1月19日 降誕節第4主日礼拝
「御言葉を食べ、語りなさい」 隅野瞳牧師
聖書:エゼキエル書 2:1~3:4
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本日は、御言葉を聞き入れないとわかっているユダの民に対して、それでも御言葉を語る使命に召された預言者エゼキエルについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。
1.神の語りかけと聖霊によって、私たちは立てられる。(2:1~2)
2.相手が聞き入れても拒んでも、恐れずに主の言葉を語る。(2:7)
3.嘆き苦しみの御言葉を食べる時に、まことの甘さを知る。(2:10,3:3)
紀元前597年、南ユダ王国はバビロンに国を征服され、王や貴族、軍人、祭司など多くの有力な人々が連行されました。その捕囚民の中にエゼキエルがいました。捕囚となって5年がたった時、栄光の主がエゼキエルに御自身を顕してくださいました。エルサレムから遠く引き離された人々は深い痛みを感じていましたが、エゼキエルは神がバビロンにもおられるだけでなく、彼を用いて御言葉を語ってくださることを、ここで体験するのです。
1.神の語りかけと聖霊によって、私たちは立てられる。(2:1~2)
「『人の子よ、自分の足で立て。私はあなたに命じる。』彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。」(2:1~2)。
主の栄光に圧倒されてひれ伏していたエゼキエルに語りかける声があり、神の霊が彼を立たせました。そして主のお語りになることを聴く心が整えられました。エゼキエルが枯れた骨に預言する場面が37章にあります。骨に預言すると、それらは生き返って自分の足で立ちました。そのように主の御声に耳を傾ける者は、自立した生きた信仰者として造り変えられます。またここでは、主のご用に仕える預言者として召されたということも表しています。
「人の子よ」と主は何度もエゼキエルに呼びかけられます。そのたびに彼は、自分が神に造られた、弱さや限界をもつ人間であることを知らされます。しかし主の霊が入る時に彼は用いられるのです。主と隣人に仕える時に、自分の愛のなさや弱さを覚えますが、主により頼む時に聖霊が私たちに注がれて、ご用を成し遂げることができます。
「人の子よ、私はあなたを、イスラエルの人々、私に逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様私に背いて、今日この日に至っている。恥知らずで、強情な人々のもとに、私はあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう」(2:3~5)。
イスラエル、そしてユダの民は神に意図的に逆らい、自分の罪を恥じず、悔い改めることをしませんでした。主の恵みによってエジプトから救い出されて約束の地に導かれても、民は神を忘れ、繰り返し語られる警告を聞かずにバビロン捕囚を招きました。主に背き続けた罪は非常に重く、悔い改め痛みを負わなければ、捕囚からの解放はないことを民に語りなさい、それがエゼキエルに与えられた使命でした。捕囚は神が悔い改めを求めておられるしるしです。ところが人々は、捕囚は間もなく終わる、神が私たちを見捨てるはずはないという偽の預言者を支持し、エジプトと軍事同盟を結ぼうと考えました。人は自分に都合のよい、心地よい言葉を語ってくれる人を好むものです。しかしそれは本当の解決にはなりません。ついにエルサレムは滅亡し、残りの民も捕らわれていったのです。
ユダの人々は同国人ですから言葉は通じますし、まことの神を信じる信仰を同じくしているはずの神の民、また捕囚というつらい経験を共有しています。けれども彼らは、エゼキエルの語る主の言葉を聞きませんでした。主は、彼らが聞いても拒んでも関係なく、あなたはわたしの言葉を語らなければならないと、エゼキエルに告げられました。まことに厳しい使命ですが、それは神が反逆するユダの民を愛し、決して見捨てられないからです。捕囚の民がエルサレムに帰ることを望む前に、まず彼ら自身一人一人が神に立ち返らなければなりませんでした。主の望みは、民が悔い改めて主に立ち帰り生きることでした(18:30~32,33:11)。
2.相手が聞き入れても拒んでも、恐れずに主の言葉を語る。(2:7)
「人の子よ、あなたはあざみと茨(いばら)に押しつけられ、蠍(さそり)の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。」(2:6~7)
人が聞き入れようが聞き入れまいが語るというのは、つらい務めです。彼を通して語られる主の御言葉は、聞かれないどころか、ひどい目に遭わされるかもしれません。エゼキエルと同じく、福音を伝えなさいという主の招きにお従いする者は、恐れ、逃げ出したい気持ちを持つのです。エゼキエルは民の聞きたいことではなく、神の言葉を正しく語るよう命じられました。預言者や牧師に限らず、すべて主の救いを受けた者は、神から聞いた言葉を足し引きせずに、御言葉を利用して自分の思いを語ることなく、伝えなければなりません。そのためにはまず、自分自身がその御言葉によって照らされることが必要です。語る者が最も、御言葉の前に自らを問われます。厳しくも、大きな恵みです。
分かりやすく言いなおしたり、興味を引く話を使えば聖書が伝わるかというと、なかなか伝わりません。それは、人間の力によっては御言葉を悟ることができないからです。主が招き、心の目を開いてくださることがない限り、御言葉の種は芽を出しません。うわべだけ、自分に役に立ちそうな心地よい言葉は受け取るものの、基本的に人は神を拒みます。このような現実があることをふまえて語らねばなりません。しかし思い返す時に、自分もかつてかたくなで、聞いてはいるが自分のこととして聖書を信じることのできない者でした。この私が今こうして救われているのです。
「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。…この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒18:9)伝道者パウロですら、福音を伝えることに恐れを抱いていました。しかし主は彼と共にいまし、キリストの命が彼を生かして宣教を続けることができました。御言葉を語ることは簡単にはいきませんが、語るものは必ず恵みを受けます。聞いてくれないと感じても、何か一片でも心に留まっているものがあるかもしれません。この町に、主を求めている方が必ずいることを信じ、忍耐して祈り、伝えましょう。御言葉を勇気をもって伝えようとする友のために、祈りましょう。
「『人の子よ、私があなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、私が与えるものを食べなさい』。私が見ていると、手が私に差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれを私の前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻(うめ)きと、嘆きの言葉であった」(2:8~10)。
主は「聞きなさい」と言われます。神はエゼキエルに、ユダの人々と同調するのではなく、ご自身が与えるものを食べるよう命じられます。それはユダの背きの罪を糾弾し、バビロンがユダを滅ぼすと告げる御言葉が書かれた巻物でした。
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8:3)この御言葉によって、主イエスは悪魔の誘惑に勝利されました。御言葉は霊の糧であり、私たちをまことに生かすものです。それは「すべての言葉」、自分にとって苦いと思える御言葉も含みます。主は日ごとの食事のように御言葉を求め、それによって生かされるよう教えておられます。単なる知識ではなく、血となり肉となり、私たちそのものとなっていくまでにです。聖霊の助けを求めて聖書を読み、この御言葉を通して主は何を語っておられるか、自分はどう応答するかを思いめぐらす。そして行動する。御言葉と祈りを積み重ねている方は、はっきりわかります。必ず成長し変えられていくからです。
聖書において最も重要な「食べる」は主イエスのお言葉にあります。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。…これは天から降ってきたパンである。…このパンを食べる者は永遠に生きる。』」(ヨハネ6:54,58)ヨハネ1章では、人となった御子は神の言であると語られます。つまり御言葉を食べるとは御言葉によってキリストに出会い、信じ、キリストによって生きる者となることです。主が中心に生きてくださって、自分の命の軸が根本から変えられる、それをパウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)と語っています。
食べて自分の血肉となった御言葉こそ、伝えられます。皆さんが主イエスに出会って救われた証が、その代表的なものです。そこからさらに伝えていくためには、御言葉をいただき続けることが大切です。私たちは人間ですから、お腹がはちきれんばかり食べれば、何か月も食べなくてすむということはありません。眠っている時も、体がつくられたり回復するためにも日ごとの食べ物が必要です。そして私たちの体だけでなく霊にとっても食べものが必要です。
御言葉は霊の糧です。すべてに恵まれ自分の願いどおりに生きたとしても虚しさが残るのは、この世のもので霊的に満たされることができないからです。私たちは霊的な存在、神と愛し合い御言葉によって満たされる者として造られました。御言葉を通して、主がどのようなお方なのかを知ることができます。愛する家族や友人と一緒にいたい、この人が何を喜ぶのか知ってその願いをかなえたいと思うのと同様に、御言葉をいただき祈ることは、神とともにすごし愛し合う恵みの時なのです。御言葉に触れる時に私たちは主に似た者に変えられ、いよいよ主と隣人を愛する者になります。礼拝で御言葉をいただくだけでなく、普段の生活でもできれば時間をきめて、聖書を少しずつ読んでみてください。必ず祝福となります。
エゼキエルは、神を知っているはずのユダの民に遣わされました。すでに主イエスを信じている私たちも、御言葉によって変えられることが必要です。主の御前に「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(黙示録3:1)信仰であるならば、悔い改めて、救われた初めの愛に立ち帰らせていただくよう主に求めましょう。
3.嘆き苦しみの御言葉を食べる時に、まことの甘さを知る。(2:10,3:3)
「『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。』わたしが口を開くと、主はこの巻物を私に食べさせて、言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ』。私がそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」(3:1~3)
御言葉を食べる。これは語る御言葉が預言者の思いからではなく、主に与えられるものであることを示します。つらい御言葉でしたが、エゼキエルがそれを食べると、蜜のように口に甘かったのです。厳しい、わからない、反発を覚える御言葉を食べさせられることがあるでしょう。しかし時間はかかるかもしれませんが、いつかその御言葉を通して私たちは驚くべき主の愛を知り、永遠の希望の甘みを味わいます。
主はエゼキエルに御言葉を食べさせました。エゼキエルがしたことは「口を開いたこと」だけです。主は御子による救いを備え、救われた者にはさらなる主との交わりの中で、きよめられ成長していく恵みを備えておられます。あとは私たちがそれを受け取って食べる。お従いすることです。
聖書には私たちについての「哀歌と呻きと嘆き」も記されています。御言葉によって私たちは自らの内を照らされ、罪を示されました。しかしそのことを通して、私たちの裁きを担って十字架にかかり、復活された主イエスを救い主と信じました。そして私たちは罪のゆるしを受け取り、主とともに生きる永遠の命に入れられた神の子とされたのです。聖書は御心に適った悲しみを抱かせます(Ⅱコリント7:8~11)。自分の罪に嘆いて悔い改める者は、言葉に言い表しえない救いの喜びにあずかります。
十字架があってこそ復活があり、救いがあります。主によって自分に死ぬことを通してこそ、本当に生きる者となるのです。エゼキエルはこれからユダの裁きを語っていきますが、エルサレム陥落の知らせの後は、イスラエルの回復と希望を語るようになります。罪が裁かれ悔い改めを経て、彼らは目に見える土地や神殿を越えた、神と共に生きる命を指し示す者とされるのです。
主は今、お一人おひとりに語りかけておられます。神はたえず私たちに、語ってこられました。御言葉を拒み続け、御自身を受け入れず滅びに向かおうとする私たちをご覧になり、はらわたが引き裂かれるほど苦しみ、お怒りになりました。それでも神は変わらない愛を持って、今も語っておられます。主がエゼキエル、そして私たちに、相手の反応がどうであれ語りなさいと命じられるのは、私たちがどんなに主を悲しませているかを知るとともに、そのような私たちにもかかわらず主が愛し続け、私たちをあきらめておられないことを、身をもって知るためです。
御言葉を語る小さな一人ひとりを通して、私たちは救われました。私で止めてしまうわけにはいきません。
主は滅びに向かう民のために、そして私のためにうめき嘆かれました(ホセア11:8)。そして御子をつかわして救いの道を開いてくださいました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15:34)御子はわたしたちが受けるべき裁きを受け、私たちの叫びを叫んで、十字架にかかってくださいました。この主の叫びがまさにこの私のためだったと知る時、私たちはキリストの心を心とするのです。
同時代の預言者エレミヤは、エゼキエルと同じような拒絶や厳しい迫害の中で、御言葉を語ることをやめようとします。しかし彼は告白します。「主の名を口にすまい もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がります。」(エレミヤ20:9)民に対する主のご愛を、エレミヤは押さえつけることができませんでした。それはいつしか彼の心となっていきます。御言葉によって主イエスこそ私の救い主である、主は死なれたけれども、復活し今も生きておられると知る時、私たちの心は燃やされます(ルカ24:32)。
聖書の解説なら信じていなくてもできます。けれども神は、御言葉を食べたあなたにしかできないのだと、福音を宣べ伝えるために私たちを用いられます。愛する人に最後に残せるもの、朽ちることなく争うこともない最高のものは、福音です。主はあなたを遣わされます。私を愛して救ってくださった神は、あなたのことも愛しておられる。あなたを救うために御子をお与えくださったのだと、お伝えしましょう。