かるのです。お金が第一という「世の中の悪しき考え方」に教会が流されてしまったのです。

「分け隔てがあってよい」という考えに立つ人は、ごく一部の上級階級の人だけなのではないでしょうか。「自分がいまあずかっている特権階級としての恩恵を失いたくない」と思う人は「分け隔てがあってよい」と思うのでしょう。

しかし、普通の人間なら「分け隔てがあってよい」とはまず思わないでしょう。

それが、イエス・キリストを信じながらにして「分け隔て」が行われていたことがこの箇所から分かります。 これは今現在でも残念ながら「無くならないこと」なのです。

キリストを信じる教会が「移民の排除」に積極的に賛成したり、「特定の民族が神の祝福を受ける」と唱えて、異なる文化や考え方に立つ人を排除するなど、絶対にあってはならないことです。

それらの間違いは、やはり「神・キリスト以外のものが主になってしまうとき」起こるのだと私は確信しています。

もっとはっきり言うなら「権力や財力をもった人間が主になったとき」、利害関係優先で人と接するようになり、そして「人を分け隔てする」ということが起こってしまうと私は考えます。

神の前、キリストの前では、すべての人が「尊い命」です。そのことをまず「日々の生活の中で常に心の中で思い浮かべていたい」ものですが、とくに社会の中で端に置いていかれることの多い「貧しい人」が神の目に「尊い」ということが5節に表されています。

今日の中心聖句を挙げるならこの5節になると思います。ここを読んでみます。

この世で貧しい人、弱い人を愛し、罪人を赦すために十字架にお架かりになり、そして復活なさったのがイエス・キリストです。5節には世の貧しい人をあえて選んでという言葉が出ます。この「あえて選んで」というところに、この世の価値観とは真逆の、神の真理が隠れています。

その貧しい人を、神ご自身が「信仰に富ませ」そして「御国を受け継ぐ者となさった」ということを聖書は教えます。このことが今回の箇所の土台の考え方になっています。

6節7節は先に読みましたので、つづいて8節から11節です。ここをご覧ください。

ヤコブはここで、旧約聖書の中から一つの神の律法を引用して、さらに話を深めていきます。その律法が「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という律法です。これはレビ記19章18節の御言葉ですが、イエス・キリストはこれを「最高の律法だ」と仰っています。神を愛することと、隣人を愛するという二つのことが、律法の中心なのです。

それなのに、「もしも、人を分け隔てする」なら、この最高の律法に違反することになります。そして10節と11節にあるように、他の律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、すべての戒めを破ったことになるからです。姦淫しなくても人殺しをすれば、「律法の違反者となる」のが明らかなのと同じです。

私たちは、「殺人、姦淫」といった罪は大きな罪のように感じますが、人を分け隔てすることはそんなに悪いことではないかのように思っています。しかし、神の目ではどれも同じ罪であります。特に、「人を分け隔てする」ことは律法の中でも最高の律法に違反することなので、当然、罪に定められることになるのです。

次に12節と13節をお読みします。

「裁き」という「ハッとさせられる言葉」が並びます。

ここで教えられていることとは「貧しい人をさばいて、軽蔑するような態度は、後に自分に跳ね返ってくる」ということです。

イエスは、マタイ7章1節からのところで「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られる」と教えておられます。神の憐れみを受けていながら、隣人に対して、とくに弱い立場にある人に対して「憐れむことがなければ」、神から私たちへのさばきは、「あわれみのないさばき」となって自分に返ってくる。

厳しいですが、これが「神の真理」です。私たちはいずれ神の御前で「裁かれるものである」そのことを忘れずに歩みたいと願います。

しかし、裁きは「ただ恐ろしいもの」なのではなく、私達の生き方に「よい緊張感をもたらしてくれるもの」であると私は信じています。 これを念頭に置くことで、私達の人間関係は「神の御心にかなったものへと変えられる」という希望があります。最後にそのことに触れて、メッセージを閉じます。

神の裁きを意識することが、神の御心にかなった人間関係を作っていく上で有用である…そのことは、今日の箇所の最後の言葉に現れていると思います。13節の最後「憐れみは、裁きに打ち勝つのです。」という言葉がでます。

罪人の私たちは、確かに神の審判を受けることが本当であれば恐ろしいものであります。しかし、この言葉は「憐れみの心をもって日々生きていくことは、神の裁きを乗り越えるものである」ということを教えてくれます。

マタイによる福音書25章40節の「はっきり言っておく、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」という言葉が表しているように、私達のすべての行いをみて「お裁きになる、全能の神」は、私たちが隣人、とくに「弱い立場の人たちに対し、憐れみの心を持って行った一つ一つの行動」を見ていて下さるのです。

私たちは、神がいつでも見ておられること、そして「独り子をお与えになるほどに、すべての人間を愛しておられること」をいつも心において、その時その時でなすべきことをしていきたいと願います。  (祈り・沈黙)