6月30日説教
「人を生かすために投じられるイエスの火」
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書 ルカによる福音書12:49~59
主イエスは地上に聖霊の火を投じるために来られました。聖なる主の御前に畏れと悔い改めをもって出る時、私たちは主の器として清められ、隣人の救いを切に求める心をいただいて用いられます。主は私たちが神と共に生きるために、私たちの受けるべき裁きをその身に負ってくださいました。罪の自分に死ぬ時に初めて、私たちはキリストと共に生きます(ガラ2:19~20)。私たちに神の火が投じられると、親しい人との関係が波立つこともありますが、その関係も神にささげ、新しく受け取り直すことが大切です。私たちが主のものとして変えられ、共に主を仰ぐ日が来ることを信じ、祈って隣人に仕えましょう。
天候からある兆しを読み取り、その後に備えて生活するのは、当時の常識でした。けれどもなぜ肝心な「今の時」を見分けることを知らないのかと、主は問われます。キリストは世に来られて救いの御業を成し遂げられ、明確に今が救いの時であるとお示しになりました。しかしこの世の情報収集にはたけていても、永遠を思い、今起きていることの中で神に尋ね求めるという霊的な知恵にはまるで無頓着なのが私たちです。新しく生まれた者は、主を畏れ自分と違う人と愛し合い、隣人の救いのために仕える者となるよう、主のお取り扱いをいただかねばなりません。聖霊の助けを祈って御言葉に聴く時に、今起きていることにどう対処すべきか、神はどこに向かって導こうとされているのかが示されていくのです。今私たちは、自分を訴える人と共に裁判官の法廷に時々刻々近づいている負債者の状況にいます。隣人に罪を犯し、愛と赦しをもって接することができない私たちですが、神の最終的な裁きの日までは、和解のチャンスが与えられています。傲慢さが打ち砕かれて、自分から和解のために手を差し出すことができるように祈りましょう。主もまた私たちと共に歩いておられます。主イエスの十字架によって神との間に和解を得るならば、隣人に対しても和解に努め、神の和解を受けるように、隣人に伝える者となるのです(Ⅱコリ5:18~20,6:1~2)。