8月10日 聖霊降臨節第10主日礼拝・平和主日
「平和の道を知る」隅野徹牧師
聖書:イザヤ書 59:1~21
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私たちの教会では、先週山口英希牧師をお招きして「ウエルカムチャーチデー礼拝、wawawaコンサート」を持つことが出来、大変感謝でした。その前2日間は「萩へのキャンプを持つことが出来」、年齢や住んでいる地域をこえて大変幸いな交わりが持てました。
皆様は何か、印象的に残ったことはありましたでしょうか?
私は、とくにwawawaコンサートの中で、山口先生が教えてくださった「you are good」
という歌のメッセージが印象に残りました。
小さな頃から人種差別を受け、自分の存在価値がわからなくなっていた「イスラエル・ホートン」という人が、キリストに出会ったあとにうたった「魂の叫び」のような歌詞の歌です。
すばらしい主のあわれみとこしえに! 変わらないいつくしみとこしえに!
肌のいろも 言葉も 世代を超え主イエスを たたえよ晴れるや
あがめよあなただけ you are good!
人間は罪深いものです。肌の色や、その他もろもろのことで「人を分け隔て」してしまいます。 しかし、造り主である神は、その独り子イエス・キリストの業をとおして、私たち一人ひとりに対して「あなたは素晴らしい!you are good!」というメッセージを送り続けて下さるのです。
特別伝道礼拝のために1週遅れとなってしまいましたが、世界中のすべての人が神の目から素晴らしいというメッセージをしっかりと受け取った1週後の今日、平和主日礼拝を持てることは神の導きだと感じます。
聖書箇所は、少し前に「山口信愛教会の聖書研究会祈祷会」でも読んだイザヤ書59章です。 バビロン捕囚から帰還したあとの時代の「心の荒廃」が課題としてあった中で神は「預言者イザヤ」を通して「神の前にへりくだる」ことの勧め」を語っているのがこの箇所ですが、これは現代をいきる私たちにも「私たちが、神の求められる平和のために、何ができるのか」というメッセージを発していると思うのです。
共に御言葉にきいてまいりましょう。
まずイザヤ書のこの部分について簡単に解説させてください。
イザヤ書は執筆年代、背景が異なる大きく3つの部分に分かれると言われていて、1~39章が「第一イザヤ」40~54章が「第二イザヤ」そして、今回の箇所を含む55章から最後の66章までが「第三イザヤ」と区分されるのが定説です。
第三のイザヤ書の部分である55章以降は、イスラエルの人々がバビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰った頃の時代が背景になっているといわれます。
この箇所には当時のイスラエルの荒んだ状況が描写されています。どういうことかというと…すでに「バビロン捕囚からの解放、帰還」はなされていましたが、祖国は荒れ果てた状態でした。そんな中で「再興ととくに民たちの心の拠り所であった神殿の再建」がなかなか進まず、諦めたり、自暴自棄になることが多かったと言われます。
つまり、「心の荒廃」が課題としてあったことが分かるのです。
そのような状況で神は 預言者イザヤを通して「神を信じ、希望を持ち続けること」「神の前に自分の罪を認めへりくだる」ことを勧めて語っているのです。
まず1~8節を読んでみましょう。皆様目で追ってみてください
先程申しましたように、バビロンから多くの人が帰還したものの、イスラエル国内は混乱していました。人々は「主の手が短くて私たちを救えないのではないか」という不満を実際に呟いていたのだと思われます。
それに対して神は「主の救いを妨げているのはあなた方の悪だ」とイザヤを通してお答えになるのです。
3~8節では不正と暴力に満ちた社会の様子が描かれています。これは現代の私たちの社会の描写だと私は思うのです。
終戦80年目の節目の平和聖日ですが…私は日本の国の中から「今こそ核兵器をもつべきだ、核武装が必要だ。そうしなければ、日本が守れない」という思想が日本で広まるなど夢にも思っていませんでした。
どんな考えを持つことも自由ではありますし、その相手を敵対視することはよくない事です。しかしながら、私は祖母から被爆の惨状を伝え聞いた者として「核兵器を持つことは、理由はどうあれ絶対に容認できません」し、その考え方を持つ人とは粘り強く対話をしていかねばならないと考えています。
核兵器をもたなければ安心できない…と考えている人は、基本的にイザヤ書59章の1から2節で「民たちが呟いていた言葉と同じようなこと」を言っていると私は思います。
つまりは「神さまなんているのかいないのか分からないし、第一自分たちのことを守ってくれはしない。結局自分の身は自分で守るしかない。だから強力な武力が必要なのだ」そんなことを呟く人が多いからこそ、唯一の被爆国でありながら「核武装やむなし」という考え方が広まってしまうのではないでしょうか?
私たちは「神は確かにおられる。その手が短くて世の中が混乱しているのではない」ということ、そして「神のせいではなく、人間の罪深さが世の中をおかしくさせている。だから、すべての人間は自分の罪を認め、創造主の前に、遜らねばならない」ということを、声を大にして伝えていきましょう。
9~15節の一つ目の文には「正義が遠く離れた」状況が描かれています。
9節には「わたしたちは光を望んだが…」「輝きを望んだが…」という言葉がでています。これに表れているようにイザヤをはじめとする一部の者たちは「神にあって正しい社会」を求めました。しかし、人々の多くは悔い改めようとはしない…そんな様子が描かれます。
これは、まさに今の世の中の現状を表すものではないでしょうか。だからこそ、私たちが「沈黙する」のではなく神のみ旨を伝え、証しすることを神が求めておられる、とのメッセージをうけとりましょう。
これが続く箇所にえがかれた「この箇所の中心的メッセージ」に繋がっていくのです。
今日の中心箇所として、わたしは15節の二つ目の文から16節の一つ目の文を挙げます。ここを深く味わいたいので、ゆっくりと私が読んでみます。
「主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた」
「とりなす」とは、ここでは「神と人との仲立ちをする」の意味です。
しかし、このイザヤ書59章の預言がなされた時、「神と人々の間をとりなす人がいなかった。そんな状況を神は驚かれたのだ」という預言がなされます。
この驚きは、良い意味の驚きではなくて「開いた口が塞がらない」といった感じの「悪い驚き」を表す言葉です。
人間はすべて神によって創造されたものですが、その人間の中で「神を愛し、隣人を愛し、その両方の仲立ちをしよう」と志す者がいかに少ないか…というこの言葉を私たちは受け止めねばならないのではないでしょうか?
私たち自身が「神と人々との執り成し手になれていない」という事実を謙虚に受け止めたいと思います。 しかし、一人でも多くの人が「謙虚な思いで、神と世界の人々との執り成し手にならせていただきたい」という思いを持つなら、世界は少しでも平和な方向へ変わることを信じています。
さて、執り成し手がいないことを驚かれた神が、ただ驚かれたままで何もされなかったのかというと、そうではありません。
59章16節の続く言葉には「主の救いは主の御腕により、主を支えるのは主の恵みの御業」と預言されていますが、これは「悔い改めようともしない罪人をも、神ご自身が一方的にあわれんでくださる」という意味だと私は考えます。
この言葉の救いの業は、神の独り子「イエス・キリスト」によって成就した、と新約時代を生きる私たちは受け止めます。その後の17節から21節では「罪からの救い主であり、一方罪の審判主としてこの世にこられるイエス・キリストがはっきりと預言されています。とくに最後の21節は「罪深い私たちが、それでもとこしえに神とともにいることができる約束」が見て取れます。これはイエス・キリストの十字架と復活があればこそ、成し遂げられる約束であることは間違いありません。
旧約聖書の中で、最もはっきりと「イエス・キリストの十字架と復活による救いの業」を預言しているのがイザヤ53章の「主のしもべの歌」です。実はこの53章の最後の12節で「多くの人の過ちを担い、背いた者たちのために執り成しをしたのはこの人であった」という言葉がでます。
神に背き、そしてお互い憎しみ合い、殺し合うような人間と、「創造主である神とを執り成すために」、神自ら、独り子キリストを送って下さった、そのメッセージが今日の箇所イザヤ書59章には溢れています。
私たちは「その執り成し手」に感謝しつつ、自らも「神と人々との執り成し手」として、祈りつつ歩むことが大切ではないでしょうか。
多くの執り成し手の存在が、分断と対立が深まるこの世界を変えることを期待し、祈ります。(祈り・沈黙)