「信じられない私のために」4/27 隅野瞳牧師

  4月27日 復活節第2主日礼拝
「信じられない私のために」 隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書 20:19~31

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 本日は、復活の主が二度にわたって弟子たちに現れて何を語ってくださったか、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。

1. 復活の主は平和を与え、わたしたちを遣わされる。(21節)

2. 信じられない私のために、主はもう一度来てくださる。(27節)

3. 見ないのに信じる人は幸いである。(29節)

 

1. 復活の主は平和を与え、わたしたちを遣わされる。(21節)

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへイエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(19節)

先週はイースター、よみがえられた主イエスを覚えて礼拝をささげました。本日の箇所はその後主イエスが、弟子たちに現れてくださったことが記されています。それは週の初めの日、日曜日でした。そして次に主が現れたのは日曜日を含んで八日の後、一週間後のやはり日曜日だったのです。

主はまずマグダラのマリアに御自身をあらわされました(20章前半)。彼女から墓がからであったと聞いて、ペトロとヨハネは確かめに行って信じました。帰って他の弟子たちにも当然伝えたはずですが、その言葉は届きません。彼らは、自分たちも主イエスのように捕えられてしまうのではないかと恐れて、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。しかし彼らの真ん中に、復活の主イエスが来てくださったのです。

「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」(20節)

主は十字架の傷跡が残る、手とわき腹をお見せになりました。誰かに傷跡を見せられたら、普通は直視できませんし、それで喜ぶというのはおかしなことに思えます。直接手を下したのではなくても、弟子たちは十字架の主を見捨てて逃げ出したのですから、自分がその傷をつけたようなものです。神は私たちの罪をなかったことにされるのではありません。罪の出来事自体は消えることはないことを傷跡は示しています。しかしその罪の裁きを、罪なき神の子主イエスが十字架で受け、よみがえってくださいました。主イエスを救い主と信じる時に、私たちは神のもとで生きる者とされます。それが神のお与えになる平和、また平安です。たとえ外に嵐があっても、心と魂は自由で満ち足りています。

主は弟子たちの中に入って来て「あなたがたに平和があるように」と言ってくださいました。これは「あなたがたを赦す」ということです。十字架によってあなたがたの罪は赦された。あなたがたは神と和解し、平和を得たのだと。だから弟子たちは喜ぶことができたのです。自分たちの存在すべてを肯定していただいたという、魂の震えるような喜びであったと思います。

 十字架の傷跡を見ることは、自分の罪を直視することです。聖書を読む中で、私たちも自分の罪を示されて苦しむことがあるでしょう。けれどもそこで初めて私たちは神に救いを求め、赦しを受け取ることができます。「自分は正しい」と思うところから私たちは人を裁き、憎み、奪い合いが始まります。ですから主がみ傷を示し、私達の罪を示してくださることは、恵みなのです。

「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(21~22節)

今度は弟子たちを世に遣わすために、平和が与えられます。弟子たちのように私たちも、日々の生活の中で恐れを感じ、重荷や傷をもって礼拝に集い、隠れ場である主のもとで休みます。しかしいつまでも現実から逃れているのではありません。礼拝ののち私たちは、それぞれの家庭や職場、地域に場に主から遣わされるのです。父なる神が御子を世に遣わされたように、私たちもキリストの代理人として周りの人を愛し、神の救いを伝えるために遣わされます。

そのような生き方ができるようにしてくださるのは、聖霊です。聖霊は見えないかたちで共にいてくださるキリストであり、私たちを御子のような愛の人に変えてくださいます。聖霊は一人ひとりに信仰を与え、主の救いを語る言葉と勇気を与えるとともに、教会をつくり上げる方です。主イエスが弟子たちを愛されたように、私たちが互いに愛し合うことによって、人は神の愛を知ります。聖書が何を言っているのか全然わからないけれども、教会の皆さんのあたたかさに触れて、通い続ける中で信仰に導かれたという方がいます。私たちは体験として神の愛を知っていくのです。

弟子たちは、主を信じて救われた者の群れである、教会を表しています。教会の中心には復活のキリストがおられることを、総会にあたって特に思い起こしたいと思います。主は彼らに、教会全体に息を吹きかけられました。天地創造の時に神が息を吹き入れて、人が生きるものとなったように、主が聖霊の息を吹き込んでくださることによって、教会は神の命に生きるものとして造り変えられます。

キリストの復活は、愛が憎しみに打ち勝ち、ゆるしが復讐に勝利したしるしです。悪の力は依然としてこの世界を圧倒しようとしますが、復活の主の恵みを受け入れる者たちの魂に、手を出すことはできません。私たちの神は、死から命、無から有を創造される方です。ですから私たちは希望を持ち続け、命の限り主の復活を喜び、伝えるのです。

 

2. 信じられない私のために、主はもう一度来てくださる。(27節)

「そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」(25節)

さて復活の主が弟子たちに現れてくださった時、トマスは一人どこかに行って不在でした。生活に必要なものを調達しに行ったのか、墓に行ってみたのかもしれません。弟子たちは帰って来たトマスに、主にお会いしたと喜んで伝えましたが、彼は信じませんでした。トマスは疑うことを通して、信じようともがいていたのだと思います。トマスは主にお会いしたかった。どうして自分にだけ現れてくださらないのか、というくやしさがあったのです。

主イエスはかつて身の危険があるにもかかわらず、ラザロを生き返らせるためにべタニアに行こうとされました。その時トマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言っています(11:16)。主が十字架の直前に、間もなく世を去って天に行くと予告されると、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。」と尋ねています(14:5)。トマスは真剣に主イエスに従い、わからないことははっきり言う人でした。

なぜ主イエスは、弟子たちが皆そろっている時に現れてくださらなかったのでしょうか。その鍵は「見ないのに信じる人は、幸いである」にあるように思います。福音を伝えて、聞くことによって信じる。それが、主がご計画された救いの道なのです。弟子たちは十字架と復活の目撃証人として立てられていたために、復活の体をもってこられた主イエスを見ましたが、信仰への導きは本質的には同じです。彼らも聖霊によって見ないのに信じる信仰を与えられたからこそ、キリストが昇天され厳しい迫害があっても、福音を力強く宣べ伝えることができたのです(使徒2~4章)。主の復活を信じることは、目に見えるものや自分の力によってではなく、御言葉を通して目に見えない主に出会って、与えられるものです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)(参考:Ⅰコリント1:18~25)

「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(26節)

再び主の日が来ました。ほかの弟子たちは主イエスにお会いして、ユダヤ人に対する恐れを取り除かれていたと思いますが、まだ恐れの中にあるトマスに配慮して、鍵をかけていたのかもしれません。鍵は、主イエスに対する頑なな心をも暗示しているのでしょう。聖書の話を聞いてもよくわからない、私は信じるつもりはない…。かつて私たちは皆、トマスであったのです。そして主を信じた後もわからないことや、信仰を失いそうになる時もあります。けれども先に主に出会った弟子たちが、トマスと共に主の日を過ごしたように、私たちも礼拝に集い続けることが大切です。

弟子たちは復活の主イエスが再び現れることを待ち望んでいました。すると主が彼らの真ん中に立ち、今度はトマスもいる中で、一週間前と同じように語られたのです。

「『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。」(27~28節)

なんと主は、トマスの言葉を聞いておられたのです。私たちのどんな小さな声も、主は聞いてくださいます。主がおられないように感じても、雲の切れ間から太陽が顔を出すように、主はずっとともにいてくださったのだと知る時が来るでしょう。私たちも主に自らの罪を示されるなら、御前に恥じ入るしかない者です。けれども、信じたいのに信じられないトマスの思いを受け止めてくださった主は、私たちの罪や弱さをも受け止めてくださいます。

主はトマスに、納得するまで十字架の傷跡に、あなたの手を入れなさいと言ってくださいました。トマスが本気でそんなことを望んだはずがありません。主のお言葉に、トマスの口から信仰の言葉があふれ出ました。こうでなければ信じないというところを飛び越えて、トマスは信仰に入れられました。キリストの愛、赦し、命に入れられた。いや、実はずっとそこにいたと気づいたというべきでしょう。主は彼に、信じる者になりなさいと言われました。それは彼を責めたというよりも、信じる恵みの中に入っておいでという招きです。主は今も礼拝において、教会全体に語られます。しかし時を備えてトマスに会ってくださったように、主は私との一対一の関係の中で向き合ってくださるのです。

 

3. 見ないのに信じる人は幸いである。(29節)

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(29節)

人としての主イエスとともに生きた弟子たちは、御子が確かに生き、十字架に死んでよみがえられたことを証しする、大切な働きをしました。しかし彼らのように見た人だけで信仰が止まっていたら、今の教会は存在しませんでした。ここで「見る」というのは復活の主のお姿だけでなく、祈ったら成功したとか病気が治ったとか、見える祝福によって信じることも含まれるでしょう。

重要なのは、目に見えない出来事です。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:18)

見ないで信じるとは、何も考えずただ信仰に入るということではありません。信仰によって見えないものを見る、と言ったほうがよいかもしれません。神によって私たちは心の目を開かれ、見えるものよりも力強く、変わらないものがあることを知ります。御子のほうから私たちのところに来て信仰を与えてくださるから、見えない神を信じることができます。とはいえ私たちは弱い者ですから、御言葉とともに、神は見える形でご自身をお示しくださいます。それは、先に主を信じた者たちの愛し合う姿によってです。救われた一人ひとりにキリストの御姿が現されます。

信じるというのは、丸腰になるような恐れが伴います。弱い自分をさらけだし、汚れた手をそのまま主イエスに伸ばして、神の愛を受け取るのです。自分の力を手放して主におゆだねするのは勇気がいることです。信じるためには関係を作らなくてはなりません。だから時間がかかります。けれども主は私たちのための日を準備してくださっています。トマスのように今、礼拝において主を待ち望んでおられる方が、人の知識をはるかに超える主の愛を知る時が来ることを信じ、祈っています。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(31節)

ヨハネはこの福音書を読むすべての人に対して、主イエスを肉の目では見ていないのに信じるとは、何と幸いなことかと語っています。復活のキリストをはっきり見たペトロも、アジアの諸教会にこう書き送っています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(Ⅰペトロ1:8~9)

「なぜ見えない神を信じ、復活を信じられるのですか。」と聞かれることがありますが、説明しようとしても何かしっくりきません。証拠や理由によって納得したから信じたのではないからです。信仰は神がお与えになるものですから、見えないけれども主に出会ったと確信した時のことをお話しして、あとは聖霊がお示しくださるようお委ねしています。神は永遠にどこにでも存在される、全知全能の方です。見て確認したり、小さな人間の願いの範囲内に収まるはずがありません。そのようなお方を信じるには、その方御自身に助けていただかなければなりません。そうして信じるようにされた者は幸いなのです。

信仰以外にも、聖書は見えないものの大切さを語っています。見えることしか信じない人は、この世だけですべてが終わってしまうと考えます。ですから後の世代の人のことや他の国のことはどうでもよく、自分を守り、今が楽しければいいという生き方になります。豊かで力があるようですが、見えるものに囲まれていないと不安なのです。見えるものだけに頼る生き方を、変えたいと思いませんか。求めるならば、主は心の目と耳を開いて、変わらない真実なものを大切にできる自分へと変えてくださいます。

信じることができず、十二弟子の中で一番最後に主イエスを信じる者となったトマス。しかし彼の告白が教会の信仰告白となり、私たちを生かす言葉となりました。聖書が書かれたのは、私、そしてあなたが主イエスを救い主と信じて、永遠の命を受けるためです。聖書は「信じられない私のために」、神がすべてを尽くして、その独り子をお与えになったほどに、私を愛されたことが書かれています。「わたしの主、わたしの神よ。」との告白に導かれる方がこれからも起こされますように、復活の主の聖霊を受けて、ここから遣わされてまいりましょう。