12月29日 降誕節第1主日礼拝
「強く、雄々しい主イエス」隅野徹牧師
聖書:詩編 124編1~8節
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今日は、2024年最後の日曜日「主の日」です。今年も1年、皆様とともに神の御前で礼拝を持ち、共に御言葉に聞けたことを心から感謝します。
(今年をふりかえって ひとこと)
そんな今年最後の「主の日」の礼拝説教をどの聖書箇所から語るか、祈っていました詩編24編が示されました。題名に「強く雄々しい主イエス」という、ある意味でギョッとするような題をつけました。これは8節の後半の言葉から取ったのですが…本当は次の「雄々しく戦われる主」という題を付けようかと思いましたが、勇気が無くて断念しました。
もちろん「読んだそのままの意味」で説教を語るつもりはありません。わたしは、神の名を用いたり、信仰を理由にした「あらゆる戦闘行為」に断固反対します。
では…ここで詠われている「強く雄々しい主イエス、雄々しく戦われる主イエス」とはどんな意味なのか…そのことで私に示されたことを語らせていただきます。
先に言ってしまいますが、「来年、少しでも平和な世界になってほしい。そのために、生きて働きたもう主イエス・キリスト」を祈りながら、心で待ち望みについて皆様とともに考えてまいりたいと願います。
最初にこの詩編24編が詠われた「背景」をお話します。
1節にあるようにこの詩は、ダビデに由来する詩であります。この詩は、ダビデが王宮をたてて、自分自身が王として入城するときのことを思い浮かべて歌った「誌」に由来するのではないかと言われています。 神の掟が書かかれた板が入っていたと言われる「契約の箱」をその町に運びいれたとき、神の栄光やきよさというものを感じたということが旧約聖書のいくつかの箇所で出てきますが、そのときの「神のまえに、畏敬の念をもつ、へりくだりの思いをもつということが」詠われているのです。
7節以降に繰り返して出てくる「栄光に輝く王」とは、もちろんダビデのことではなく、また自分以外の「人間の王様」のことを言っているのでもありません。
ここで詠われている「栄光に輝く王」とは、神が送って下さる救い主のことを指しているのです。その後の歴史を知っている私達は、ここでいわれている「栄光に輝く王」が、神の独り子イエス・キリストを指し示していることが理解できることでしょう。
しかしダビデ王がこれを読んでから、少し経った頃、イスラエルの周りには次々と強く、大きな国々が起こり、イスラエルは戦いに敗れ、支配されてしまいました。国を奪われ、自由を奪われ、高い税金を取り立てられ、そういう苦しみの日々が続きました。
そういう中で、イスラエルの人々は、「栄光に輝く王」が現われて、敵を打ち破り、もう一度イスラエル王国を復活させてくれることを願いました
しかし…実際にこの世に、そして「イスラエルに」来られた「栄光に輝く王」は彼らが待ち望んだ王とは違ったのです。
この後、この詩編24編の各節を掘り下げながら、聖書が証しする「本当に栄光に輝く王」について見てまいります。
まず1節2節は「創造主である神の偉大さ」について語られます。続く3~6節では、その偉大な栄光に輝く神に「どのような人が出会うことができるのか。そしてどんなものがもたらされるのか」ということが示されています。 (※ここは大切なので読んでみます)
4節に「潔白な手と清い心を持つ人」が主の山に上り、神と会うことができると言われています。そして祝福を受けることが5節で語られています。
ここで言われている「潔白な手と清い心をもつ人」とは誰か…それは「自分の心の中を洗いきよめてもらいたい」と、素直に、神の前に自分の心を差し出せる人です。つまりは「神の前に遜ることのできる人」です。
自分への評価が数値化され「自分はこんなにすごいのだ!」と驕り高ぶりやすい今の世の中です。また「自分は正しいことをいっている!」と自分を正当化しつつ、他の人を責めることが容易になった世の中です。
だからこそ!私たちは「自分は力の小さい、弱い人間だ、自分は間違った、罪のある人間だ」と認め、そして「神さま、こんな私をお赦しください」と祈る。つまりは…「主に洗い清められようとする心を持つ」ことが、終わりの日に「主の山にのぼり、聖所に立つ」つまりは「神の御前にでるときの祝福」につながることを信じています。。
この流れで7~10節の「強く雄々しい救い主」「栄光に輝く王が来られる」ことが歌われているのです。ここは「今朝の中心的部分」です。
(※大切なので読んでみます)
7節で歌われているのは、王の行列が「城の門に入る情景の描写」です。ダビデの時代、王の列は「都の閉ざされた門の前で立ち止まり、門を開ける要求をする」のが慣習になっていましたが、まさにそのことが描かれているのです。
それに応じるかのように、8節で王の名が確認される場面が描かれているのです。
「入ってくる王の名は何であるか」という問いかけに対し「強く、雄雄しい主。雄雄しく戦われる主だ」との答えがなされるのだ、と詠われています。9節と10節で、その答えが繰り返されます。
ダビデは「自分ではない、万軍の主が将来来てくださるのだ」という希望を歌っていることが分かるのではないでしょうか。
冒頭からお話ししていますが、この部分で最も注目すべき言葉は、「8節」で間違いありません。
「栄光に輝く王」ですが、それは「主であるお方なのだ」ということを詠っています。つまり「人間の王」ではなく「主なる神様ご自身」だということなのです。
そして、この「栄光に輝く王としてこの世に来られる主なる神」が「強く、雄々しい」そして「勇ましく戦う」と詠われます。
この詩が詠われてからから数百年もの時が流れ、イエス・キリストがお生まれになりました。イエス・キリストは、人間が思い描くような「栄光に輝く方」ではありませんでした。
生まれた時もそうです。王様のお城に生まれたわけではなく、さびしい家畜小屋に生まれ、家畜が草を食べる飼い葉桶に寝かされました。 育たれたのも、大工の仕事をするごく一般の家庭でした。だから、イエス様を「神の子であり、王であり、救い主である」となかなか気づけなかったのです。
このようイエス・キリストの「栄光」は「仕事ができるとか、ずばぬけた運動能力があるとか、地位や権力を持っているとか、財産を持っているとか…」そういうこの世の「栄光」と同じものだと思っていたら、キリストの本当の姿には気づけない…そのように私は思っています。
8節が、預言的に示している「強く、雄々しい」そして「勇ましく戦う」王なる主はこの世の「軍事力にたより、圧倒的な力を誇る王様」のことでは「もちろんない!」のです。
「強く雄々しい」と詠われますますが、イエス・キリストの強さ・雄々しさとは何かというと「相手を徹底的に愛される、その愛の大きさと深さ」だと理解します。また「勇ましく戦われるお方」とも詠われていますが、それは「人間を力で打ち負かす」のではありません。そうではなくて「この世にはびこり、人間を滅びに至らせる悪」に対して勇ましく戦われるお方なのだということなのではないでしょうか。
すべての人間が、創造主である神の御心に従って歩めるように、そして周囲の人を愛する憐れみ深い人になるように!!そのために「強く雄々しく、悪と戦って下さる」お方なのです。それはなによりも「十字架と復活」にあらわれています。
年の最後に、私たちは今一度「イエス・キリストがその生涯を通して表して下さったもの、教えてくださったものが何であるのか」を心にとめましょう。
最後に「この箇所から、今の時代に生きる私たちが読み取るべきこと」として私が示されたことを「結び」として語らせていただきます。
それは「イエス・キリストがどんなお方か」を理解するためには、「謙遜になり、自分を低くすること」が絶対に必要だということです。
今の世にも、「キリスト教信者だ」といいながら、「力で相手をなぎ倒す」ことを良いことだと思い込む、そして悔い改めることなく「自己正当化」する人がいかに多いかということを思います。とくに今年2024年は、そういうことを感じた1年でした。
一人ひとり「自分が主になりかわっていないか、どうか」ということを問うことが出来るように、素直に自分を顧みることができるように地道に祈っていきたいです。
イスラエルの人々は、イエスが公生涯に出られた時「この方こそ、長い間待ち望んで来た栄光に輝く王ではないか!」と考えました。今日見た24編の8節のような旧約聖書の言葉を捉え間違え「イエスこそが、イスラエルを諸外国の支配から力で解き放ってくれる指導者だ」と思ったのです。
しかし、イエスがそういうことはなさらない、と分かると一転「十字架に架けろ!」と叫んだりしています。ほとんどの人が、イエス・キリストを「本当の世界を治める王であり、救い主だ」と信じ、受け入れることが出来なかった…その原因は、やはり「いまの生活と比べ、もっと豊かな生活をもたらしてくれる存在がほしい」という「自己中心な思い」が強かったことではないでしょうか?
いまの世界もそのような「自分や、自分の仲間が豊かであることが何より大切だ」との考え方が蔓延しています。しかし、その考え方でいる限り、本当の意味で「心からキリストを信じ受け入れる」ことにはつながりませんし、3節にあるような「主の山にのぼり、聖所に立つ」ことはできないのではないでしょうか。
イエス・キリストを「自分の心の中の主」として迎える準備は出来ていますか? 自分を悪から、そして「強欲から」救いだしてくださるために「雄々しく戦って下さる」救い主としてイエス・キリストをお迎えすることで、「新年」を良い形で迎えましょう。 (祈り・沈黙)