
2月22日 受難節第1主日礼拝
「律法を心に記す」 隅野瞳牧師
聖書:エレミヤ書 31:27~34
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本日は、神の思いが心に記される時、私たちは心の底から変えられるということについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。
1.自分の罪を認められるようになる。(29節)
2.神の思いが心に記される。(33節)
3.罪が赦され、すべての人が主を知ることができる。(34節)
1.自分の罪を認められるようになる。(29節)
エレミヤはバビロン捕囚の前の時代に、南ユダ王国に立てられた預言者です。罪を犯し続ける民に、主のさばきがあるという厳しい預言を語るように、主はエレミヤに命じられました。エジプトに頼るのではなく主に立ち帰るように、エレミヤはくりかえし伝えてきましたが、民は聞く耳を持ちませんでした。
預言者は、時に人々の聞きたくないメッセージを語らねばなりません。私たちは望まない場所に行くようにされることもありますが、そこで悔い改めて主を求め、御言葉に向かい合うのです。しかしそれは人間には受けいれがたいことです。エレミヤは士気をくじく者、民に災いを求める者とされ、牢に入れられてしまいます。やがてユダの国はバビロンに占領され、有力者は連れていかれ、エルサレムの都も神殿も徹底的に破壊されます。その廃墟の中で、エレミヤに救いの預言が与えられるのです。
「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る…今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている。」(27~28節)
さばきの時は終わり、荒廃した地に神ご自身が命の種を蒔いて、命が満ち溢れるようにしてくださるという約束です。この日とは、イスラエルの人々が解放されてエルサレムに帰る日であり、さらに救い主イエス・キリストがこの世に来られる時を示します。
「その日には、人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く』と。」(29節)これは当時のことわざで、親が罪を犯したから子が報いを受けているのだということです。自分は何も悪
いことをしていないのに捕囚民として生きるのは先祖たちのせいだと、ユダの民たちは嘆いていましたが、
彼ら自身も神に背き続けていました。責任を転嫁するところには、救いはありません。しかし主が来られる
時、人が裁かれるのは自分の罪のゆえだと自覚するようになります。
聖書を読む時、出てくる人たちはなんと愚かで残酷なのかと感じるかもしれません。しかしその人たちは実は私なのです。私が聖書に描かれている。そこにいたら私も同じことをしたのではないでしょうか。聖霊が私たちの心にお働きになる時、聖書の言葉が私に語られているものとして迫ってきます。御言葉の光に照らされて、私の内にある罪が示されます。罪を認める時に私たちは主の光に照らされ、罪がきよめられて光となるのです。
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」(31節)
出エジプトの後、約束の地に向かう途中で、主なる神とイスラエルの民が結んだのが、最初の契約です。石の板に刻まれた十戒と、それに連なるものです。民はエジプトから救われただけでなく、シナイ山で十戒をいただき契約を結んで、そこから神の民としての歩みが始まりました。契約は双方の合意で成立し、法的な拘束力を持つものです。違反すると守るように強制されたり、損害賠償しなければなりません。
最初の契約は、主がイスラエルを守り約束の地に導き入れ、祝福するというものです。神に仕える祭司の国、聖なる国民とし、主に従うならば収穫や、平和、健康に恵まれます。そしてイスラエルの民は、神の戒めである律法を守ると誓いました。主のみを神としてあがめ、弱者を助けるなど、神の民にふさわしい生活を国々の中で守るというものです。神の御心、愛と聖さの基準である律法に従って、民が祝福と命を選ぶよう主は願われました。この契約は動物の血によって結ばれました。それは本来死ぬべき罪ある者が身代わりの命によって赦され、主の御前に出ることが許されたことを覚える、厳粛なものでありました。
主は契約に真実であられ、イスラエルの民を愛をもって導き続けられました。しかしイスラエルの民は、始めは真剣に誓ったのですが、律法を守ることができませんでした。不安になったり富の誘惑に陥ると偶像礼拝をし、心地よい言葉だけを聞き、弱い者が虐げられる腐敗した社会になっていました。主は預言者によってくりかえし、立ち帰るよう語ってこられましたが、民は偶像礼拝を続けました。そしてとうとう捕囚となったのです。これは信仰共同体の危機でした。
しかし彼らは捕囚を通して悔い改めに導かれていきました。自分は神の基準を守れない罪人であると自覚し、救い主を求めるように、彼らは律法を通して導かれたのです。神は彼らを愛するゆえに、その悔い改めを見ないで済ますことはできませんでした。そして時が来れば必ず帰還できること、新しい契約を結ぶことを約束してくださいました。
エレミヤが預言した新しい契約は、イエス・キリストの十字架による救いとして実現しました。主イエスは弟子たちと過越の食事をともにされ、ご自身の命によって私たちの罪が赦され、永遠の命に生きる者となることを示されました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ22:20)
私たちはすぐに神から離れ、滅びを選んでしまう者です。だからこそキリストが十字架につき、神の呪いを受けた者となって、私たちを救ってくださったのです(ガラ3:13)。十字架と復活によって、御子は父なる神の御心に完全に従い抜かれました。御子が律法を完成してくださったので、私たちは神に従った者とされました。神と共に生きる永遠の命をいただきました。それは私たちから、祝福が周りの人にあふれて世界に満ちるためなのです。
主イエスを信じる信仰によって救われた私たちは、愛の律法に従います。最も大切な律法は、神を愛し、隣人を自分のように愛することであり、この本質は変わることがありません。信仰によって救われた者は恵みの中で、愛に従って生きるのです。神のみを畏れるとは、人を恐れる必要がないということです。傲慢な自分に気づいたら、御子のへりくだりに倣う歩みに導いていただくよう祈ります。御心を理解し、信仰生活を送るための道しるべとして、律法は引き続き必要です。少しずつでも、旧約聖書を通して恵みをいただくことにチャレンジしていきましょう。
2.神の思いが心に記される。(33節)
「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(33節)
新しい契約は、心に刻まれるものです。主に従いたいという思いとともに、行う力も与えられます。私たちであれば、契約を破り続けるような相手は信頼できませんから、二度と契約を結ぶことはないでしょう。しかし主なる神はどこまでも愛する方なのです。契約そのものは更新されていません。けれどもそれを行えない民が変わらなければなりません。新しい契約関係は、神の赦しから始まります。
石に記された律法は、人の外側にあるものです。自分が変わらないままで律法を行うことになります。能力のある人、律法を守れる環境にある人はよいですが、病気や貧しさ、職業や国籍によって、礼拝やささげものの規定を守れない人がたくさんいました。富める青年やニコデモのように、律法を行うことによる救いに限界を感じ、真理を求めていた人もおりますが、律法学者と言われる人たちは、守れない人を下に見て教えたり、排除していました。そしてこの、律法に精通している宗教指導者たちは、主イエスが救い主だと悟ることなく、十字架刑にしたのです。自分が変わらないままで聖書を持つならば、自分を正しいとするために神を有罪とし、人を傷つけることもありえます。
しかし神は私たちの弱さをご存じであり、私たちの心そのものを造り変えるようになさいました。それが、心に律法が記されるということです。自分は罪に対してキリストと共に死に、復活の命をいただいて、神に対して生きる者とされました。心に記された神の思いは私の思いと一つとなって、常にゆくべき道を示し、力を与えてくださるのです。「霊の導きに従って歩みなさい」(ガラ5:16)とありますように、心に記された律法は、聖霊の語りかけです。その導きに従う時に、私たちは豊かな愛の実を結びます。
「心に記す」というと、私は讃美歌第2編228「こころに主イエスを」を思い出します。バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」の曲に歌詞がついているものです。「心に主イエスを宿せる我らは、日ごとに夜ごとに力を賜る。わが主は愛もて我らを贖い、その身を与えて救いたまえり。」神がどれほど私たちを愛しておられるかを、見える形で表してくださったのが御子です。罪から救われ、主とともに生きるようになった私たちは、命そのものが変えられました。御子がその身を与えてまで救ってくださった感謝が、主に従いたいという願いを起こさせます。
はじめは家族の付き添いで来た教会だったけれども、いつしか自分が望んで行くようになった。それは心にキリストが入ってこられたということです。主イエスと出会ったサマリアの女は、「彼が救い主かもしれない」と町の人たちに伝えました。まるで別人のように生き生きと話す彼女の様子を見て、人々は自分も会ってみようと思ったのです。その後は「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に救い主であると分かったからです。」と言っています(ヨハネ4:42)。サマリアの女や町の人々のように、自分の内に福音が刻まれる時があるのです。
パウロは新しい契約が心に記された信徒たちについてこう語っています。「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」(Ⅱコリ3:3)私たちの生きる姿を通して、周りの人が神の恵みを知る。主は私たちをそのような存在にしてくださるのです。
3.罪が赦され、すべての人が主を知ることができる。(34節)
「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」(34節)
新しい契約が結ばれ、心に律法が記されると、人々は「主を知れ」と互いに言うことはなくなります。「主を知る」というのは、単に知識をもつということではありません。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。」(詩編100:3)人が自分勝手に作った神とはまったく違う、私たちをお造りになった方、
導き手である主がおられることを認め、その愛と御力に信頼し、御心に従って生きることです。それはまた自分が造られた者にすぎないことを覚え、感謝と謙虚さをもつことでもあります。
そして「知る」というのは、関わりをもつことです。「こんなことをするなら、もう知りません。」と言われるとつらいですね。これは、あなたがどうなっても私は一切関わらないし助けないということですが、主のほうから、こんなふうに関係を切られて当然のことを私たちはしてきました。しかし主は私たちの罪を赦し、神の愛の交わりの中に入れてくださいます。これが主を知るということです。神はどのようなお方で何を願っておられるのか、主と共に生きる中で誰もがわかるようになります。
「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソ3:18~19)ぜひあなたが知らせていただいた主のすばらしさを、分かち合ってください。またここでは、主を知るだけでなく、主の愛の豊かさが私たちにも分け与えられ、満たされるようになるとあります。すばらしい恵みです。
「主を知れと言って教えることはない」とは、福音を人に伝えなくてよいという意味ではありません。そうではなくもっと本質的なところで神を伝えるのです。知識として、また強制的に教えることではなく、聖霊の働きによって神と直接出会うことが起こります。もちろんそこに至るまでのとりなしの祈り、自ら聖書を読むことは必要ですが、最終的にはこの人がきっと主に出会う時が来ると信じて、おまかせすることです。
神はまだご自身に立ち帰らない、悔い改めていない彼らに 罪の赦しを宣言し、律法に従う意志と力を持つ心を彼らの中に造り出されます。旧い律法のもとでささげられた動物の犠牲は、主イエス・キリストの十字架の血を表すものでした。キリストの血は一度限りの犠牲として、人の罪を完全に拭い去り、神との新しい永遠の契約が立てられました。罪は、努力や修行によっては取り除かれることはできません。神御自身が私たちのもとにおいでになり、心の最も奥底に神の思いが刻まれることが必要です。悔い改め、喜んで自発的に神を愛し、人を愛するようになる恵みは、神によってのみもたらされます。
神がイスラエル、そして私たちの罪を赦して忘れてくださるのは、キリストが私たちの身代わりとなり、裁きを受けてくださったからにほかなりません。新しい命を受けた者としてそのことを心に刻み、主が何をせよとお語りになっているか耳をすまし、せいいっぱい主にお応えする受難節としたいと思います。
驚くべき救いの恵みが崩壊の時代に告げられた、これは私たちにとって大きな希望です。御子を信じる者は滅びることなく、永遠のいのちを持ちます。あなたの罪をもう思い出さない、と主は言ってくださいます。「今や、恵みの時。今こそ、救いの日。」(Ⅱコリ6:2)「その日」は、今来ています。御声を聞いたなら、お従いしましょう。どんなに主から離れてしまっていても、主が手を差し伸べてくださいますから、大丈夫です。神の民となることは、平安であり慰め、また力です。ここに集われたお一人おひとりがもれなく、主の助けによって、御旨にかなう喜びの日々を歩む者となることを信じます。
