9月14日 聖霊降臨節第15主日礼拝
「天の国のことを学んだ者」隅野徹牧師
聖書:マタイによる福音書 13:44~52
(画像が開くのが遅い時は「Reload Document」または「Open in new tab」を押してみて下さい。)
Loading...
今日は与えられた聖書日課の中からマタイ14:44~52を選び、メッセージを語らせていただきます。この箇所の主題は、「天の国に入る」ということを、この地上の生涯の中で追い求めることがどれだけ尊いか、ということです。
先週私たちは愛する、そして大切な伊藤恵美子姉を天へとお送りしました。
まだまだこの地上の歩みで、いっしょに色んなことをやっていきたいと願っていましたし、それができると信じて疑っていませんでした。それだけに悔しさ、悲しさは抑えられません。「神さま、早すぎるではありませんか!」そんな祈りを私はしています。
しかしながら、伊藤恵美子さんの最期、天への旅立ちを見ていて「天国においての永遠の命は確かに、間違いなくあるのだな」ということを改めて思ったのです。
今朝は、伊藤姉妹が「この地上の歩みの中で探され、そして確かに得られた永遠の命」に思いをはせる礼拝になることを願っています。ともに御言葉をあじわってまいりましょう。
まず44節です(※この節は大切なので、読んでみます)
天の国は「隠された宝」だということが書かれています。天の国は隠されているので、誰でもが「ここに天の国があるぞ!」と分かるわけではない、ということなのです。しかし天の国は隠されているけれども「確かに宝だ」ということが分かるのです。
そして、次に語られていることは「その隠された宝を見つけた人がいる」ということですが、それがクリスチャンを暗示していることは確かです。隠されていて、多くの人々には見えていない、宝である「天の国」を見つけ、その宝のすばらしさを日々感じながら生きていくのがクリスチャンだ、ということをイエスは教えようとです。
しかしそれは、長年「宝を探し回って努力の甲斐あってついに発見した!」というのではありません。44節をよく見ると、隠されている宝をみつけたこの人は「とくに宝を探して畑を耕していたのでは」ことが分かるのではないでしょうか。
畑仕事をしていたら、たまたま偶然、宝を見つけてしまったという感じの譬えをイエスはなさっているのです。
私たちも同じです。天の国という宝を見つけることができるのは私たちの側の努力にはよりません。
御自分の教会とのつながり、神とのつながりの「はじまり」を思い返してみてください。自分から真理を探しもとめて教会に来たというひとは稀だとおもいます。たまたま何かのきっかけで教会を知ったり、たまたま家族や友人にクリスチャンがいて、その人に導かれるようにして教会に集うようになった、という感じではないでしょうか?
私たちは自分が意図したのではない何かのきっかけで、隠された宝である「天の国につながる永遠の命」を見出すことができるのです。世間の人はそれを偶然と呼びますが、私たちはそこに神の招きと導きを覚え、感謝と謙遜をもって生きることが出来るのです。
しかし!見つけ出したからといって、それが「すぐに私たちのものになるわけではない」のです。そこに、このたとえの大事なポイントがあると気づかされました。
実は44節の最後にそのことが記されています。
畑に隠された宝を見つけた人は、持ち物をすっかり売り払ってその畑を買うのです。そうしなければ、宝を見つけても、それは自分のものにはなりません。せっかく見つけた宝を本当に自分のものにするためには、全財産を売り払ってそれを買うことが必要なのです。
この「持ち物をすっかり売り払って宝を手に入れる」ということが、つづく45、46節の「真珠商人のたとえ」とも共通しています。全く別の話のようで、実はつながっている「真珠商人のたとえ」が語られた45節、46節を読んでみます。
良い真珠を捜している商人が、「高価な真珠を一つ見つける」譬え話です。それは、畑の宝とは違って、隠されてはおらず、売られているのです。誰もがそれを見て、すばらしい真珠だと気づいているのです。でも「とても高くて、手が出せない」と思っている、というようなことが読み取れます。
しかしこの商人は、「持ち物をすっかり売り払い、それを買う」とイエスはお語りになります。
このたとえは、隠された宝である天の国を見出した人は、「全てのものを手放してでもそれを手に入れるだけの価値あるものだ」ということを教えるためになされたものです。
これらのたとえを通してイエスは、「天の国という隠された宝を、本当に真剣に求めていくこと、それを得るために全力を尽すことの大切さ」を伝えようとされています。
天の国は、ついでに、片手間に手に入るようなものではないのです。畑に隠された宝を見つけた人が「その宝のことばかりを考え、その畑を何とかして手に入れようと必死になる」それと同じように、天の国を見出した私たちも、それを得るために熱心に、真剣に取組んでいく…それが、天を目指しての信仰者の歩みだ!ということなのです。
次に47節以下をご覧ください。ここには、魚の網のたとえが語られています。
地引網のような網でしょう。いろいろな魚がそれこそ一網打尽にされる、そして岸に引き上げられてから、良いものと悪いもの、つまり売り物になる魚とそうでない魚が分けられるのです。このたとえは49節50節に語られているように、「終わりの時の神の裁きのこと」が語られているのです。
この場面イエスが「裁き」の話をされるのはなにか唐突な感じがするかもしれません。こういうことを語られると私たちは恐れてしまうではないか…と不安に感じる方もあるかもしれません。
はっきりと言えるのは「直前のところで語られている、天の国が隠された宝である、あるいは高価で簡単に入手できない真珠のようなものである」という話と、この「裁きのことを教える譬え話がつながっている」ということです。
イエスは天の国が「簡単に手に入るものである」とは仰いませんでした。そうではなくて「天の国は隠されている宝である、あるいは高価で簡単に入手できない真珠のようなものである」と譬えられました。
それは誰もが天の国に入れるのではない。遜って神の前に自分の罪を認め、そして心を新たに生きるものだけが、天の国に入ることが出来るのだ、という現実をお語りになっているのだと私は捉えます。
本当なら、問答無用で造り主である神の御前で「犯した罪のために裁かれ、滅びゆく存在」なのが私たちです。たとえ、どんなに周りの人から尊敬され称賛される人でも、神の御前では例外なく「罪に汚れた滅びゆく存在」なのです。
ところが、私たちは罪に汚れたものでありながら「特別に神からの憐れみよって尊い宝を探しあてることができる、そして所有することができる」ことを今回の箇所は教えます。
ただの宝さがしの話ではない!ということをはっきりと伝えられるために、敢えてイエスはここで「罪の審判」の話をされていると私は思います。私たちは特別に「天の宝を得たもの」として生かされていますが、それは「神の一方的な憐れみによる」のです。
「天の国へ至る永遠の命をいただいている」ということを確信して生きることは決して簡単なことではありません。そのためには、自分自身の「罪深さ、弱さ」をしっかりと見つめ、「罪人である自分、弱く小さな本当の自分の姿をみつめる」ことなしには「天の国に希望をもって生きること」はできません。
天に凱旋された伊藤恵美子さんは、クリスチャンのご両親である「有吉昇一・あさこ夫妻」から、神の前で自分の本当の姿を見つめて、謙って生きることを、受け継がれて生きられたお方だと感じます。まさに「天の宝を探し当てた恵みに生きる人生だった」と私は思うのです。私たちも同じような恵みに生きる者でありましょう。
今日のまとめとして最後の51節と52節を見ます。(※皆さんも目で追ってみましょう)
イエスは弟子たちを相手にこれらのたとえを語り、、「あなたがたはこれらのことがみな分かったか」と言われました。すると弟子たちは「分かりました」と答えたのです。
弟子たちは、群衆たちよりも頭が良かったわけではありません。群衆たちよりも善良な、正しい人たちだったからでもありません。しかし弟子たちが天の国の秘密を悟ることができたのは、ただ一方的なイエスの憐れみです。
しかし!ただ従っただけにすぎないように見える弟子たちが「驚くべき力を得たのだ」ということが52節の譬えで教えられるのです。(※52節を読んでみます)
地位や名誉がないだけでなく、学がないはずの弟子たちが「天の国のことを学んだ学者」だといわれています。そんな「天の国を自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」と言われました。
天の国は今日の箇所で学んだ通り「この地上で生きている間は理解できない、隠されていることが多い」です。
しかし、隠されているその天の国、そしてそこに至る永遠の命を「真剣に探し求めて生きる者」は、「在庫がどこにしまってあるかを覚えていて、いざという時にさっと商品が取り出せる、熟練の店主」のような、落ち着いた生き方ができるのだとイエスは教えます。それが「隠されていることが多い、天の国についての学者」としての生き方なのだ、とイエスは教えておられるのです。
最後にもう一度「伊藤恵美子さんの生き方」にふれてメッセージを閉じます。
伊藤恵美子さんこそ、ここ54節で示されている「天の国についての学者としての生き方」つまりは「新しいものと、古いものとを取り出せる一家の主人」のような生き方そのものだったと感じます。
実に頼れる役員さんでした。何かの準備や手配が足りていないとき、「先生、あれを頼んでおきましたよ、手配しておきましたよ」とそっと動いてくださる配慮のお方であると同時に、長い教会生活、人生経験をいかし「こういう場合はこうしてきましたよ」と、まさに古いものを倉庫からさっと出すようなお働きをしてくださいました。
今回の召天にあたっても、お子様方に「こういう葬儀にしてほしい」などとはっきり伝えておられ、天に旅立つ準備もしっかりとなさいました。古いものが取り出せるだけでなく「新しいものが必要な時、それをさっと取り出せる」そのことを私は目撃しました。伊藤さんこそ「隠された天の国についての、本当の意味での学者なのではないか」と思いました。
私たちも伊藤恵美子さんにならい「天の国を本気で追い求める生き方」を志しましょう。遜り、自分の弱さに目を向けつつ「神が特別に憐れんでくださった喜びを心に留めて生き続ける」ならば、同じ生き方ができる、そのことに希望をもって歩みましょう。(祈り・沈黙)