「共に泣き、語り合う」9/28 隅野瞳牧師

  9月28日 聖霊降臨節17主日礼拝
「共に泣き、語り合う」 隅野瞳牧師
聖書:創世記 45:1~15

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 本日は、私たちの思いを超えてなされる救いのご計画について、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。

1.神が主語になる。(5節)

2.いただいたのは、次の人に分けるためである。(7~8節)

3.神が触れてくださる時、もう自分を抑えつけなくてよくなる。(15節)

 

1.神が主語になる。(5節)

本日は37~50章にわたるヨセフ物語の中の、ヨセフが兄たちと和解する場面です。ヨセフは12人兄弟の11番目です。父のヤコブは妻ラケルを愛し、その子ヨセフとベニヤミンを特にかわいがりました。ヤコブはヨセフだけに、裾の長い晴れ着を作ってやりました。ヨセフは兄たちの悪い噂を父に告げ口していましたから、兄たちはヨセフとおだやかに話ができませんでした。またヨセフは自分の見た夢を家族に話しました。その夢は家族がヨセフにひれ伏すことを表していたので、父も兄も怒りました。相手の気持ちもわきまえずに得意になって話す未熟なヨセフに、兄たちは憎しみをつのらせました。

 ある日のこと、羊を飼っている兄たちの安否を確かめるために、ヤコブはヨセフを使いに送りました。ヨセフを遠くから見つけた兄たちは、なんとヨセフを殺す計画を立てます。長男のルベンは、穴に落とすだけにしようと提案します。あとで助けようと思っていたのです。兄たちはヨセフの晴れ着をはぎ取って穴に投げ込み、奴隷として売ろうとしますが、知らないうちにヨセフはミディアン人によってエジプトに売られていきます。兄たちはヨセフの服に動物の血をつけて父に返し、ヤコブはヨセフが死んでしまったと思い、生きる望みを失ってしまいます。

 ヨセフはエジプトに連れてこられただけでなく、無実の罪で牢に入れられてしまいます。しかしどのような暗い状況に置かれても、「主がヨセフと共におられた」との御言葉が繰り返されていきます。ヨセフは希望を失うことなく、御心に従い、今ある場所で忠実に務めを果たしていきます。そしてエジプト王の見た夢を解き明かすために牢から出されます。7年の豊作の後に7年の飢饉が起こると解き明かすと、飢饉に備える食糧を集めさせる監督として、王はヨセフをエジプトの第二の位につけました。妻と二人の子を授かって慰めを得たヨセフは、苦しみの日々や帰れない家のことを、忘れることができるようになっていました。

 ヨセフが解いた夢のとおりに、大豊作ののちに大変な飢饉が訪れました。けれどもエジプトには備蓄が十分ありました。周辺諸国も、ヨセフの家族が住むカナン地方も飢饉に見舞われました。エジプトには食糧があるらしいと聞いたヤコブは、兄たちに食糧を買わせるためにエジプトに遣わしました。一番下のベニヤミンは同行させませんでした。ヨセフの分までベニヤミンを偏愛していることがわかります。

 さて、ヨセフのもとに兄たちがやってきました。ヨセフには一目で兄たちとわかりましたが、エジプトの服を着て通訳もいますから、兄たちはヨセフに気づきません。ヨセフは兄たちにスパイの容疑をかけて試します。もしお前たちが正直であるというなら、末の弟ベニヤミンを連れて来るようにと命じて、シメオンを人質にとります。兄たちは、かつてヨセフに犯した罪を神はご覧になっており、罰を受けているのだと互いに言いました。兄たちが罪を認めていることを知って、ヨセフは涙します。兄たちは食糧をもって帰りますがやがて底をつき、父の葛藤はあったものの、再びベニヤミンを連れて再び食糧を買いに行くことになりました。ベニヤミンを連れて行くとシメオンは自由にされて、兄弟たちはヨセフの食卓に招かれました。しかし帰る途中でヨセフの執事が追いかけてきました。ヨセフの銀の杯を誰かが盗んだというのです。荷物を調べていくと、こともあろうにベニヤミンの袋から杯が見つかったのです。皆は急いでヨセフのところに戻りました。盗んだ者だけが奴隷になれば、あとの者は帰ってよいとヨセフはいいました。するとヨセフの前に、ユダが進み出て嘆願しました(45:18~34)。

 ベニヤミンの兄はなくなり、同じ母の子で残っているのは彼だけで、父は彼をかわいがっています。ベニヤミンが一緒でなければ、再びあなたさまの顔を見ることはできないと父に伝えると、ヨセフに続いてベニヤミンに不幸が起こるなら、お前たちは白髪の父を苦しみのうちに死なせることになると父は申しました。僕は父に、もしこの子を連れて帰らないようなことがあれば、生涯その罪を負い続けますと言ったのです。どうか僕を奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。父の苦しみを見るに忍びません…。

 このユダの言葉に、もはや自分を抑えることができなくなったヨセフは、そばで仕えている者たちを外に出しました。そして兄弟たちだけになった時に、自分の身を明かしました。ヨセフは声をあげて泣き、その声は外にまで聞こえるほどでした。これまでの自分のすべてが、とめどなくあふれだしたのでした。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」この言葉に、兄弟たちは驚きと恐れで答えることができませんでした。エジプトで絶大な権力を持つようになったヨセフには、自分がされたように彼らに復讐するのは簡単でした。しかしヨセフは恐れる兄たちに、もっと近寄ってくださいと語りかけます。 ヨセフは、あなたたちがわたしをエジプトに売ったことは事実ですが、それを悔んだり責め合ったりする必要はないと語りました。それはヨセフが神のご計画のもとにいることを知ったからでした。

「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」(5節)

 自分の人生に起こった出来事の背後に主が共におられ働いておられると知らされて、これまで通ってきた道のりは、この日のためであったとわかったのです。私の命だ、私の考えで生きるのだと思ってきたかもしれません。しかし自分の思いを超えた大いなる存在、神がおられて、愛をもってご自身の時にふさわしいことをなさるのです。聖書を通して私たちは、神が主語になり、私たちはその御手の中で歩む者であるという信仰の目が開かれます。その信仰に生きる者はうまくいっても高ぶらず、目の前が閉ざされていても神の時を待って、別の方向でできることを探していけるのです。

 本日の招きの御言葉はローマ8:28でした。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」続きはこうなっています。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」

ホーリネスの群の聖会で示されたことですが、これは神を信じればすべてが私にとって良くなるということではなく、「神にとっての」最善、私たちが御子の姿に似たものとされることです。神はこの約束を自分一人ではなく、自分と周りの人、喜びも悲しみも、すべてを重ね合わせて成し遂げてくださいます。神が私たちの命、今もそしてこれからの世界を御手のうちにおいてくださいますから、私たちは希望をもって与えられた命を生きていけるのです。

 

2.いただいたのは、次の人に分けるためである。(8節)

 ヨセフの夢は実現しました。17歳からおよそ20年の苦難の日々を経て、主は彼をへりくだらせ、彼が富や栄誉を得るためではなく人々の命を救うために、エジプトの第二の位に就かせたのです。「主は、人々が彼を卑しめて足枷(あしかせ)をはめ 首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め 御言葉が実現するときまで。」(詩編105:18~19)エジプトに売られ牢に入れられても、ヨセフは主が共におられるという信仰に力づけられ、報われなくても忠実に生きました。やがて神の時が来てヨセフは権威ある者として立てられ、エジプトだけでなく他国にも食料を供給しました。立てられた使命に忠実であったので、その噂がヤコブのもとに届いたのです。

 主は私たちに将来と希望を与えるご計画を持っておられますが、実現のためには、私たちがその恵みを受け仕える器として整えられることが必要です。アブラハム、モーセ、パウロ…主はご自身の御業を、見えるところの希望が失われた者、打ち砕かれた者を用いて進められます。自分から何もよいものは出ない、持っているものもない。だから主により頼むしかない。そのような時に私たちは、主が共におられることを肌で感じるのです。信仰を持ち始めた時の自分を思い返しますと、昔のヨセフのように傲慢でした。主のお取り扱いを受けて、変えられねばならなかったと思います。私たちは聖霊のお導きに従っていく時に、どこまででも主に似たものに変えていただくことができます。なんという恵みでしょう。年を重ねるごとにへりくだり、学ぶ者でありたいと願います。 

「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。…神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」(7~8節)

 アブラハムに与えられた約束、祝福の源となってすべての民に祝福をもたらすために(それはイエス・キリストによる救いによって実現していきますが)、主は兄たちをエジプトで生き永らえさせようとされました。そしてそのために、自分は先にここに遣わされて食糧を備え、国にあるものを自由にできる権限を与えられたのだとヨセフは告げました。神が主語になる時に、自分が持っているものや今の立場は、神からいただいたものだと気づきます。罪からの救いもそうです。ただ恵みによって、今の私があります。次の人に分かち合うために、先にいただいたのです。

 続けてヨセフは兄たちに言います。急いで父上のもとへ帰って、ヨセフがエジプトを治める者となっている、まだ飢饉が続きますから、こちらに来て住んでください。あなたたちが見たすべてのことを行って父上に伝え、連れてきてほしいと。

ヨセフを通して見える形で食糧が満たされましたが、兄弟たちはそれ以上のものを与えられました。ヨセフが生きていたということ。エジプトで王に次ぐ地位にあること。そして何よりも、ヨセフとの和解を得たことです。ヨセフから兄弟たちに、喜びのしらせは託されました。兄たちがこれを父に伝える、それはとても大切なことでした。

 もう兄たちはヨセフの救いを受け取って、告げ知らせる存在になっています。御子のお生まれを天使に知らされた羊飼いは、御子を見て人々に伝えました。サマリアの女は主と語り合う中で信仰を得、彼女の証によって町の人々は主イエスを信じました。エマオに向かっていた弟子たちは復活の主イエスに出会って心燃やされ、翌朝まで待ってなどいられないと、すぐにこの喜びをほかの弟子たちに伝えに行きました。

 伝道とはそういうものなのです。罪赦されて神とともに生きる者とされた喜びを、伝えずにはいられない。大丈夫、主はよみがえって生きておられる、あなたと共に、あなたを愛して生きておられると伝えるのです。伝える人が現実に変えられている姿が、聖書の救いが本物かどうかを一番伝えてくれます。兄たちもまるで変えられて、喜んで、一刻も早く父のもとにいって伝えようとしたでしょう。今一度主の前にひざまずき、このような者に注がれた神の愛を畏れをもって、感謝をもって受け取りましょう。救いの恵みを味わうことから、伝道は始まります。

 

3.神が触れてくださる時、もう自分を抑えつけなくてよくなる。(15節)

「ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後(のち)、兄弟たちはヨセフと語り合った。」(15節)

 ヨセフと兄弟たちの心に主が触れてくださいました。彼らは悔い改めと赦しに導かれ、互いに首を抱いて泣き、語り合いました。穏やかに語ることができなかった彼らが、一つとされたのです。ヨセフはこれまで、

涙を押し殺して生きていました。兄たちから受けたおぞましい体験、自分の声を誰も聞いてくれずに、まったく知らない地に売られていったこと。過去を忘れ目の前のことに必死で生きていくしかありませんでした。しかしそれでも彼が絶望しなかったのは、神のお与えになった夢と、主が共におられるという信仰が支えてくれたからです。

傷を受ける中で、私たちは自分を守るために涙や怒りを隠し、いろんなものを身にまとって生きるようになります。しかし私たちは主がどのようなお方であるかを知る中で、本当の自分を主に出せるようになっていきます。主は私のすべてを知っておられる方。私が主を知る前から私を愛し、魂の打ち砕かれた者を決して軽んじることはなさらない方です。私たちは安心して御前に行き、それを通して人に対する恐れも少しずつ取り除かれていきます。神は私たちが自分を取り戻し、泣き、語り合えるようにしてくださいます。

 銀の杯が見つかってヨセフの前に立たされた時に、ユダは言いました。「神が僕どもの罪を暴かれたのです。」(44:16)これは銀の杯のことではなく、かつてヨセフを殺そうとし、奴隷に売ろうとしたことを言っています。彼らは神の御前にあることを知り、自分たちの罪に向き合ってその裁きを受け止めました。

 ヨセフの心を大きく揺さぶったのはユダの嘆願でした。兄たちもまた心に責めを負い、父との関係で苦しんできたことをヨセフは知りました。ヤコブの愛情の注ぎ方は、明らかに偏ったものでした。この親を受け入れることは、彼らの力ではできませんでした。

 しかし今のユダは、自分を愛してくれない父であっても、生きていてほしいと思っていました。父の絶望に耐えられませんでした。兄弟皆がベニヤミンのために、重荷を共に担おうと帰ってきたのですから、ユダと同じ思いでいるわけです。どうぞ私を奴隷として、ベニヤミンをほかの兄弟と一緒に父のもとに帰らせてください。かつてヨセフを売ろうと言い出したユダが兄弟を代表して、すべてをかけて執り成しをしました。神はそのようなユダを、救い主の系図に入れてくださったのです(マタイ1:2)。20年前と同じような場面に立たされましたが、兄たちは「ベニヤミンを見捨てない」という、違う道を選ぶ者に変えられていました。私たちの信仰生活は、同じ罪を犯しては後悔することの繰り返しではありません。神は求める者、主に従おうとする者に、神の子としての成長を与えて、前進させてくださいます。

ユダの姿は、私たちが神と和解できるようになるために、十字架にかかってくださった御子に重なるものです。人と人との和解には、代わって重荷を負い犠牲を払うという人がいなければならないのです。キリストによって神との和解が与えられる時、人との和解にも導かれます。和解は本来、一方が謝罪しもう

一方が赦すというものではありません。ヨセフが100%正しい側にあったのではなく、彼も兄弟たちとともに神の御前に出たのです。キリストにおいて私と相手の双方が一人の新しい人に造り上げられ、敵意が滅ぼされます(エフェソ2:15~16)。

 私たちも御前に、そのままの自分で出ましょう。主よ、恐れや悲しみによってかたくなになった私たちの心を開いてください。私たちの人生を通して、主が救いと和解の御業を現してくださることを信じます。