「安心して憩おう」4/16 隅野徹牧師

  月16日 復活節第2主日礼拝
「安心して憩おう」隅野徹牧師
聖書:詩編16:1~11


 今年度から、山口信愛教会の主日礼拝では、日本基督教団の「聖書日課に乗った聖書箇所」からメッセージを取り次ぐことにしました。今朝は詩編16編が示されておりましたので、ここから「十字架と復活の恵みに、私達が与る」喜びについてお語りしたいと願います。早速、16編全体を、区切りごとに読んで味わいたいと思います。

(まず1-4節を読みます)

この詩はダビデが詠んだものだとして記されていますが、日々いろいろな苦労があったダビデにとって神だけが避け所であること、その神が、彼の幸いそのものであり、他の事柄に気を取られていない純粋な告白がなされています。

そして神を信じ、神と共に歩むこの地に住む聖なる人に対して、ダビデはその人々との連帯を告白する一方、他の神を信じる人々、特に「血を注ぐことを要求する偶像信者」に対して、ダビデは悲しみの思いを素直に告白しています。

(つづいて5-8節を読みます)

6節はヨシュア時代の土地分配を思い起こさせます。これを自分の人生に当てはめてここまで、自分に最適のものを与えて導いてくださった神を賛美しています。順境でも逆境でも、神が自分を導いてくださるのだ、という思いを忘れないことで「揺がない心の軸を持つことになる」といっているのです。

(つづいて9-11節を読みます。ここが今日の箇所の中心です)

ダビデは9節で今現在の神と共にある幸いを告白していますが、10節11節で「神との近しい交わりという現在の幸せは必ず死後にも及ぶ」との確信を表明します。

今はイースターを終えた後の「復活節」で、主イエスが十字架にかかって私達の身代わりとなって死んでくださったあと、死の力を打ち破って復活されたことによって「私達も復活の命、永遠の命を生きる」ことができる、その恵みに与っているということを繰り返しお話ししていますが、今回の箇所にも、このことが「力強く!」語られているのです。

詩篇16篇は、ダビデが、神ご自身をどのように見つめていたかが、力強く描かれますが、ダビデにとって「苦しいときの避けどころ」、「幸いの源」であるとともに、「復活の命を与えてくださる方」であるとの告白をしているのです。

ダビデの生きた時代は、キリストがこの世に来臨されるかなり前ですが、それでも「自分に復活の命を与えて下さる方である」ことをしっかりと見つめていたのです。

先ほどお話ししましたように、詩編16編の8節までの部分で、ダビデは「神との親しい交わりの幸せ」を生き生きと詠ってきたわけですが、9節から11節では、「その神と共にある親しい交わり」が、今生きているこの地上の時間だけでなく「死後にも及ぶのだ!」と確信してうたっているのです。

「神と共にある親しい交わりから生まれる幸い」それは11節で詠われているように「永遠に続く」ものであります。それに対して、この世の快楽は「やがて消え失せるもの」「苦しみとして、後々自分に跳ね返ってくるもの」ですが、ここでは「その対比」がなされているのです。

「神と共にある親しい交わりから生まれる幸い」…それは「陰府」や「墓穴」を突破して、永遠に続くものなのです。

ダビデの時代、この「永遠に神と共にいられる、親しい交わりから生まれる幸い」は確信はありつつも、まだはっきりと見えなかったことでしょう。それがイエス・キリストの十字架と復活をとおして「はっきりと見えるものになった」のです。

そして、このダビデがうたった詩編16編は、キリストの復活後、ペンテコステの場面で神によって「新しく用いられた」のであります。

今日はメッセージの締めくくりとしてその箇所を皆さんと開いて読みたいと思います。   

皆様新約聖書のP216をお開き下さい。

ここは復活されたキリストが天に昇られて10日後、祈って待っていた弟子たちのもとに聖霊が激しく降った、いわゆるペンテコステの出来事の場面です。

聖霊に満たされた一番弟子のペトロが「聖霊に満たされてかたった」場面に、本日皆様とよんだ詩編16編が引用されているのです。

それでは使徒言行録の2章の23節から32節までをお読みいたします。

この中でペテロが語った要点は3つです。

①つ目 ダビデは、自分の魂がよみ(死者)の世界に放置されるはずがないと確信していたということです。 これは先ほど詳しく見た通りです。

②つ目 しかし、実際に彼自身は死んで葬られてしまいました。29節にあるとおりダビデの墓は実際に存在していたのです。

しかし③つ目  墓に葬られて、すべてが終わったのではない!ということが語られるのです。

とくに30節で語られるのですが、ダビデの子孫の一人によって「この詩編16編の約束は実現したのだ」とペテロは言っているのです。

「ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫のひとりを、その王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。」という30節の言葉の通り、ダビデは自分の子孫から「救い主がおこされる」という約束をうけていて、それで詩編16編を詠んだのだ、とペンテコステの時、ペテロは聖霊に満たされて語ったのです。

ナザレで育った、大工の子イエスは、ダビデの血をひくものとしてこの世に生まれたことは確かです。その「ダビデの子孫である、ナザレのイエス」が神によって復活させられたことによって「メシヤである」ことが明らかにされたのです。

詩編16編に約束されている死者からの復活は、イエスにおいて実現した。したがって、イエスこそ待望のメシヤだったことをペテロは大胆にかたります。

そして、このイエスの救いの福音を「信じ、受け入れた人たち」が、最初のクリスチャンとなり、復活の希望に生きる者となったのです。

実際には、迫害などの苦しみが絶えませんでした。しかし、それでも「神と共にある親しい交わりから生まれる幸い」が彼らを包みました。そして「この地上で、命を終えても、その先に神と共に永遠に生きることができる」という幸いを抱いて生きることができたのです。

今朝は、聖霊降臨日であるペンテコステに、イエスの一番弟子のペトロが引用してかたった「詩編16編」を、皆様と共に味わうことができて、感謝でした。

この詩を詠んだダビデの子孫として「人の姿をとって、この地上を生きられたイエス・キリスト」は、すべての人の罪の身代わりとなって死なれたあと、私達のために復活してくださった」のです。

このことによって詩編16編の11節の言葉どおり「命の道」が教えられたのです。

このキリストそして送って下さった神を信じ受け入れ、ともに歩む幸いは、地上を去った後もずっと続くのです。

どうか皆様も、ダビデと同じような思いで「永遠の喜び」を胸にいだいて日々歩んでいただきたく願います。  (祈り・沈黙)