7月27日 聖霊降臨節8主日礼拝
「御言葉を生きる」 隅野瞳牧師
聖書:マタイによる福音書 7:15~29
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本日は生きた信仰のしるしについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。
1.どんな実を結ぶか、時間をかけて見極める。(17節)
2.天の父の御心を行う者が天の国に入る。(21節)
3.御言葉を聞いて行う者は、嵐にも倒れない。(25節)
1.どんな実を結ぶか、時間をかけて見極める。(17節)
「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。…すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」(16~17節)
今日の箇所は、5章から続いた山上の説教の最後の部分です。主イエスはこれまで語られた御言葉を聞いて終わるのではなく、御言葉を生きる者となるように願っておられます。最初の段落では、偽預言者を警戒するように語られています。彼らは羊の皮を身にまとってくる狼のように、穏やかな姿でやって来るというのです。
神の言葉を預かり、それを民に伝える務めが預言者です。旧約聖書のイザヤ書以降、またモーセやエリヤ、洗礼者ヨハネも預言者とされます。神の御前に出てその御言葉を直接聞くことは、罪ある人間には恐ろしいことでした。そこで神はモーセや他の預言者をお立てになり、彼らは神と民の間にあって、存在をかけて御言葉を伝えてきたのです。預言者は神に召されてこの務めにつき、民と社会に対するメッセージを伝えてきました。しかしイスラエルの民は、心地よい言葉を語る偽預言者に惑わされて神の道を離れてきました。私たちの周りにも巧みに近づいてきて、神から離れさせようとする存在が現れることがあります。現代では、インターネットを介した情報にすぐ影響されてしまわないように、注意しなければなりません。
偽預言者は外とのつながりを遮断し、わかりやすい答えをすぐに出すことで、「何かおかしいのでは?」と自分で考える間を与えないようにします。しかし真の預言者は自分の思いではなく神の御心を伝え、自分の内側に、また今生きている世界にまっすぐ目を向けさせます。エレミヤなどを見てもわかるように、真の預言者は迫害を受けても、厳しい御言葉を語らねばなりません。預言が実現するまで長い年月がかかることもしばしばあります。預言者は神と深い交わりをもち、神の愛と義、生きること、救いを語ります。
偽預言者を見分けるには、彼らがどのように生きているかを見ることです。善い行いというよりも、内からあふれる人格です。それは果樹の良し悪しがその果実によって明らかになるのと同じです。キリストの愛につながる時に私たちにはキリストの命が与えられ、豊かに実を結ぶはずだからです。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15:5)「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラ5:22-23)この実は本人だけに実るものではありません。預言者の言葉を通して人々が神の思いを知り、悔い改めに導かれ、神と隣人と共に生きるようになっているかどうかを、よく見ましょう。偽預言者たちは実を結ぶのではなく、自分の欲望を満たすために業を行います。そこには争いが起き、周りの人の人生も壊していきます。このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
実が実るまでは時間がかかります。主イエスは刺激的な新しい言葉に飛びつくのではなく、本物の預言者かどうか、時間をかけて出てくる本質を見極めるよう言われます。心地よく、自分を肯定してくれる人の声だけを聞いてしまいがちですが、自分にぶつかってくる人や、声を出せない人を通して主はお語りくださいます。自らを正してくださる主の御声を聞きましょう。
2.天の父の御心を行う者が天の国に入る。(21節)
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(21節)
続いての箇所では、終わりの日に主の御前に出ている人々について語られます。「主よ」は礼拝において神に呼びかける祈りや賛美などの信心深いふるまいを表しているのでしょう。それに続く文では、主の御名によって熱心に伝道や奉仕をしたとしても、そのことによって天の国に入れるのではないというのです。しかし「天の父の御心を行う者」は入れると。どちらも同じ行いではないのでしょうか?
いいえ、本質が違うのです。外から見て同じ行いをしていても、内なるものが神につながっていないなら、本当の実りはありません。ここで弁明をしている人たちは、主よ、主よと呼びかけていながら実は神と交わりをもたず、御心を知らずに、自分の業こそ神が喜ばれることだと思っていたのです。「御心」とは人間の意志ではなく、人間に向けられた神の意志です。ここで言われているのは、天の父の御心を行っている人がいるならば、この人は本当に悔い改めて信じていると分かる、ということです。
伝道や愛の業に熱心なのはすばらしいことですが、「私の祈りを神様が聞いてくださった。〇人を救いに導いた」と、主の御名を利用して自分を誇っているならば、御前に愚かなことです。主の御名を自分の栄光のために利用してはなりません。私たちが「主」とお呼びする、それは「私はあなたの僕(しもべ)です」という告白です。主は聖なる方、本来私たちと交わりえない絶対者であり、永遠から永遠まで統べ治めたもう方です。しかし御子をお与えになるほどに私たちを愛してくださる方なのです。私たちは愛と畏れをもって「主」とお呼びします。私たちが何事かをできたとすればただ恵みによるのであって、僕としてなすべきことをしたにすぎません(ルカ17:10)。
さて、ここに出てきた人たちは主の御前に、御名によって成し遂げてきたことを挙げています。もし私が同じところに立たされたらどうでしょうか。自分なりに一生懸命仕えてまいりましたが、救われる方のことを思っても、隣人への愛も祈りも足りなかったです…。こう申し上げるしかありません。けれども主は、そのような実績で私たちを評価して救うのではないのです。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(ヨハネ6:29)「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」(ヨハネ6:40)ただ一人御心を完全に行われた御子を信じるなら、私たちの罪は赦され、御心を行った者と見なしていただけます。
御心の中心はすべての人が罪から救われることですが、御心はもっと広いものです。見捨てられた者に触れて病を癒し、食事を共にすることを喜ばれた主イエス。十字架の御子を仰ぐ時、御心がわかります。御父の心を心とする者は、自分の弱さを尊いものとします。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)主によって預言者とされた人たちは、自分から預言者であるとは語りませんでした。逆に自らの罪深さにおののき、ふさわしくない者であると辞退し、預言者になってからもその務めの厳しさのゆえに語ることをやめようとする。けれども主の助けによって、その使命を成していきました。御名を呼んではいても自分を誇る者と、主にのみ栄光を帰す者の違いがここに現れています。
御心を知るためには、御言葉に聞き祈ることです。家族や友人と一緒に過ごしていても、何も話さないでいると、わかったつもりで誤解していることもあります。話を聞くと心が通じ合い、相手が何を願っているのかがわかってきます。そのように、主イエスを通して父なる神とたくさんお話ししましょう。今、私が御心を行うとはどのようなことですか、教えてください。従うことができる勇気をお与えくださいと、祈ってまいりましょう。
3.御言葉を聞いて行う者は、嵐にも倒れない。(25節)
「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(25節)
最後に主は、御言葉を聞いて行う人とそうでない人の人生を、二つの家のたとえで語られました。私たちの人生の土台、最も大切にしているものは何でしょうか。それは、揺るがないものですか?
イスラエルの荒野には、乾季には干上がって砂漠の中の道になりますが、雨季には川となるところがあります。もちろんそこに家を建ててはいけないことを、民たちはよく知っていました。乾季に泥のレンガで建てられた家は、嵐が来て初めて、それに耐えうるかどうかわかります。ここで岩というのは揺るがぬ方である神・キリストであり、さらにその御言葉を聞いて行うことです。砂は滑りやすいもので、ここでは移り変わるこの世のものを指しています。
御言葉を聞いて行う、これは前の箇所から続いているメッセージです。聖霊が内に住まわれる時、私たちに御言葉に従いたいという願いと、それを行う力が与えられます。それはキリストを信じる信仰の岩の上に、人生が建てられることです。自分でどうすることもできない試練、信仰のゆえの苦しみが襲ってきても、倒れることがありません。しかし御言葉を聞くだけ、つまりキリストを受け入れず、自分は一向に変わろうとしないのであれば、砂の上に建てた家のように、嵐が襲うと倒れ、その倒れ方はひどいものとなります。
岩の上に家を建てるのは、大変な時間と労力がかかったでしょう。同じ時に家を建て始めたとすれば、砂の上に建てた人はもう完成間近なのに、岩の上の人はやっと基礎工事が終わったところです。主を信じ御言葉に従うことは、この世のやり方からすれば、遠回りで効率が悪いように思えるかもしれません。しかし基礎がしっかり定まると家が倒れないように、御言葉を土台とするならば、私たちの人生も信仰も立つことができるのです。
自分のがんばりに信仰の土台を置き、善い行いや熱心さによって救われると思っているならば、いつか十字架の前のペトロのように倒れます。けれども主は、砂の上に建てたものは必ず倒れる、倒れてはじめて、土台から建て直すことができるのだと、そのようなご計画をもって私たちを新しくしてくださるのです。これから信仰の危機に陥るペトロに、主はあらかじめ語っていてくださいました。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)あなたが手を離しても、あなたは私の祈りの手の中にある。あなたのために私は十字架につき、復活する。だからあなたは立ち直って、今度は同じように倒れている兄弟たちを立ち上がらせる器になれるのだと。なんという憐みでしょう、すでに使命が与えられているのです。それは、倒れて立ち上がらせていただいた人でなければできない務めです。私たちも同じように、罪と死から救われ、立ち上がらせていただいたからこそ、主イエスの救いを伝え、慰めを運ぶことができます。そのために招かれているのです。
私たちは一人で岩の上に家を建てて、嵐に耐えるのではありません。岩なるキリスト、そして教会の兄姉の祈りによって信仰が支えられてこそです。自分自身を振り返ると、大きな苦しみや誘惑にあった時、自分の力だけでは神に従うことはできませんでした。それでも主につながり続けることができたのは、私の内に永遠の命を打ち付け、自ら土台となってくださった御子によります。これが自分が経験してきた「倒れない家」です(Ⅱコリント4:7~9)。
一人ひとりの信仰だけでなく教会もまた、主イエスを救い主と信じる信仰の岩の上に建てられています。「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。』(マタイ16:16−18)
「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」(Ⅰコリント3:11)
「主は教会の基となり(讃美歌21-390)」、私の愛唱歌です。御言葉と十字架の血潮がこの教会の土台なのだという原点にいつも立ち帰ってまいりたいと思います。牧師が欠けたる器でも、どんな問題が起こっても、主の教会だから大丈夫。この平安のうちに歩めることは幸いです。
主イエスが語り終えられると群衆は、神の権威を持つ方として、生きた御言葉を教えられたことに驚きました。解釈を暗記して解説した律法学者とは違いました。主イエスご自身が神のことばであられるからです。神がお語りになる言葉が私たちの存在に入る時、なかなかいいことを言っているな、では済まされません。
あなたは私の言葉にどう応答するか、と問われるのです。
聖書を学ぶだけで、信仰生活ができるようになるのではありません。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)信仰と行いは一体であって切り離せません。信じるなら、従うのです。現実に生きる中で御言葉に従い、御言葉を体験する。そうでなければ、信仰の恵みをほとんど味わっていないことになります。「敵を愛する」…やってみたけれども、できない。愛のかけらもない。そういう自分の現実という壁にぶつからなければなりません。そこから、まさに御言葉を生きられた主イエスの助けを求めることが始まります。失敗を重ねながらも主の恵みによって従うことができた時に、大きな感謝と喜びが与えられることでしょう。主は御言葉の通りになさる方だ、この体験を積み重ねることが、人生の嵐が襲ってきても揺るがぬ土台となり、信仰の道を歩み続ける力となります。
自分だけで、頼りになりそうなものを探しては不安になっている人生から、神と共に生きる人生に招くために、主イエスは山上の説教をお語りになりました。すべてのものが変わり失われようとも、主の救いは変わることがありません。御言葉を生きる者になりたいという思いが与えられたなら、それを成させてくださる主を信じて一歩踏み出しましょう。あなたは一人ではありません、励まし合ってこの道を歩んでまいりましょう。